52.消えゆく少女
川の中で、奏の体が銀色の光に包まれた。
同時に、僕の右目が焼けるように痛んだ。
「うわっ!」
視界が、真っ白になる。
いや、白じゃない。
銀色だ。
世界が、銀色の光に包まれて――
◆
『――溺れる』
水の中。
7歳の僕が、手足をバタつかせている。
冷たい。
暗い。
肺が、苦しい。
『助けて』
『誰か』
『お母さん』
意識が、遠のいていく。
その時――
銀色の光が、水の中に差し込んだ。
少女が、現れた。
黒いワンピース。
銀色の髪。
透き通るような肌。
人間じゃない。
何か、もっと別の存在。
『――契約する?』
少女の声が、頭の中に響く。
『私と契約すれば、助けてあげる』
『誰……?』
『死神』
少女が、僕の頭に手を置いた。
『あなたは、今日ここで死ぬ運命だった』
『でも、私はあなたが好きになった』
『え……?』
『だから、助けたい』
少女――奏が、優しく微笑んだ。
『契約すれば、あなたは1秒だけ時間を巻き戻せる能力を得る』
『その代わり、使うたびにあなた自身が削られていく』
『記憶が消える。感覚が消える。存在が消える』
『それでも、いい?』
7歳の僕は、何もわからなかった。
ただ、溺れて苦しかった。
助かりたかった。
『……助けて』
僕は、奏の手を取った。
その瞬間――
世界が、光に包まれた。
契約が、結ばれた。
◆
場面が変わる。
小学4年生。
僕は、結衣と廊下を歩いていた。
「廻くん、明日の遠足、楽しみだね」
「うん」
結衣が、嬉そうに笑う。
僕は、その笑顔が好きだった。
ずっと見ていたかった。
ずっと一緒にいたかった。
vendors
遠足の班分けで、僕と結衣は別々のグループになった。
『……嫌だ』
僕は、トイレの個室で一人、呟いた。
『結衣ちゃんと、一緒がいい』
そして――
右目に、力を込めた。
ズキン、と痛みが走る。
世界が、1秒だけ巻き戻った。
くじ引きの瞬間に戻る。
今度は、違う紙を引く。
結果が変わる。
「やった! 廻くん、同じ班だね!」
結衣が、嬉しそうに笑った。
でも――
僕の視界から、色が少しだけ失われた。
世界が、少しだけ灰色になった。
そして、廊下の隅に――
奏がいた。
銀髪の少女。
誰にも見えない、僕だけに見える少女。
泣いていた。
『廻……やめて』
心の中に、声が響く。
『お願い。能力、使わないで』
『大丈夫だよ』
僕は、心の中で答えた。
『ちょっとだけだから』
でも、それは嘘だった。
僕は、何度も何度も能力を使った。
結衣と同じ班になるために。
結衣の隣の席になるために。
結衣と一緒に帰るために。
その度に――
何かが失われていった。
◆
中学1年。
図書室。
僕は、結衣と一緒に宿題をしていた。
「廻くん、この問題わかる?」
「うん、ちょっと待って」
僕が問題を解こうとした時、間違えた。
『……あ』
でも、大丈夫。
能力を使えばいい。
右目に力を込める。
1秒、巻き戻す。
やり直す。
今度は、正解を導き出す。
「すごい! 廻くん、頭いいね」
結衣が、尊敬の眼差しで見てくる。
嬉しい。
もっと、褒められたい。
もっと、認められたい。
だから――
能力を使った。
5回。
10回。
50回。
その度に――
僕の中から、何かが消えていった。
味覚が鈍る。
甘いものの味が、わからなくなる。
触覚が消える。
痛みを、感じなくなる。
感情が平坦になる。
悲しみも、怒りも、薄れていく。
そして、記憶が消えていく。
「廻、修学旅行の時、どこ行った?」
友達が聞く。
「……覚えてない」
修学旅行の記憶が、ない。
小学校の運動会の記憶も、ない。
母さんの誕生日も、思い出せない。
失われていく。
僕自身が、削られていく。
でも、やめられなかった。
結衣と一緒にいたかった。
結衣に愛されたかった。
そのためなら、何を失ってもいいと思っていた。
廊下の隅で、奏が泣いていた。
でも、僕は見ないふりをした。
◆
中学2年。
夏休み。
僕と結衣は、二人で花火大会に行った。
「わあ、綺麗!」
結衣が、夜空を見上げる。
花火が、色とりどりの光を放っている。
「廻くん、見て見て!」
「うん」
僕も、花火を見上げた。
でも――
色が、見えなかった。
赤も、青も、緑も。
全部、灰色に見える。
いつの間にか、色覚を失っていた。
能力の代償として。
『廻』
奏の声が、頭の中に響く。
『もう、やめて』
『お願い』
『これ以上使ったら、あなたは――』
『うるさいな』
僕は、心の中で叫んだ。
『黙ってろよ』
『……っ』
奏の声が、途切れた。
泣き声だけが、かすかに聞こえた。
でも、僕は無視した。
花火が終わって、結衣と一緒に帰った。
手を繋いで。
でも、その温もりも、よくわからなかった。
触覚が、ほとんど消えていた。
『大丈夫』
僕は、自分に言い聞かせた。
『結衣ちゃんと一緒にいられれば、それでいい』
でも、僕の体は――
もう、半分透けていた。
存在が、薄くなっていた。
誰も気づいていなかった。
いや、気づいていても、記憶が書き換わっていた。
「廻って、いつもこんな感じだったっけ?」
「そうだよ」
「そっか」
世界が、僕の存在を忘れ始めていた。
◆
中学3年。
2月14日。
バレンタインデー。
大雪の日。
「廻くん、一緒にチョコ買いに行こう」
結衣が、僕の手を引いた。
「うん」
二人で、街に出た。
雪が、激しく降っている。
寒い。
でも、その寒さも、よくわからない。
感覚が、ほとんど消えていた。
「廻くん、寒くない?」
「大丈夫」
僕は、笑顔を作った。
でも、自分が笑っているのかどうかも、よくわからなかった。
チョコを買って、帰ることにした。
交差点。
青信号。
結衣と手を繋いで、渡り始めた。
その時――
『廻!』
奏の叫び声が、頭の中に響いた。
『危ない!』
大型トラックが、スリップして突っ込んできた。
赤信号を無視して。
ブレーキの音。
結衣の悲鳴。
僕は、とっさに能力を使おうとした。
右目に力を込める。
でも――
何も起きない。
能力が、発動しない。
使いすぎて、もう限界だった。
トラックが、迫ってくる。
このままじゃ、死ぬ。
結衣も、死ぬ。
『――あなたを、死なせるわけにはいかない』
奏の声が、響いた。
銀色の光が、世界を包み込む。
時間が、止まる。
いや、止まったんじゃない。
巻き戻っている。
1秒じゃない。
1年じゃない。
10年でも足りない。
17年。
2024年から、2007年へ。
中学3年から、生まれる前へ。
そして、また生まれ直して――
2016年、8月12日。
神社の裏山。
岩場。
僕は、7歳に戻っていた。
記憶を失って。
契約を忘れて。
奏のことも、結衣への想いも、全て忘れて。
まっさらな状態で。
『――ごめんなさい』
奏の声が、遠くから聞こえた。
『私、契約を破る』
『あなたの記憶も、私の記憶も、全部消す』
『もう一度、対等な立場で出会いたい』
『今度こそ、あなたに愛されたい』
『今度こそ――』
そして、世界が光に包まれた。
◆
「――っ!」
視界が戻った。
僕は、川のほとりで膝をついていた。
全部、思い出した。
10年間の記憶。
僕が結衣に恋して。
能力を使いすぎて。
消えかけて。
奏を苦しめて。
反映されるのは、奏が――
全てを犠牲にして、時間を巻き戻した。
「奏!」
僕は、川の中に立つ奏を見た。
奏も、目を開けていた。
その目から、涙が滝のように流れていた。
「思い出した……」
奏の声が、震えている。
「全部……全部、思い出した」
奏が、川から上がろうとする。
でも、足がもつれた。
「奏!」
僕が駆け寄る。
奏を抱きとめる。
その体が、恐ろしく軽い。
まるで、空気のように。
「ごめん」
僕は、泣きながら言った。
「ごめん、ごめん、ごめん」
「廻くん……」
「僕が馬鹿だった」
「違う」
「能力を使いすぎて」
「違う」
「奏を、苦しめて」
「違う!」
奏が、僕の顔を両手で包んだ。
「廻くんは、何も悪くない」
「でも」
「私が、隠してたの」
奏の涙が、僕の顔に落ちる。
「契約のこと。代償のこと。全部」
「……」
「だって、愛してたから」
奏が、泣き笑いをする。
「愛してたから、苦しませたくなかった」
「奏……」
「でも、馬鹿だった」
奏が、俯く。
「結局、廻くんは苦しんだ」
「……」
「能力を使いすぎて、消えかけた」
「それは、僕の責任だ」
「違う」
奏が、首を横に振る。
「私の責任」
「奏……」
「ごめんなさい」
奏が、僕の胸に顔を埋めた。
「本当に、ごめんなさい」
僕も、奏を抱きしめた。
二人で、泣いた。
「ごめん」
「ごめん」
「ありがとう」
「ありがとう」
言葉にならない想いが、涙になって溢れ出す。
少し離れた場所で、結衣も泣いていた。
声を上げて、泣いていた。
◆
しばらくして、僕たちは少し落ち着いた。
岩に腰を下ろす。
「契約、解除できた?」
結衣が、涙を拭いながら聞いた。
奏が、自分の手を見る。
「……ダメ」
まだ、透けていた。
というより、さっきよりも透けていた。
「記憶が戻っただけで、契約は解除されてない」
奏が、悲しそうに言う。
「やっぱり、8月31日じゃないとダメなのかも」
「8月31日……」
僕が呟く。
「なんで、その日じゃないとダメなんだろう」
「契約を結んだ日だから」
奏が答える。
「2014年8月31日、ここで契約した」
「じゃあ、ちょうど10年後の8月31日に……」
「うん。契約の周期が一巡する」
奏が、川を見つめる。
「その日なら、契約を解除できるかもしれない」
「あと、3ヶ月……」
結衣が、不安そうに言った。
「奏ちゃん、持つの?」
「……わからない」
奏が、正直に答えた。
「でも、やるしかない」
その時、奏の体がまた大きく揺れた。
「っ」
奏が、岩にもたれかかる。
でも――
体が、岩を突き抜けた。
「え?」
奏が、驚いて自分の体を見る。
もう、ほとんど透明になっていた。
向こう側の景色が、はっきり見える。
「奏!」
僕が、慌てて抱きしめる。
でも、僕の腕も――
奏の体を、すり抜けそうになった。
「やだ……」
奏が、泣き出す。
「触れなくなる……廻くんにも、触れなくなる」
「大丈夫」
僕は、必死に奏を掴む。
意識を集中させる。
「絶対に、離さない」
不思議と、意識を集中させると、奏に触れることができた。
まるで、契約の力が残っているかのように。
「廻くん……」
「大丈夫。ちゃんと触れてる」
僕は、奏を抱きしめた。
その体が、あまりにも軽くて。
あまりにも儚くて。
涙が、止まらなかった。
「8月31日まで、絶対に守る」
「……うん」
「絶対に、消えさせない」
「……ありがとう」
奏が、僕の胸で泣いていた。
結衣も、二人を見守りながら泣いていた。
太陽が、高く昇っていた。
5月の光が、眩しかった。
でも、その光の中で――
奏の姿は、どんどん薄くなっていった。




