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さよならの陽炎を、追いかけて  作者: 七瀬 澪
第四章 「さよならの陽炎」

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36. Rewrite

「……っ、う……」


目を開けると、視界が涙で滲んでいた。


「……あれ?」


僕は体を起こし、手の甲で目元を拭った。

どうして泣いているんだろう。

怖い夢を見ていたわけじゃない。

悲しいことがあったわけでもない。


ただ、心臓の真ん中に、ぽっかりと大きな風穴が開いたような感覚があった。

とても大切な、絶対に忘れてはいけない「何か」を、世界の裏側に置き忘れてきてしまったような喪失感。


そして、唇に微かに残る、温かい熱の感触。


「……廻? どうしたの、泣いてるの?」


階下から、母さんの声が聞こえた。


「ううん、なんでもない!」


僕は慌てて声を張り上げた。

自分の声が高い。

手を見ると、小さくて日焼けした子供の手だった。


机の上にあるカレンダーが目に入る。

『2016年 8月15日』


(8月15日……)


なんだろう。

今日、僕はどこかに行かなきゃいけない気がする。

誰かと……とても大事な約束をしていたような気がする。


『待ってる』


ふと、鈴を転がしたような声が、脳裏を掠めた気がした。


「……行かなきゃ」


僕は衝動的にベッドから飛び降りた。

理由なんてわからない。

でも、魂が叫んでいる。

今すぐ走らないと、僕は一生後悔することになる。


「行ってきます!」


サンダルを突っかけ、勢いよく玄関を飛び出した。


外は、耳をつんざくような蝉時雨。

入道雲が空を覆い、アスファルトからは陽炎が立ち上っている。


「あ、廻くん! 遊ぼう!」


曲がり角で、虫取り網を持った結衣ちゃんが手を振っていた。

いつもなら、彼女と一緒に遊ぶはずだった。


けれど、今日だけは足が止まらなかった。


「ごめん結衣ちゃん! 今日は用事があるんだ!」


「えっ? どこ行くのー?」


「わかんない! でも、行かなきゃ!」


僕は、結衣ちゃんの困り顔を背にして走り続けた。

ごめん。

でも、僕が探しているのは君じゃない。

もっと遠くて、近くて……僕の命の半分みたいな「誰か」だ。



息が切れる。

汗が目に入る。

僕は神社の長い石段を、一段飛ばしで駆け上がっていた。


(ここだ)


本能が告げている。

この神社の奥。

誰も知らない、裏山の向こう。


本殿の脇を抜け、草木が生い茂る獣道へ飛び込む。

蜘蛛の巣が顔にかかる。

棘のある草が足首を掠める。

痛い。

でも、その痛みさえも、何かの「償い」のように心地よかった。


視界が開けた。


金網のフェンスの向こう。

キラキラと陽光を反射して流れる川。

そして、その川を見下ろす大きな岩場。


いた。


岩の上に、一人の少女が座っていた。


風景から切り取られたように白い肌。

夏の日差しを吸い込んで輝く、綺麗な銀色の髪。

そして、どこか古風な黒いワンピース。


彼女は、まるで迷子になった妖精のように、ポツンと膝を抱えて川を眺めていた。


「……っ」


その背中を見た瞬間。

僕の目から、堰を切ったように涙が溢れ出した。


知らない子だ。

見たこともない、外国人みたいな女の子。

それなのに。


(知ってる)


僕の細胞の全部が、彼女を知っている。

彼女の匂いを。

彼女の体温を。

彼女の孤独を。


「……ねえ」


震える声で呼びかけた。


少女が、ビクリと肩を震わせた。

ゆっくりと、こちらを振り向く。


ガラス玉のような瞳。

整った顔立ち。

でも、その表情は不安げで、今にも泣き出しそうだった。


「……誰?」


彼女の声は、記憶の底にある「あの声」と同じだった。


「僕……僕は、相沢廻」


僕は涙を拭いながら、フェンスを乗り越えて岩場へ近づいた。


「君は?」


「……私?」


少女は首を傾げた。

その仕草に、強烈な既視感デジャヴを覚える。


「わかんない」


彼女は小さく呟いた。


「気づいたら、ここにいたの。

名前も、家も、お父さんもお母さんも……何も思い出せないの」


記憶喪失。

あるいは、神隠しにあった子供か。


本来なら、「大変だ、大人を呼ばなきゃ」と思うところだ。

でも、僕はそう思わなかった。

彼女は、ただ忘れているだけじゃない。

この世界に突然「バグ」として発生したような、そんな不思議な違和感があった。


「……名前もないの?」


「ううん。名前だけは、なんとなく覚えてる」


彼女は、空を見上げて呟いた。


「……カナデ。

漢字はわからないけど、カナデって響きだけ、覚えてる」


「カナデ……」


僕の口が、勝手にその漢字を当てはめていた。

そして、その名前を口にした瞬間、胸の奥の風穴が、温かい何かで満たされるのを感じた。


「いい名前だね」


僕は笑った。

涙でぐしゃぐしゃの顔で、精一杯の笑顔を向けた。


「僕は廻。

……ねえ、奏ちゃん」


僕は、岩場によじ登り、彼女の隣に座った。

彼女からは、ひんやりとした、雨上がりのような匂いがした。


「僕たち、友達にならない?」


「……え?」


「わかんないけど、放っておけないんだ。

君が泣いてる気がして……ここまで走ってきたんだ」


ナンパみたいな台詞だ。

でも、僕は大真面目だった。


奏ちゃんは、大きな瞳で僕をじっと見つめた。

そして、ポツリと言った。


「……私も」


彼女の瞳からも、一筋の涙がこぼれ落ちた。


「あなたの顔を見たら、なんか……泣きたくなったの。

悲しいんじゃなくて、安心したような……懐かしいような」


彼女は、自分の胸をギュッと掴んだ。


「ここが、痛いの。

あなたを知らないはずなのに、心が『やっと会えた』って言ってるの」


蝉の声が、遠くなる。

世界には今、僕と彼女の二人しかいないみたいだった。


理屈なんていらない。

記憶なんてなくていい。

僕の魂が、彼女の魂を求めている。それだけで十分だった。


「じゃあ、決まりだ」


僕は立ち上がり、彼女に手を差し出した。


「僕たちは友達だ。

君が帰る場所を思い出せなくても、僕が一緒に探してあげる」


「……友達?」


「うん。

とりあえず、僕の家においでよ。

母さんは優しいし、おやつもあるし……君を一人にはしない」


根拠のない自信。

でも、絶対にそうしなきゃいけないという確信があった。

この手を離したら、二度と会えなくなる気がしたから。


彼女は、恐る恐る僕の手を見た。

そして、ゆっくりと、その白く華奢な手を伸ばした。


指先が触れる。

冷たい。

でも、その奥に、脈打つような熱を感じる。


「……うん」


彼女は、僕の手を握り返した。

その瞬間、夏風がふわりと吹き抜け、彼女の銀髪を揺らした。


「よろしくね、廻くん」


彼女が笑った。

その笑顔を見た瞬間、僕は確信した。


僕は、この笑顔を守るために生まれてきたんだ。

理由はわからないけれど、きっとそうだ。


10年前の夏。

すべての記憶と能力を失った僕たちは、神社の裏山で「二度目の初対面」を果たした。


これは、神様だった記憶を失くした少女と、彼女を愛した記憶を失くした少年が、もう一度「運命」を紡ぎ直すまでの物語。

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