35. さよならの陽炎
パキン。
その乾いた音が、世界の殻を砕く合図だった。
刹那。 僕の視界を支配していた漆黒の闇が、暴力的なまでの「白」によって塗り潰された。
「ぐ、あぁぁぁぁぁぁぁぁッ!!」
声にならない絶叫。 脳髄が沸騰し、魂がミキサーにかけられるような激痛。 これは「1秒」を巻き戻す痛みじゃない。 僕が生きてきた「17年間」という時間そのものを、燃料として一気に燃やし尽くす痛みだ。
『やめて、廻! そんな出力じゃ、あなたの魂が保たない!』
頭の中に、奏の悲鳴が響く。 聴覚も視覚も焼き切れた僕には、もう彼女の「魂の声」しか聞こえない。 彼女は、僕の手を振りほどこうと必死にもがいている。
『離すもんか……!』
僕は、感覚のない腕で、彼女の手首を万力のように締め付けた。
『聴け、奏! これが最後の取引だ!』
僕は、右目から溢れ出す光の奔流に、僕の「全て」を叩き込んだ。
『僕の記憶をやる! 結衣と過ごした10年も、高校生活も、君との思い出も……全部だ! 僕の人格も、経験も、感情も、全部持って行け!』
胸に抱いていた銀色のノートが、高熱に晒された氷のようにドロドロに溶け出した。 それは液状の光となり、僕の胸から抜け落ちていく。 僕が人間として積み上げてきたものが、消えていく。
『その代わり……君の「観測者」としての権限も、全部よこせ!』
『……っ!?』
『君を、ただの「女の子」にする! 死神でも、幽霊でもない……痛みを感じて、歳をとって、僕と同じ時間を生きられる人間にするんだ!』
それは、世界に対する冒涜だった。 高次元の存在を引きずり下ろし、人間の枠に押し込める禁忌。 因果律を無視した、強引な等価交換。
『無理よ! そんなことをしたら、世界がバグって、私たち二人とも消滅しちゃうわ!』
『消滅なんかさせない! ……リセットだ』
『戻るんだ。 まだ何も始まっていない、あの夏の日へ。 僕たちが「契約」なんて結ばずに、ただの友達として出会える時間へ!』
ズズズズズッ……!!
空間が歪む。 神社の裏山が、雨音が、川の激流が、白い光の渦の中に飲み込まれていく。 僕の体も、奏の体も、輪郭を保てなくなっていく。
『廻……本気なの?』
奏の声が、震えていた。 拒絶ではない。あまりにも深い、悲しみと愛おしさに満ちた震え。
『全部、忘れることになるのよ? あなたが守りたかった結衣ちゃんとの未来も……私たちが今こうして抱き合っていることも。 全部、ゼロになるのよ?』
『構わない』
僕は、見えない目で彼女を見つめた。 今、彼女がどんな顔をしているのか、僕には分からない。 でも、その魂が泣いていることだけは分かった。
『記憶なんて、また作ればいい。 10年でも、100年でもかけて……僕がまた、君を見つけ出す』
『……バカ』
彼女の体から力が抜けた。 抵抗をやめ、光の中で僕に身を委ねてくる。
『本当に、どうしようもない、大バカな人。』
彼女の手が、僕の頬を優しく包み込んだ。 その瞬間、彼女からも膨大なエネルギーが流れ込んできた。
観測者の権限。 永遠の命。 世界を見渡す神の目。 それらが全て砕け散り、僕たちの「時間遡行」の燃料となって燃え上がる。
『さよなら、私の英雄』 『さよなら、僕の死神』
二人の意識が溶け合う。 記憶が走馬灯のように駆け巡る。
10年前の川底。 中学の教室。 修学旅行の夜。 雪の日の事故。 そして、雨の日の屋上。
それら全てが、銀色の光の粒子となって、彼方へ飛び去っていく。
(忘れない)
(いや、忘れてしまうんだ)
(でも、記憶はなくなったとしても、魂だけは……絶対に、君を覚えている)
視界が真っ白に染まる。 感覚が消える。 自分が「個」であることをやめ、世界の奔流の一部となる。
その、最後の瞬間。
ふわり、と。 感覚のないはずの僕の唇に、柔らかくて、温かいものが触れた。
それは、10年前の水底でされた蘇生のキスじゃない。 これから人間になる彼女が、人間である僕に贈る、最初で最後の「誓い」の口づけ。
(――ああ)
僕の意識が、彼女の温もりの中に溶けていく。
(これも忘れてしまうのか……)
――パキン。
世界が完全に砕け散った。 そして、唇に残った熱だけを道連れに、物語は「ゼロ」へと巻き戻る。




