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さよならの陽炎を、追いかけて  作者: 七瀬 澪
第一章「1秒の対価」

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4. 陽炎の告白

図書室を逃げ出した僕が辿り着いたのは、立ち入り禁止の鎖が外れたままの屋上だった。  

錆びついたフェンスの向こう側、街全体がオレンジ色の絵具をぶちまけたような夕日に染まっている。  


「……まだ、色は残ってるな」


独り言のように呟いて、手すりに背中を預ける。  

自分の手のひらを見つめてみるが、そこにあるはずの「赤み」が、西日の反射なのか、それとも感覚の欠落なのか、判別がつかない。

視界の端が、古びた映画のフィルムのように、時折チリチリと焼けるような違和感ノイズを伴っている。


 すると、給水タンクの巨大な影の中から、パリッ、という乾いた音がした。


「……あ」


空乃奏だった。

彼女はコンクリートの上にじかに座り込み、ポテトチップスの袋を膝に乗せていた。  


「相沢くんも、一枚食べる? 期間限定の『真夏の激辛チリ味』。……全然辛くないけど」


「……いらない。お前、よくそんなところで平気で食えるな。学校の屋上で一人ポテチとか、シュールすぎるだろ」


「座ってるとお尻が痛いから、一枚食べるごとに少しずつ位置をずらしてるの。こうして時計回りに回っていると、自分が日時計の針になったみたいで、少しだけ世界に馴染めている気がする」


奏は淡々とポテトチップスを咀嚼しながら、事も無げに言った。


その瞳は夕日に透けて、底の見えない硝子玉のように空っぽだ。


「……馴染めてるって、お前はここの生徒だろ。何を客観的に喋ってるんだよ」


「そうね。でも、馴染めていないのは、あなたの方じゃない? ……ねえ、さっきのイチゴオレ、美味しかった?」


不意に投げられた問いに、心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。  


「……何のことだよ。差し入れをもらって、うまいって言っただけだ。それのどこに、お前に詮索される要素がある」


「嘘。耳元で、さっきより大きな音がしたわ。パキン、って。あなたが、誰にも気づかれずに世界を壊した音。今の図書室、上手くいった? あの子、ちゃんと笑ってくれた?」


彼女には、隠し事が一切通じない。


僕は誤魔化すのを諦め、隣のフェンスに体重を預けた。


錆びた鉄の冷たさが、じわりと手のひらに伝わる――はずなのに、その感触さえどこか遠い。


「……あいつが、変な顔をしたからだ。俺が選んだ飲み物がマズかったんじゃないかって、一瞬だけ不安そうな目をした。……あいつに、そんな顔をさせたくない。たった一秒戻せば、あいつは笑顔のままでいられる。俺一人が、一秒ぶん余計に砂を噛むだけで済むなら、それでいいだろ」


「優しいのね。……でも、このポテトチップスみたい」


「……は?」


「これ、パッケージにはすごく美味しそうな、燃えるような唐辛子の絵が描いてあるけど。中身はただの、色のついた薄い芋。……あなたが必死に作り直している『幸せな時間』も、中身がスカスカな気がする。あ、これ、やっぱり後から辛くなってきた。失敗。喉の奥が、すごく変な感じ」


奏は顔をしかめることもなく、感情の抜けた声でそう漏らした。


「失敗なら食うなよ」


「失敗を味わうのも、自由でしょ。……ねえ、相沢くん。明日、雨降ると思う?」


唐突すぎる話題の転換。彼女の会話には、文脈というものがない。


「……予報では晴れだ。最高気温三十五度。絶好の熱中症日和だろ。それがどうした」


「でも、もし明日、あの子が大切にしているお気に入りの靴を履いてきて、あなたが『雨が降ればいいのに』って思ったら、世界は雨に変わるの?」


「……そんな大きなことはできない。俺ができるのは、せいぜい数秒の書き換えだ。神様になったつもりはないよ」


「でも、一秒を変えるのは、世界全部を変えるのと同じことよ。一秒先にあるはずだった未来を殺して、別の死体をそこに置くんだから。……あ、ほら。あのアパートの洗濯物、取り込み始めたわよ」


奏が指差した先。夕暮れの中、向かいのアパートのベランダでタオルを回収する人影が見えた。


「さっき、あのアパートの三階の窓で、カーテンが揺れたでしょ。中の人が料理の味付けを失敗したのか、それとも見ていたテレビで嫌なニュースが流れたのか。世界はそういう、なんてことない『不快』や『痛み』の積み重ねで、少しずつ摩耗しながら進んでいく」


奏はゆっくりと立ち上がり、フェンスに指をかけた。

その指先は、夕日を吸い込んで透き通っている。


「でも、あなたはそれを許さない。誰かが不快にならないように、誰かが傷つかないように、全部を『正解』に書き換えていく。……でもね、相沢くん。あなたが守っているのは、本当のあの子なの? それとも、あなたが勝手に型を取って作り上げた、あの子の剥製なの?」


「……剥製って、ひどい言い方だな。俺はあいつが好きなんだ。好きなやつの笑顔を守って、何が悪い。あいつが笑ってさえいれば、それでいいだろ」


「あの子……結衣さんだっけ。あの子が本当に求めているのは、完璧に調律された毎日じゃなくて、一緒にイチゴオレがまずいって笑い合える、不完全なあなたなんじゃないの?」


図星だった。


やり直しを使わなければ、僕は失言し、結衣を怒らせ、いつか見放される。  

完璧な僕でなければ、彼女の隣に立つ資格がないと思い込んでいた。


「……お前にはわからないよ。俺があいつをどれだけ……」


「わからないわ。私は、あなたが捨てた『ゴミ箱の中身』しか知らないもの。……ねえ、相沢くん。あそこで走ってるサッカー部の子。さっき転んで膝を擦りむいたの、見てた?」


校庭では、部活終わりの生徒たちが、影を長く引きずりながら撤収作業をしていた。


「見てない。興味もない」


「すごく痛そうだった。血が滲んで、きっと明日はお風呂に入るのも辛い。……でも、あの子、そのあと友達に肩を叩かれて笑ってた。痛みがあるから、その後の安らぎが甘くなるのに。あなたは、その工程を全部すっ飛ばして、結果だけを貼り付けていく。……あなたが今、イチゴオレの味を感じられないのは、幸せだけを抽出しすぎて、心が壊れちゃったからじゃない?」


奏の言葉は、静かな刃物だった。  


痛覚がないはずの僕の心が、その瞬間、確かに疼いた。


「相沢くん。一つ、確認してもいい?」


「……なんだよ」


「私の髪、綺麗だなって思う?」


「……え? ああ、まあ。銀色なんて、アニメのキャラみたいだしな。……綺麗だとは思うよ」


「これ、本当はもっと汚い色だったのよ。あなたが捨てた『悲しい一秒』や『屈辱の一瞬』を、私がこのノートと一緒に全部拾い集めるから。不純物を取り除きすぎて、こんなに透明で、冷たい色になっちゃった。……拾い物係も、結構大変なんだから。肩が凝るし、たまに耳鳴りが止まらなくなるの」


奏は自分の髪を一房すくい、僕の目の前に差し出した。  


夕日にかざされたその髪は、眩しいほどに白く、そしてどこか、生身の人間のものではないような無機質な輝きを放っていた。


「相沢くん。本当の自分を、一度だけやり直してみる勇気はある? 書き換えられた昨日じゃなくて、ぐちゃぐちゃで、不細工な明日を。……あなたが自分という形を完全に失ってしまう前に」


彼女の問いかけに、僕は答えることができなかった。  


答える代わりに、僕はまた右目の奥に力を込めそうになった。


この「不愉快な会話」自体を、なかったことにしたくて。    


だが、奏の瞳がそれを許さなかった。  


「……また明日、相沢くん。明日は終業式。もっともっと、暑くなるみたいよ」


彼女は空になったポテトチップスの袋を丁寧に折り畳むと、それをノートの間に挟み、僕の返事を待たずに屋上の出口へと歩き出した。  


すれ違いざま、彼女から雨上がりのような、ひやりとした匂いがした。


僕は一人、屋上に残された。  


右目の奥で、またパキンと、乾いた音が響いたような気がした。  


それは世界が戻る音ではなく、僕の足元にあるはずの影が、少しずつ、けれど確実に薄まっていく音だった。

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