34. 無音の叫び
世界は、闇と雨音だけでできていた。
路地裏を飛び出した僕は、アスファルトを蹴った。 視界はない。 まぶたを開けても閉じても、そこにあるのは深海のような漆黒だけだ。
「はっ、……くっ!」
足が何かに引っかかり、無様に転倒する。 膝を強打し、掌が泥水を跳ね上げる。 痛覚も鈍っているはずなのに、衝撃だけが脳を揺らす。
それでも、僕は立ち上がった。 方向は分かる。 10年間、毎日通った通学路だ。 そして、僕の罪と罰が始まった、あの場所への道だ。
(行かなきゃ……。奏のところに)
胸に抱いた銀色のノート。 これだけが、今の僕に残された唯一の「道標」だった。 彼女が拾い集めてくれた僕の記憶。僕の痛み。 その重みが、闇の中を走る僕の重心を支えていた。
車が通り過ぎる水音。 クラクションの音。 誰かの舌打ち。
すべてが、見えない恐怖となって僕を襲う。 けれど、僕は足を止めなかった。
彼女は今、どんな顔をしているんだろう。 僕が半年間、彼女の命を削って「完璧」を演じている間、彼女はどんな表情でそれを見ていたんだろう。
見たい。 一目だけでいい。 僕の身勝手さでボロボロになった彼女の姿を、この目に焼き付けて謝りたい。
けれど、僕の右目はもう、光を映さない。 代償として差し出した「視覚」は、二度と戻らない。
◆
どれくらい走っただろうか。 足元の感触が、アスファルトから土へと変わった。
湿った草の匂い。 腐葉土の匂い。 そして、激しく木々を叩く雨の音。
神社の裏山だ。 見えなくても分かる。ここは、僕たちの秘密基地への入り口だ。
僕は、手探りで金網のフェンスを探した。 冷たい金属の感触。 錆びた鉄の匂いが、鼻腔を刺激する。
「……奏?」
僕は、闇に向かって声を張り上げた。 喉が焼けるように熱い。
「いるんだろ……? 奏!」
返事はない。 ただ、激しい雨音と、増水した川の轟音だけが響いている。
僕はフェンスを乗り越えた。 泥に足を滑らせながら、記憶の中の「岩場」へと進む。
その時だった。
雨の匂いに混じって、ふと、懐かしい香りがした。 雨上がりのアスファルトのような。 あるいは、古い図書室のような。 静かで、冷たくて、どこか寂しい「無機質」な香り。
「……来てしまったのね」
声がした。 真正面。わずか数メートルの距離。
その声を聞いた瞬間、僕の全身の力が抜けそうになった。 奏だ。 彼女はそこにいた。
「どうして来たの。……結衣ちゃんのところに戻ればよかったのに」
彼女の声は、雨音に消え入りそうなほど弱々しかった。 以前のような冷徹な響きはない。 まるで、割れたガラス細工が触れ合うような、繊細で脆い音色。
「戻れるわけないだろ……ッ!」
僕は、声のする方へ歩み寄った。 見えない。 彼女がどんな姿をしているのか、どんな顔をしているのか。
「君が……全部背負ってたなんて。 僕の命も、僕の記憶も……君が犠牲になって繋いでくれてたなんて、知らなかったんだ!」
僕は、泥だらけの手でノートを突き出した。
「返すよ。これ、君のだろ。 僕の『中身』なんかより、君の命の方がずっと大事だ!」
「……バカな人」
彼女の溜息が聞こえた。 そして、衣擦れの音。彼女が近づいてくる気配。
ふわりと、冷たい空気が僕の頬を撫でた。
「見えないでしょう? 今の私」
彼女の声が、すぐ耳元でした。
「ええ、見えなくて正解よ。 今の私、ひどい顔をしているもの」
「……どんな顔をしてるんだ」
「色がね、ないの」
彼女は、淡々と語った。
「髪の銀色も、瞳の黒色も、肌の色も。 全部抜け落ちて、まるで古い白黒映画みたい。 世界から『色彩』という情報を剥奪されているのよ」
透明ではない。 けれど、世界から孤立した「モノクロームの異物」。 それが、彼女が禁忌を犯し、僕に時間を貸し続けた代償の姿だった。
「私の命は、もう切れかけているわ。 色が消えた次は、音が消えて、最後には存在そのものが消える。 ……陽炎みたいにね」
「ふざけるな!」
僕は、闇雲に手を伸ばした。 彼女の肩を掴もうとした。
スカッ。
僕の手は、空を切った。 彼女が避けたのではない。 僕の距離感が狂っているのか、それとも彼女の存在が希薄すぎて掴めないのか。
「触れないわよ。 今の私は、半分あっち側の住人だもの」
「そんな……」
「ねえ、廻。 ノートを読んでくれたなら、分かるでしょう? 私は、あなたが幸せならそれでよかったの。 あなたが結衣ちゃんと笑って、大人になって……私が消えた後も、ずっと生きていてくれれば」
「それが僕の幸せだと、本気で思ってるのか!?」
僕は叫んだ。 見えない目から、涙が溢れ出した。
「君が犠牲になった上に成り立つ幸せなんて、ただの呪いだ! 僕が笑うたびに君が削れていくなら、僕は二度と笑わない! 一生、君への贖罪だけで生きてやる!」
「……っ」
彼女が息を呑む気配がした。
「ずるい。……そんなこと言われたら、消えにくくなるじゃない」
彼女の声が、初めて震えた。 泣いているのかもしれない。 色のない涙を流しているのかもしれない。 けれど、暗闇の中にいる僕には、それを拭うことさえできない。
「廻。……ノートを、持っていて」
「え?」
「それは、私があなたを愛した証拠。 私が消えても、あなたが『人間』として生きていくための最後のパーツ」
「嫌だ! 君が消えるなら、こんなものいらない!」
僕はノートを地面に叩きつけようとした。 その時。
冷たい手が、僕の手首を掴んだ。
「……!」
触れた。 掴めた。 氷のように冷たいけれど、確かにそこにある「質量」。
「……離さないで」
彼女の声が、切羽詰まった響きを帯びた。
「それを捨てたら、あなたは本当に空っぽになる。 私が命を削って守った意味がなくなる。 ……お願い、私の『痛み』を無駄にしないで」
彼女の手は震えていた。 その震えが、僕の腕を通して、心臓に直接伝わってくる。
彼女は生きている。 色が消えても、死神の力を失っても、まだここにいる。
(助けなきゃ)
僕の中で、強烈な衝動が生まれた。 謝罪じゃない。 感謝じゃない。 ただ、彼女を生かしたい。
僕には「右目」がある。 彼女がくれた命の残り火。 世界を欺き、因果をねじ曲げる、禁忌の力。
「奏」
僕は、彼女の手を握り返した。 強く。骨が軋むほど強く。
「僕は、君の願い通りにはならない」
「……え?」
「君が消えて、僕が幸せになるなんて結末は選ばない。 僕が選ぶのは……君も、僕も、誰もいなくならない世界だ」
「無理よ。そんなこと……」
「出来るさ。 僕にはまだ、君がくれた『最強の1秒』が残ってる」
僕は、見えない右目を見開いた。
残りの寿命? 知ったことか。 五感の喪失? くれやるよ。 僕の全てを代償にしてでも、このふざけた運命をひっくり返す。
「賭けようぜ、死神さん」
僕はニヤリと笑った。 かつて彼女が僕に見せたような、不敵な笑みで。
「僕の命を全部張る。 ……だから、君の命もよこせ」
「廻……ッ!?」
僕は、彼女の手を握ったまま、右目の奥の熱を解放した。
パキン。




