38. 繰り返す夏
8月15日。
目が覚めた瞬間、胸騒ぎがした。
今日が、何か特別な日だという予感。
良いことなのか、悪いことなのかはわからない。
ただ、この日を迎えることが、運命だったような気がした。
「おはよう、廻くん」
リビングに行くと、奏がすでに席についていた。
銀色の髪が、朝日を浴びて輝いている。
「おはよう、奏」
彼女の顔を見ると、少し不安そうだった。
「どうしたの?」
「……なんでもない。ただ、今日が怖い気がして」
「僕もだよ」
二人、顔を見合わせる。
同じことを感じている。
この奇妙な共鳴が、僕たちを繋いでいる。
「でも、大丈夫」
僕は奏の手を握った。
「何があっても、一緒だから」
「……うん」
奏が、少しだけ安心したように微笑んだ。
◆
朝食を済ませた後、僕たちは準備を始めた。
川へ行く準備。
リュックに、タオルと着替えと水筒を詰める。
母さんが心配そうに言った。
「気をつけてね。深いところには行かないで」
「大丈夫だよ」
僕は笑顔で答えた。
でも、心の奥では、何かが引っかかっていた。
なぜ母さんは、わざわざ「深いところ」と言ったんだろう。
まるで、何か危険なことを知っているみたいに。
玄関を出る前、奏が立ち止まった。
「ねえ、廻くん」
「うん?」
「もし、私が……」
彼女は言いかけて、口をつぐんだ。
「なんでもない。行こう」
僕は、彼女の手を握った。
冷たい。
いつもより、ずっと冷たい気がした。
◆
途中、コンビニに寄った。
真夏の陽射しが、アスファルトを焼いている。
店内に入ると、冷房が心地よかった。
「お昼、何食べる?」
「おにぎりがいい」
奏が、おにぎりコーナーに向かう。
僕も後に続いた。
色とりどりのおにぎりが並んでいる。
梅、鮭、昆布、ツナマヨ、明太子。
どれも美味しそうだ。
僕が迷っていると、奏がすでに一つ手に取っていた。
「もう決めたの?」
「うん」
彼女の手には、ツナマヨのおにぎりがあった。
その選び方が、迷いなくて。
まるで、何百回も選んできたみたいに。
「……これがいいの。絶対に」
奏の声には、不思議な確信があった。
なぜそんなに強く言うのか、わからない。
でも、その真剣さに、僕は少し驚いた。
「そっか。じゃあ、僕もそれにしようかな」
「一緒?」
「うん」
奏が、嬉しそうに笑った。
僕たちは同じおにぎりを二つ買って、お茶も買った。
レジで会計を済ませて、外に出る。
真夏の熱気が、また僕たちを包み込んだ。
「暑いね」
「うん。でも、川に行けば涼しいよ」
「楽しみ」
奏が、少し不安そうだった顔から、笑顔に戻った。
それが嬉しかった。
僕は、彼女の笑顔を守りたい。
何があっても。
◆
神社の裏山に入ると、蝉の声が激しくなった。
ミンミンミン。
ジリジリジリ。
耳が痛くなるほどの大合唱。
「うるさいね」
「夏、って感じだね」
僕たちは手を繋いで、獣道を進んだ。
木漏れ日が、二人の影を地面に落とす。
やがて、あの岩場が見えてきた。
初めて出会った場所。
奏が、立ち止まった。
「……ここ」
「うん。ここだね」
「私たち、ここで出会ったんだよね」
「そうだよ」
奏が、岩場をじっと見つめている。
その表情が、少し寂しそうだった。
「どうしたの?」
「……なんでもない。ただ、ここが大切な場所な気がして」
「大切な場所だよ。君と出会えた場所だから」
奏が、僕の方を向いた。
その瞳に、涙が浮かんでいた。
「ねえ、廻くん」
「うん」
「もし、私がいなくなっても……」
「またそれ?」
僕は、少し強い口調で言った。
「何度も言うけど、君はいなくならないよ」
「……でも」
「でも、じゃない」
僕は、奏の両肩を掴んだ。
「絶対に、離さない。何があっても」
奏が、泣きそうな顔で笑った。
「……ありがとう」
僕たちは、岩場を降りて、川のほとりに座った。
エメラルドグリーンの水面が、太陽の光を反射してキラキラと輝いている。
綺麗だ。
こんなに綺麗な場所で、こんなに大切な人と一緒にいる。
それだけで、幸せだった。
「おにぎり、食べよう」
「うん」
僕たちは、コンビニ袋からおにぎりを取り出した。
包装を開けて、一口齧る。
ツナマヨの味が、口いっぱいに広がる。
「……美味しい」
奏が、幸せそうに目を細めた。
「うん。美味しいね」
僕も頷く。
真夏の暑さの中で食べるおにぎりは、格別だった。
風が吹いて、奏の髪を揺らす。
その瞬間、僕はハッとした。
今、彼女の髪が――透けて見えた気がした。
「……?」
目をこすって、もう一度見る。
でも、もう普通に見える。
気のせいだったのかもしれない。
「どうしたの?」
「ううん、なんでもない」
僕は首を振った。
不安にさせたくなかった。
おにぎりを食べ終えて、僕たちは川に入った。
水が、冷たい。
足首まで浸かると、ヒヤリとした感触が全身に伝わる。
「冷たいね」
「うん。でも、気持ちいい」
奏が、水を手ですくって顔を洗う。
その仕草が、とても自然で、美しかった。
僕も真似をする。
冷たい水が、火照った顔を冷やしてくれる。
「ねえ、廻くん」
「うん?」
「もっと奥まで行ってみない?」
奥。
川の上流の方。
深くなっている場所。
僕の胸が、急に騒いだ。
「……危ないかもしれないよ」
「大丈夫。一緒だから」
奏が、僕の手を引く。
その手は、やっぱり冷たかった。
僕たちは、川の流れに沿って上流へと歩き始めた。
足元の石が滑りやすい。
気をつけて進む。
やがて、流れが速くなってきた。
水深も、膝くらいまで深くなっている。
「ここ、綺麗だね」
奏が、嬉しそうに言った。
確かに、水が澄んでいて、底の石がよく見える。
小さな魚が泳いでいるのも見えた。
「あ、魚!」
奏が指差す。
金色に光る、大きな魚。
それは、川の淵の奥深くを泳いでいた。
「あれ、『ぬし』かな」
「ぬし?」
「うん。願いを叶えてくれる、川の主」
奏が、目を輝かせた。
「本当に?」
「わからない。でも、そういう話を聞いたことがある気がする」
奏が、その魚を追いかけようと、さらに奥へ進もうとした。
「待って、奏!」
僕は慌てて彼女の腕を掴んだ。
「そっちは深い。危ないよ」
「でも……」
「願い事なら、ここからでもできるよ」
僕は、奏の手を握った。
「一緒に、願おう」
「……うん」
僕たちは、手を繋いだまま目を閉じた。
川のせせらぎが、耳に心地よく響く。
(お願いします)
僕は、心の中で祈った。
(奏と、ずっと一緒にいられますように)
目を開けると、奏も目を開けたところだった。
「何、願った?」
「秘密」
奏が、いたずらっぽく笑う。
「僕も秘密」
「じゃあ、言いっこなし?」
「うん」
でも、きっと同じことを願ったんだと思う。
ずっと一緒にいられますように、と。




