39. 約束の川
午後、陽射しがさらに強くなった。
僕たちは木陰に移動して、休憩することにした。
岩に腰を下ろし、持ってきたお茶を飲む。
冷たくて、美味しい。
「ねえ、廻くん」
奏が、川を見つめながら言った。
「この川、なんだか懐かしい」
「懐かしい?」
「うん。初めて来た気がしないの」
彼女の横顔が、少し寂しそうだった。
「もしかしたら、記憶を失くす前に、ここに来たことがあるのかもね」
「……そうかもしれない」
奏が、水面に手を伸ばす。
その指先が、水に触れる寸前で止まった。
「怖い」
「え?」
「この川が、怖い」
彼女の声が震えていた。
「なんでかわからないけど……すごく、怖い」
僕は、奏の肩を抱き寄せた。
「大丈夫。僕がいるから」
「……うん」
奏が、僕の胸に顔を埋める。
その体が、小刻みに震えていた。
何か、彼女の記憶の奥底に、この川にまつわる恐怖が眠っているのかもしれない。
でも、それが何なのかはわからない。
しばらく、そうして抱き合っていた。
川のせせらぎと、蝉の声だけが、世界を満たしていた。
◆
夕方近くになって、僕たちは帰ることにした。
川から上がり、タオルで体を拭く。
「楽しかったね」
「うん」
奏が笑う。
でも、その笑顔の奥に、まだ不安が残っているのが見えた。
帰り道、僕たちは手を繋いで山道を下った。
西日が、木々の間から差し込んでくる。
「ねえ、廻くん」
「うん?」
「今日、ありがとう」
「何が?」
「一緒にいてくれて」
奏が、立ち止まって僕を見た。
「私ね、ずっと一人だった気がするの」
「一人?」
「うん。記憶はないけど、ずっとずっと、誰にも見えない場所で、一人ぼっちだった気がする」
その言葉が、胸に突き刺さった。
「でも、廻くんは違った」
奏の目に、涙が浮かんでいた。
「廻くんは、私を見つけてくれた。手を繋いでくれた。名前をくれた」
「奏……」
「だから、今日が怖かったの。もしかしたら、また一人になっちゃうんじゃないかって」
僕は、奏を強く抱きしめた。
「絶対に、一人になんてさせない」
「本当?」
「本当だよ。約束する」
奏が、僕の背中に腕を回す。
その腕の力が、とても弱くて、儚い気がした。
まるで、今にも消えてしまいそうな。
「……廻くん」
「うん」
「私ね、廻くんのこと、好き」
その言葉を聞いた瞬間、胸が熱くなった。
「僕も」
「本当?」
「本当だよ。僕も、奏のことが好き」
奏が、顔を上げて僕を見た。
涙で濡れた瞳。
それでも、笑顔だった。
「じゃあ、約束ね」
「何を?」
「ずっと一緒にいるって」
「うん。約束する」
僕たちは、小指を絡めた。
「指切りげんまん、嘘ついたら針千本飲ます」
「指切った」
夕日が、二人を照らしている。
長く伸びた影が、一つに重なっている。
この瞬間が、永遠に続けばいいのに。
そう思った。
◆
家に帰ると、母さんが夕飯の準備をしていた。
「おかえりなさい。楽しかった?」
「うん、すごく楽しかった」
奏が、嬉しそうに答えた。
「そう。よかったわ。……あら、奏ちゃん、ちょっと日焼けしたわね」
「本当?」
奏が、自分の腕を見る。
少し赤くなっている。
「大丈夫。すぐ治るわよ。お風呂に入って、冷やしなさい」
「はい」
夕飯は、カレーライスだった。
夏野菜がたっぷり入った、美味しいカレー。
「いただきます」
一口食べると、スパイスの香りが口いっぱいに広がる。
「美味しい」
奏が、幸せそうに目を細める。
その顔を見ていると、今日の不安が嘘みたいだった。
大丈夫。
奏は、ここにいる。
消えたりしない。
そう信じたかった。
食後、僕たちは一緒に皿洗いをした。
「ねえ、廻くん」
「うん?」
「明日も、一緒に遊ぼうね」
「もちろん」
「その次の日も」
「うん」
「その次の日も」
「……ずっとだよ」
僕は、奏の頭を撫でた。
銀色の髪が、指の間をすり抜ける。
柔らかくて、サラサラしていて。
でも、どこか儚い気がした。
◆
夜。
僕は部屋で、窓の外を眺めていた。
月が出ている。
少し欠けた月。
満月から、少しずつ小さくなっている。
ふと、奏の部屋から音がした。
気になって、廊下に出る。
奏の部屋の前に立つと、中から小さな声が聞こえた。
「……大丈夫。大丈夫だよ」
彼女は、自分に言い聞かせているようだった。
「消えない。消えたりしない。廻くんが、守ってくれるから」
その声が、あまりにも不安そうで。
僕は、ドアをノックした。
「奏、起きてる?」
「……廻くん?」
ドアが開いた。
奏が、パジャマ姿で立っていた。
「眠れないの?」
「……うん」
「僕もだよ」
僕は、彼女の手を取った。
「一緒に、縁側に行こうか」
「うん」
僕たちは、手を繋いで縁側に出た。
夜風が、心地よい。
月明かりが、庭を照らしている。
「綺麗だね」
「うん」
奏が、月を見上げた。
「ねえ、廻くん」
「うん?」
「今日、川で願い事したよね」
「うん」
「私、何を願ったか、言ってもいい?」
「うん」
奏が、僕の方を向いた。
月明かりに照らされた彼女の顔が、透き通るように美しかった。
「廻くんと、ずっと一緒にいられますように、って」
「……僕も、同じこと願ったよ」
「本当?」
「本当」
奏が、嬉しそうに笑った。
「じゃあ、きっと叶うね」
「うん。絶対に」
僕たちは、月を見上げた。
夏の夜空に、星が瞬いている。
どこか遠くで、虫の音が聞こえる。
奏の手を握る僕の手に、力を込める。
絶対に、離さない。
何があっても。
この約束だけは、絶対に守る。
(大丈夫)
僕は、心の中で何度も繰り返した。
(奏は、消えたりしない)
でも、心の奥底では、不安が渦巻いていた。
今日、川で見た、透けかけた彼女の姿。
震えていた、儚い体。
もしかしたら――
いや、考えるのはやめよう。
今は、この手の温もりだけを信じよう。
「おやすみ、廻くん」
「おやすみ、奏」
奏が、部屋に戻っていく。
その背中を見送りながら、僕は祈った。
明日も、彼女に会えますように。
明後日も、その次の日も。
ずっと、ずっと。
月が、静かに僕を見下ろしていた。
その光は優しいけれど、どこか冷たかった。




