3. 放課後の調律
図書室の窓際、西日に焼かれた古い紙の匂いが、鼻の奥をちりちりと刺激する。
廻は一人、返却された本の整理をしていた。
「おっつ、廻。今日も真面目に図書委員やってんね」
背後から、少しふざけたような声がした。
振り返るまでもなく結衣だ。
彼女は机の上に、自販機で買ったばかりのイチゴオレを二本、コトッと置いた。
「これ、今日の給料。私の分の本も片付けといて」
「……お前、図書委員の仕事をなんだと思ってんだ。っていうか、これ一本で俺を雇うには安すぎだろ」
「えー、ケチ。じゃあ、明日の購買のパンも奢ってあげようか? 焼きそばパン、争奪戦に勝てたらだけど」
結衣は椅子に反対向きに座り、あごを背もたれに乗せて僕を見上げた。
夏服の白いブラウスが、西日に透けて眩しい。
「……無理だな。お前、チャイム鳴る前に弁当広げるタイプだろ」
「失礼な! ちゃんと一分前には教科書しまってるよ」
そんな、なんてことない雑談。
廻は少しだけ口角を緩め、差し出されたイチゴオレのストローを刺した。
これを飲んで、「甘いな」と笑う。
それがいつもの僕たちの放課後のルーティンだった。
一口、喉に流し込む。
「……っ」
瞬間、廻の表情が凍りついた。
舌の上で転がったのは、甘みでも冷たさでもなかった。
それは、ひどく泥臭く、錆びた鉄を舐めているような、不快極まりない無機質な感触だった。
「……ねえ、廻? どうしたの、そんな顔して。そんなにマズかった?」
結衣が首を傾げ、覗き込んでくる。
その瞳に、ほんの少しだけ「私が選んだのがダメだったかな」という不安の色が混じる。
その表情を見たくなくて、廻の右目が勝手に熱を帯びた。
パキン。
一秒、戻す。
「えー、ケチ。じゃあ、明日の購買のパンも奢ってあげようか?」
「……ああ。期待しとくよ」
廻は、今度は迷わずにイチゴオレを啜った。
やはり、味はしない。
それどころか、喉を通る液体が自分の体内の何かを削り取っていくような感覚さえある。
それでも、彼は喉の奥の拒絶感を無視して笑ってみせた。
「……うまいよ。やっぱり夏はこれだな」
「でしょ? 廻、これ飲まないと夏バテで倒れそうだもんね」
結衣は嬉しそうに笑い、自分の分のパックを飲み始める。
廻は、笑っている彼女の顔を直視しようとした。
だが、その視界が不自然に歪む。
結衣が胸元につけている指定のリボンの色が、まるで彩度を急激に下げた写真のように、くすんだ灰色に滲んでいく。
「……なあ、結衣。そのリボン、そんな色だったか?」
「え? なに急に。これ、三年間ずっと同じのだよ? 廻、もしかして暑さで頭やられた?」
「……いや、そうだったな。光の加減か」
「もー、しっかりしてよ。あ、そうそう! さっき奏ちゃんと話してたでしょ? 何話してたの? 廻が転校生と自分から話すなんて、なんか太陽が西から昇りそう」
結衣はからかうように目を細める。
「別に、消しゴム拾ってやっただけだ」
「へぇー、紳士だねぇ。でも気をつけてよ? 空乃さん、すっごい美人だし。廻が鼻の下伸ばしてたら、私が後ろから回し蹴り入れるから」
「……誰が伸ばすかよ。お前の蹴り、マジで痛いんだからやめろ」
そんな軽口を叩き合いながら、廻は必死に結衣の声を追いかけた。
彼女の声が、少しずつ、ラジオのチューニングがずれていくようにノイズ混じりになっていく。
「ふふ、冗談だってば。……あ、そうだ。今夜のお祭り、楽しみだね。私、浴衣着るから。絶対、綺麗だって言わせてやるんだからね」
結衣は僕の腕を軽く叩いて笑った。
その衝撃。
触れられた場所が、氷を押し当てられたように冷たかった。
いや、冷たいのは結衣の手ではなく、僕の感覚なのだ。
色彩が消え、味が消え、触覚が死んでいく。
結衣との「完璧な日常」を守れば守るほど、僕は彼女と同じ世界に立てなくなっていく。
廻は、空になった紙パックを、痛む右目と同じ強さで握り潰した。
グシャリ、という鈍い音が、今の彼にはひどく遠く、他人事のように響いていた。




