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さよならの陽炎を、追いかけて  作者: 七瀬 澪
第四章 「さよならの陽炎」

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39. 約束の川

午後、陽射しがさらに強くなった。


僕たちは木陰に移動して、休憩することにした。


岩に腰を下ろし、持ってきたお茶を飲む。


冷たくて、美味しい。


「ねえ、廻くん」


奏が、川を見つめながら言った。


「この川、なんだか懐かしい」


「懐かしい?」


「うん。初めて来た気がしないの」


彼女の横顔が、少し寂しそうだった。


「もしかしたら、記憶を失くす前に、ここに来たことがあるのかもね」


「……そうかもしれない」


奏が、水面に手を伸ばす。


その指先が、水に触れる寸前で止まった。


「怖い」


「え?」


「この川が、怖い」


彼女の声が震えていた。


「なんでかわからないけど……すごく、怖い」


僕は、奏の肩を抱き寄せた。


「大丈夫。僕がいるから」


「……うん」


奏が、僕の胸に顔を埋める。


その体が、小刻みに震えていた。


何か、彼女の記憶の奥底に、この川にまつわる恐怖が眠っているのかもしれない。


でも、それが何なのかはわからない。


しばらく、そうして抱き合っていた。


川のせせらぎと、蝉の声だけが、世界を満たしていた。



夕方近くになって、僕たちは帰ることにした。


川から上がり、タオルで体を拭く。


「楽しかったね」


「うん」


奏が笑う。


でも、その笑顔の奥に、まだ不安が残っているのが見えた。


帰り道、僕たちは手を繋いで山道を下った。


西日が、木々の間から差し込んでくる。


「ねえ、廻くん」


「うん?」


「今日、ありがとう」


「何が?」


「一緒にいてくれて」


奏が、立ち止まって僕を見た。


「私ね、ずっと一人だった気がするの」


「一人?」


「うん。記憶はないけど、ずっとずっと、誰にも見えない場所で、一人ぼっちだった気がする」


その言葉が、胸に突き刺さった。


「でも、廻くんは違った」


奏の目に、涙が浮かんでいた。


「廻くんは、私を見つけてくれた。手を繋いでくれた。名前をくれた」


「奏……」


「だから、今日が怖かったの。もしかしたら、また一人になっちゃうんじゃないかって」


僕は、奏を強く抱きしめた。


「絶対に、一人になんてさせない」


「本当?」


「本当だよ。約束する」


奏が、僕の背中に腕を回す。


その腕の力が、とても弱くて、儚い気がした。


まるで、今にも消えてしまいそうな。


「……廻くん」


「うん」


「私ね、廻くんのこと、好き」


その言葉を聞いた瞬間、胸が熱くなった。


「僕も」


「本当?」


「本当だよ。僕も、奏のことが好き」


奏が、顔を上げて僕を見た。


涙で濡れた瞳。


それでも、笑顔だった。


「じゃあ、約束ね」


「何を?」


「ずっと一緒にいるって」


「うん。約束する」


僕たちは、小指を絡めた。


「指切りげんまん、嘘ついたら針千本飲ます」


「指切った」


夕日が、二人を照らしている。


長く伸びた影が、一つに重なっている。


この瞬間が、永遠に続けばいいのに。


そう思った。



家に帰ると、母さんが夕飯の準備をしていた。


「おかえりなさい。楽しかった?」


「うん、すごく楽しかった」


奏が、嬉しそうに答えた。


「そう。よかったわ。……あら、奏ちゃん、ちょっと日焼けしたわね」


「本当?」


奏が、自分の腕を見る。


少し赤くなっている。


「大丈夫。すぐ治るわよ。お風呂に入って、冷やしなさい」


「はい」


夕飯は、カレーライスだった。


夏野菜がたっぷり入った、美味しいカレー。


「いただきます」


一口食べると、スパイスの香りが口いっぱいに広がる。


「美味しい」


奏が、幸せそうに目を細める。


その顔を見ていると、今日の不安が嘘みたいだった。


大丈夫。


奏は、ここにいる。


消えたりしない。


そう信じたかった。


食後、僕たちは一緒に皿洗いをした。


「ねえ、廻くん」


「うん?」


「明日も、一緒に遊ぼうね」


「もちろん」


「その次の日も」


「うん」


「その次の日も」


「……ずっとだよ」


僕は、奏の頭を撫でた。


銀色の髪が、指の間をすり抜ける。


柔らかくて、サラサラしていて。


でも、どこか儚い気がした。



夜。


僕は部屋で、窓の外を眺めていた。


月が出ている。


少し欠けた月。


満月から、少しずつ小さくなっている。


ふと、奏の部屋から音がした。


気になって、廊下に出る。


奏の部屋の前に立つと、中から小さな声が聞こえた。


「……大丈夫。大丈夫だよ」


彼女は、自分に言い聞かせているようだった。


「消えない。消えたりしない。廻くんが、守ってくれるから」


その声が、あまりにも不安そうで。


僕は、ドアをノックした。


「奏、起きてる?」


「……廻くん?」


ドアが開いた。


奏が、パジャマ姿で立っていた。


「眠れないの?」


「……うん」


「僕もだよ」


僕は、彼女の手を取った。


「一緒に、縁側に行こうか」


「うん」


僕たちは、手を繋いで縁側に出た。


夜風が、心地よい。


月明かりが、庭を照らしている。


「綺麗だね」


「うん」


奏が、月を見上げた。


「ねえ、廻くん」


「うん?」


「今日、川で願い事したよね」


「うん」


「私、何を願ったか、言ってもいい?」


「うん」


奏が、僕の方を向いた。


月明かりに照らされた彼女の顔が、透き通るように美しかった。


「廻くんと、ずっと一緒にいられますように、って」


「……僕も、同じこと願ったよ」


「本当?」


「本当」


奏が、嬉しそうに笑った。


「じゃあ、きっと叶うね」


「うん。絶対に」


僕たちは、月を見上げた。


夏の夜空に、星が瞬いている。


どこか遠くで、虫の音が聞こえる。


奏の手を握る僕の手に、力を込める。


絶対に、離さない。


何があっても。


この約束だけは、絶対に守る。


(大丈夫)


僕は、心の中で何度も繰り返した。


(奏は、消えたりしない)


でも、心の奥底では、不安が渦巻いていた。


今日、川で見た、透けかけた彼女の姿。


震えていた、儚い体。


もしかしたら――


いや、考えるのはやめよう。


今は、この手の温もりだけを信じよう。


「おやすみ、廻くん」


「おやすみ、奏」


奏が、部屋に戻っていく。


その背中を見送りながら、僕は祈った。


明日も、彼女に会えますように。


明後日も、その次の日も。


ずっと、ずっと。


月が、静かに僕を見下ろしていた。


その光は優しいけれど、どこか冷たかった。

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