33. 白銀の禁忌
雨の路地裏。 僕は、震える手でノートのページを繰った。
そこには、僕が能力を手に入れた「あの日」の真実と、それからあの夏に至るまでの半年間、僕がいかにして「自分自身」を殺し続けてきたかが記されていた。
◆
『2024年 2月14日。大雪』
『今日、世界は終わるはずだった』
その一行に、心臓が凍りつく。 あの日。バレンタインデー。 僕の記憶では、結衣からチョコをもらって、幸せに帰っただけの日だ。
『放課後の帰り道。 記録的な大雪で、視界は真っ白だった。 信号機も、街灯も、全てが吹雪にかき消されていた』
『彼は、結衣の手を引いて交差点を渡っていた。 マフラーを共有して、寒さに顔を赤くしながら。 「ねえ廻くん、これ。……本命だからね」 結衣が恥ずかしそうにチョコを差し出した、その瞬間だった』
『キキーッ!! という不快な金属音。 スリップした大型トラックが、赤信号を無視して交差点に突っ込んできた』
『彼は反応した。 自分の身を挺して、結衣を歩道へと突き飛ばした。 でも、彼自身が逃げる時間は、もう残されていなかった』
『ドンッ、という鈍く、重い衝撃音。 彼が鉄の塊の下敷きになり、雪の上に赤い花が咲いた音。 即死だった』
『私は、近くの電柱の上でそれを見ていた。 契約期間はまだ残っていたけれど、不慮の事故なら仕方がない。 10年前の川の日と同じ。 私は彼の魂を回収し、冥界へ送らなければならない』
『それが仕事。それが観測者の絶対のルール』
『震える手で、雪の上に広がる鮮血に触れた。 温かい。 さっきまで生きていた熱が、急速に冷めていく。 結衣が、血まみれの彼を抱きしめて絶叫している。 「嘘だ! 目を開けてよ! 廻くん!!」』
『その悲鳴を聞いた瞬間、私の中で何かが焼き切れた』
『「……いや」』
『涙が溢れて止まらなかった。 嫌だ。連れて行きたくない。 10年前、私は「面白そうだから」彼を生かした。 でも今は違う。 彼が好きだから。彼に生きていてほしかったから』
『私は、力を解放した。 激痛が走る。 内側から焼かれるような熱さ。 視界が白く染まり、私の体が粒子になって分解されていく』
『時間をねじ曲げる。 因果律を破壊する。 この雪の日を、事故が起きる1時間前の「放課後」まで、無理やり巻き戻す』
『代償として、私の「世界への干渉権」が剥がれ落ちていく。 確かな存在だった私が、色彩を失い、輪郭が曖昧な「幽霊」のような存在に成り下がっていく』
『それでも、私は彼を離さなかった。 「生きて。お願い、生きて……ッ!」』
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文字が、薄くなっている。 書いている彼女の手が、力が失われ始めていたのかもしれない。 最後の力を振り絞って書かれた記録。
『……目が覚めると、私は放課後の教室にいた』
『窓の外では、雪が降っている。 教室の中では、結衣が彼にチョコを渡そうとしている。 「これ、本命だからね!」』
『成功した。 世界は巻き戻った』
『私は、自分の体を確認した。 ……色が、薄い。 肌の血色も、髪の銀色も、着ている制服の黒も。 まるで古い写真のように、世界から私という色彩だけが抜け落ちかけている』
『クラスメイトが私の横を通り過ぎる。 誰も私に気づかない。 今の私は、世界にとって「異物」。いつ消えてもおかしくないバグのような存在』
『でも、彼が生きてる。 心臓が動いてる。 彼が笑ってる』
『「ありがとう。……俺も、ずっと結衣ちゃんが好きだったよ」』
『彼は、また同じセリフを言った。 また、結衣と結ばれた。 私が、自分という存在を殺してまで守った世界でも、彼が選ぶのは私じゃなかった』
『……ふふ。 滑稽ね。惨めね。 命を救って、時間を戻して、自分のすべてを犠牲にして。 それで得られた報酬が、「好きな人が他の女と結ばれるのを見届ける権利」だけなんて』
『でも、いいの。 あなたが笑っているなら。 あなたの明日が続くなら』
『これが、私の恋の結末。 さよなら、私の英雄。 あと2年……私の残りの寿命が尽きるまで、あなたの幸せを、影の中から見守らせてね』
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ページをめくると、筆跡が乱れ始めていた。 ここからが、僕の知らない「緩やかな自殺」の始まりだ。
『追記:禁忌の代償』
『無理やり時間を戻した副作用が出た。 私の強大な干渉の余波が、彼の右目に宿ってしまったらしい』
『事故から数日後。 彼は、ふと落としそうになったペンを、空中でキャッチした。 いや、違う。ペンが床に落ちる寸前、世界が「パキン」と音を立てて、1秒だけ巻き戻ったのだ』
『彼は、きょとんとしていた。 そして、ニヤリと笑った。 「すげぇ。これ、使えるかも」』
『私は、教室の隅でそれを見ていた。 ……回収すべきか? そのバグを取り除くことは、私には造作もないことだ。 指をひとつ鳴らせば、彼はその力を失い、ただの少年に戻る』
『でも、私は躊躇った。 彼がその力を使って、結衣との会話をやり直し、「完璧な笑顔」を作ったからだ』
『彼は喜んでいる。 「これがあれば、結衣ちゃんを悲しませないで済む」と』
『だから私は、回収しなかった。 彼がそれを望むなら。 その力を使って、彼なりの「幸せ」を築こうとしているなら。 私は観測者として、その行く末を見届ける義務がある』
『……たとえその代償が、彼自身を食い尽くすものだとしても』
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ここからのページは、見ていられなかった。 あの夏に至るまでの半年間、僕がいかに無邪気に、自分の中身を空っぽにしていったかの記録だった。
『2024年 4月。始業式』
『クラス替え。 彼は、結衣と同じクラスになるために、右目を使った。 掲示板の前で、自分の名前が結衣の隣に来るまで、3回やり直した』
『その瞬間、彼の中から「中学時代の修学旅行の記憶」が消えた。 彼が「やった!」とガッツポーズをする裏で、彼の脳内から大切な思い出が1ページ、白紙に変わった』
『彼は気づかない。 「あれ? なんか忘れてる気がするけど……まあいいか」 そうやって笑っていた』
『2024年 5月。中間テスト』
『彼は、マークシートの回答を書き直すために能力を使った。 「ラッキー。これで赤点回避だ」 軽い。あまりにも軽い。 その1秒のために、彼の「味覚」の一部が鈍くなったとも知らずに』
『昼休み、彼はイチゴオレを飲んで首を傾げていた。 「なんか今日のは薄いな」 ……違うわ。あなたが自分の一部を捨てたのよ』
『2024年 6月。梅雨』
『彼は、結衣とのデートで、雨に濡れないように能力を使った。 水たまりを避けるためだけに。 傘を開くタイミングを合わせるためだけに。 10回。20回。 まるでゲームのコントローラーを連打するように』
『私は、神社の軒下でそれを見ていた。 私には彼を止める力がある。 「やめなさい」と言って、その目を奪うこともできる。 でも、私は動かなかった』
『彼が選んだことだから。 彼が、自分自身を犠牲にしてでも「完璧な結衣の恋人」でありたいと願っているから』
『色彩が消える。 触覚が鈍る。 感情の起伏が平坦になる。』
『彼は、結衣のために完璧な彼氏を演じているつもりで、その実、結衣を愛するための「心」を切り売りしている』
『愚かだわ。 本当に、愚かで、愛おしい』
『だから私は、今日もノートを開く。 彼が捨ててしまった「痛み」や「失敗」や「感情」。 それを全部、ここに書き留めておく』
『いつか彼が壊れて、何もかも失ってしまった時。 「あなたはここにいたのよ」と、証明してあげるために』
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そして、ページは夏へと進む。 僕の記憶に新しい、あの「地獄のような数日間」の記録だ。
『2024年 8月。夏。』
『今日、彼はまた能力を使った。 「ドリンクの2択を当てるため」。 「結衣との会話の選択肢を間違えたから」』
『図書室で、彼が右目を押さえた瞬間。 私の目の前で、彼の輪郭が少しだけ透けた気がした。 限界だ。これ以上使わせたら、彼は世界から「バグ」として処理され、消滅してしまう』
『止めなきゃ。 私は勇気を出して屋上へ向かった。 彼に、「私の髪、綺麗?」と聞くために。 彼が捨ててしまった「痛みの記憶」を、突きつけるために』
『……でも、彼は止まらなかった。 「俺の勝手だろ」と言って、私の警告を拒絶した』
『夏祭り。花火大会』
『彼は、「完璧なデート」を守るために、ついに「視界の奥行き」と「皮膚の感覚」を捨てた』
『人混みの中で、彼は結衣の手を握りしめていた。 でも、彼の手は震えていた。 無理もない。今の彼にとって、結衣の肌は「冷たいプラスチック」や「泥」のようにしか感じられていないのだから』
『愛する人に触れているのに、死体に触れているような嫌悪感。 それでも彼は笑っていた。 「綺麗だね」と嘘をついて、結衣の肩を抱いていた』
『私は、神社の影でそれを見ていた。 彼が抱きしめているのは、結衣じゃない。 彼自身の「意地」と「虚無」だ』
『心が壊れているのに、体だけが恋人の形をなぞっている。 なんて滑稽で、泣きたくなるほど綺麗なパントマイム』
◆
そして、最後の日付。 僕がここに来る直前、カフェでの出来事。
『駅前のカフェ』
『ついに、世界が彼を拒絶し始めた。 名前を失い、認識を失った彼は、店員にも見えず、結衣さえも彼を見失った』
『「どこ? 廻くん、どこにいるの?」 結衣が泣き叫んでいる。 目の前に彼がいるのに。彼が必死に手を伸ばしているのに』
『彼は、彼女の涙を見て、最後の取引をした。 「やり直せ」 彼はそう念じて、右目を使った』
『代償として、彼は「声」を捨てた。 愛を囁くことも、名前を呼ぶこともできない。 ただそこに居るだけの「家具」になるために、彼は人間としての尊厳を売り払った』
『愚かだわ。 本当に、愚かで、どうしようもなく愛おしい』
『――相沢廻。 あなたは今日も、幸せそうに笑いながら、無垢な顔で自殺を続けている』
◆
ノートの記録は、ここで途切れていた。
「……あ、あぁ……」
僕は、アスファルトに突っ伏して慟哭した。
知らなかった。 あの夏、僕が「完璧だ」なんて悦に入ってイチゴオレを飲んでいた時。 祭りで結衣を抱きしめていた時。 カフェで声が出なくなった時。
彼女は、全てを知っていたんだ。 僕が自分の体を削って「幸せな剥製」を作っているのを、静かに、けれど誰よりも深く傷つきながら見守っていたんだ。
力があるのに。 止めることもできたのに。 僕の「意思」を尊重して、ただ黙って、僕がこぼした魂の欠片を拾い集めてくれていた。
「僕が……僕自身を殺していたのか」
「それを、彼女に……ずっと見せつけていたのか」
ごめん。 ごめん、奏。
僕は立ち上がった。 ノートを胸に抱く。 彼女が拾い集めてくれた、僕の「人間としての欠片」が詰まったこのノート。
これがあれば、まだ間に合うかもしれない。 僕が捨てた「失敗」も「痛み」も「本当の心」も、全部ここにある。
「返しに行く」
僕は、雨の路地裏を走り抜けた。 向かう先は、始まりの場所。 彼女と出会い、そして彼女の心を殺し続けた、あの神社へ。
第3章 完
第4章「さよならの陽炎」へ続く




