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さよならの陽炎を、追いかけて  作者: 七瀬 澪
第四章 「さよならの陽炎」

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34. 無音の叫び

世界は、闇と雨音だけでできていた。


路地裏を飛び出した僕は、アスファルトを蹴った。 視界はない。 まぶたを開けても閉じても、そこにあるのは深海のような漆黒だけだ。


「はっ、……くっ!」


足が何かに引っかかり、無様に転倒する。 膝を強打し、掌が泥水を跳ね上げる。 痛覚も鈍っているはずなのに、衝撃だけが脳を揺らす。


それでも、僕は立ち上がった。 方向は分かる。 10年間、毎日通った通学路だ。 そして、僕の罪と罰が始まった、あの場所への道だ。


(行かなきゃ……。奏のところに)


胸に抱いた銀色のノート。 これだけが、今の僕に残された唯一の「道標」だった。 彼女が拾い集めてくれた僕の記憶。僕の痛み。 その重みが、闇の中を走る僕の重心を支えていた。


車が通り過ぎる水音。 クラクションの音。 誰かの舌打ち。


すべてが、見えない恐怖となって僕を襲う。 けれど、僕は足を止めなかった。


彼女は今、どんな顔をしているんだろう。 僕が半年間、彼女の命を削って「完璧」を演じている間、彼女はどんな表情でそれを見ていたんだろう。


見たい。 一目だけでいい。 僕の身勝手さでボロボロになった彼女の姿を、この目に焼き付けて謝りたい。


けれど、僕の右目はもう、光を映さない。 代償として差し出した「視覚」は、二度と戻らない。



どれくらい走っただろうか。 足元の感触が、アスファルトから土へと変わった。


湿った草の匂い。 腐葉土の匂い。 そして、激しく木々を叩く雨の音。


神社の裏山だ。 見えなくても分かる。ここは、僕たちの秘密基地への入り口だ。


僕は、手探りで金網のフェンスを探した。 冷たい金属の感触。 錆びた鉄の匂いが、鼻腔を刺激する。


「……奏?」


僕は、闇に向かって声を張り上げた。 喉が焼けるように熱い。


「いるんだろ……? 奏!」


返事はない。 ただ、激しい雨音と、増水した川の轟音だけが響いている。


僕はフェンスを乗り越えた。 泥に足を滑らせながら、記憶の中の「岩場」へと進む。


その時だった。


雨の匂いに混じって、ふと、懐かしい香りがした。 雨上がりのアスファルトのような。 あるいは、古い図書室のような。 静かで、冷たくて、どこか寂しい「無機質」な香り。


「……来てしまったのね」


声がした。 真正面。わずか数メートルの距離。


その声を聞いた瞬間、僕の全身の力が抜けそうになった。 奏だ。 彼女はそこにいた。


「どうして来たの。……結衣ちゃんのところに戻ればよかったのに」


彼女の声は、雨音に消え入りそうなほど弱々しかった。 以前のような冷徹な響きはない。 まるで、割れたガラス細工が触れ合うような、繊細で脆い音色。


「戻れるわけないだろ……ッ!」


僕は、声のする方へ歩み寄った。 見えない。 彼女がどんな姿をしているのか、どんな顔をしているのか。


「君が……全部背負ってたなんて。 僕の命も、僕の記憶も……君が犠牲になって繋いでくれてたなんて、知らなかったんだ!」


僕は、泥だらけの手でノートを突き出した。


「返すよ。これ、君のだろ。 僕の『中身』なんかより、君の命の方がずっと大事だ!」


「……バカな人」


彼女の溜息が聞こえた。 そして、衣擦れの音。彼女が近づいてくる気配。


ふわりと、冷たい空気が僕の頬を撫でた。


「見えないでしょう? 今の私」


彼女の声が、すぐ耳元でした。


「ええ、見えなくて正解よ。 今の私、ひどい顔をしているもの」


「……どんな顔をしてるんだ」


「色がね、ないの」


彼女は、淡々と語った。


「髪の銀色も、瞳の黒色も、肌の色も。 全部抜け落ちて、まるで古い白黒映画みたい。 世界から『色彩』という情報を剥奪されているのよ」


透明ではない。 けれど、世界から孤立した「モノクロームの異物」。 それが、彼女が禁忌を犯し、僕に時間を貸し続けた代償の姿だった。


「私の命は、もう切れかけているわ。 色が消えた次は、音が消えて、最後には存在そのものが消える。 ……陽炎みたいにね」


「ふざけるな!」


僕は、闇雲に手を伸ばした。 彼女の肩を掴もうとした。


スカッ。


僕の手は、空を切った。 彼女が避けたのではない。 僕の距離感が狂っているのか、それとも彼女の存在が希薄すぎて掴めないのか。


「触れないわよ。 今の私は、半分あっち側の住人だもの」


「そんな……」


「ねえ、廻。 ノートを読んでくれたなら、分かるでしょう? 私は、あなたが幸せならそれでよかったの。 あなたが結衣ちゃんと笑って、大人になって……私が消えた後も、ずっと生きていてくれれば」


「それが僕の幸せだと、本気で思ってるのか!?」


僕は叫んだ。 見えない目から、涙が溢れ出した。


「君が犠牲になった上に成り立つ幸せなんて、ただの呪いだ! 僕が笑うたびに君が削れていくなら、僕は二度と笑わない! 一生、君への贖罪だけで生きてやる!」


「……っ」


彼女が息を呑む気配がした。


「ずるい。……そんなこと言われたら、消えにくくなるじゃない」


彼女の声が、初めて震えた。 泣いているのかもしれない。 色のない涙を流しているのかもしれない。 けれど、暗闇の中にいる僕には、それを拭うことさえできない。


「廻。……ノートを、持っていて」


「え?」


「それは、私があなたを愛した証拠。 私が消えても、あなたが『人間』として生きていくための最後のパーツ」


「嫌だ! 君が消えるなら、こんなものいらない!」


僕はノートを地面に叩きつけようとした。 その時。


冷たい手が、僕の手首を掴んだ。


「……!」


触れた。 掴めた。 氷のように冷たいけれど、確かにそこにある「質量」。


「……離さないで」


彼女の声が、切羽詰まった響きを帯びた。


「それを捨てたら、あなたは本当に空っぽになる。 私が命を削って守った意味がなくなる。 ……お願い、私の『痛み』を無駄にしないで」


彼女の手は震えていた。 その震えが、僕の腕を通して、心臓に直接伝わってくる。


彼女は生きている。 色が消えても、死神の力を失っても、まだここにいる。


(助けなきゃ)


僕の中で、強烈な衝動が生まれた。 謝罪じゃない。 感謝じゃない。 ただ、彼女を生かしたい。


僕には「右目」がある。 彼女がくれた命の残り火。 世界を欺き、因果をねじ曲げる、禁忌の力。


「奏」


僕は、彼女の手を握り返した。 強く。骨が軋むほど強く。


「僕は、君の願い通りにはならない」


「……え?」


「君が消えて、僕が幸せになるなんて結末は選ばない。 僕が選ぶのは……君も、僕も、誰もいなくならない世界だ」


「無理よ。そんなこと……」


「出来るさ。 僕にはまだ、君がくれた『最強の1秒』が残ってる」


僕は、見えない右目を見開いた。


残りの寿命? 知ったことか。 五感の喪失? くれやるよ。 僕の全てを代償にしてでも、このふざけた運命をひっくり返す。


「賭けようぜ、死神さん」


僕はニヤリと笑った。 かつて彼女が僕に見せたような、不敵な笑みで。


「僕のチップを全部張る。 ……だから、君の命もよこせ」


「廻……ッ!?」


僕は、彼女の手を握ったまま、右目の奥の熱を解放した。


パキン。

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