32. 雨の古都
雨足が強まる路地裏で、僕はノートのページをめくる手を止められなかった。
インクの匂いが、雨の湿気と混じり合い、鉄錆のような血の匂いに変わっていく錯覚を覚える。
そこには、僕が最も輝いていたと信じていた青春の1ページと、それを塗りつぶすような悲痛な叫びが記されていた。
◆
『2023年 10月17日。晴れ。高校2年生』
『今日から修学旅行。行き先は京都』
『新幹線の車内。
彼は窓側の席に座り、隣の結衣と富士山を指差して笑っていた。
「すげぇ、綺麗に見える!」
「本当だ! 幸先いいね、廻くん」』
『……私は、通路を挟んだ反対側の空席に座っていた。
誰にも見えない席。検札の車掌も、ワゴン販売の乗務員も、私を素通りしていく』
『窓の外を流れる景色は同じはずなのに。
彼が見ている青と、私が見ている青は、どうしてこんなにも温度が違うんだろう』
『二人は、おやつ交換をして盛り上がっている。
「これ美味しいよ、食べる?」
「あ、それ気になってたやつ! ありがと」』
『楽しそう。幸せそう。
そのお菓子を味わう舌も、景色を見て感動する視神経も、隣の少女に微笑みかける表情筋も。
全部、私のあげた寿命で動いているのに』
『私は膝の上で手を組み、じっと彼らの横顔を見つめていた。
まるで、自分が作り上げた精巧なドールハウスを、ガラスケースの外から眺める孤独な職人のように』
『ねえ、廻。
その富士山は、私がいなければ、君の瞳には映らなかったんだよ。
……なんて、言っても聞こえない独り言が、新幹線の走行音にかき消されていった』
◆
ページをめくると、日付が変わっていた。
修学旅行2日目。僕たちの運命が、少しだけ交錯した日の記録だ。
『2023年 10月18日。曇りのち雨。京都』
『午前中は清水寺へ。
清水の舞台からの眺めは絶景だったけれど、空はどんよりと曇っていた』
『地主神社の恋占いの石。
目をつぶって反対側の石まで辿り着ければ、恋が叶うという有名な石。
結衣が挑戦し、彼が声をかけて誘導していた』
『「右、右! もうちょっと右!」
「こっち? 怖いよぉ」
「大丈夫、俺が見てるから。絶対に転ばせないから」』
『その言葉に、私は胸が苦しくなった。
「俺が見てるから」
……そうね。あなたはいつだって、結衣しか見ていない』
『でも、あなたを見ていたのは誰?
あの日、濁流に飲まれて沈んでいくあなたを、泥水の中で見つけ出したのは誰?』
『「着いた! すごい、結衣ちゃん成功!」
「やったぁ! これで両思いになれるかな?」』
『二人が手を取り合って喜ぶそばで、私は石の上に座り込んでいた。
観光客が私を突き抜けて歩いていく。
私の恋なんて、占うまでもない。
最初から死という結末が決まっている、叶うはずのない呪いだから』
『そして午後。事件は起きた』
『場所は、三年坂の土産物屋。
急に空が暗くなり、バケツをひっくり返したような土砂降りの雨が降り出した』
『雨宿りの客で店がごった返す中、彼は会計のためにレジに並んだ。
そのほんの一瞬の隙だった。
結衣が、軒先のキーホルダーに気を取られ、人の波に飲まれて姿を消したのは』
『彼のパニックぶりは、異常だった』
『「結衣ちゃん!? 結衣ちゃん!!」』
『彼は買ったばかりの八つ橋を放り出し、店を飛び出した。
傘もささずに、土砂降りの雨の中へ。
携帯にかけても繋がらない。
人混みをかき分け、泥水を跳ね上げ、彼は狂ったように名前を叫んでいた』
『「どこだ……っ! 頼む、無事でいてくれ……! 僕が、僕がそばにいなきゃダメなんだ……!」』
『その姿は、ただの迷子探しではなかった。
顔面蒼白で、瞳孔が開き、過呼吸になりかけている。
まるで世界の終わりが来たような絶望感』
『10年前のトラウマだ。
一度守れなかったと思い込んでいる記憶の傷跡が、彼を追い詰めていた』
『私は、濡れない体で空中に浮き、彼を見下ろしていた。
……バカな人。
結衣はただ、一本向こうの路地で、雨宿りをしているだけなのに。
死ぬわけでも、消えるわけでもないのに』
『放っておけばいい。どうせすぐ見つかる。
そう思ったけれど……彼があまりにも悲痛な顔をするから』
『心臓を鷲掴みにされたように痛かった。
彼をあんなふうに歪めてしまったのは、私のせいだ。
私が記憶を消して、結衣に救われたなんて勘違いを放置したから、彼はこんなにも脆くなってしまった』
『だから私は、禁じ手を打った』
『指先で、少しだけ風を操った。
彼が持っていた観光マップを突風で煽り、結衣がいる路地の方へと吹き飛ばした』
『「あ、待て!」』
『彼は反射的に地図を追いかけ、そして路地の奥にいる結衣を見つけた。
……甘いな、私。
観測者は干渉してはいけないのに。
彼の苦しむ顔を見ると、理屈よりも先に体が動いてしまう』
◆
読んでいて、視界が歪んだ。
あの日、偶然風に煽られた地図を追いかけて、奇跡的に結衣を見つけたと思っていた。
それも偶然じゃなかった。
僕の人生のすべての奇跡は、彼女の指先から生まれていたのか。
『彼が結衣を見つけた時、彼は全身ずぶ濡れだった。
前髪から雨が滴り、制服のシャツは肌に張り付き、革靴は泥だらけだった』
『「結衣ちゃん!!」』
『「え? あ、廻くん! ごめん、はぐれちゃって……」』
『彼は、結衣の無事な姿を見るなり、その場に崩れ落ちるように膝をついた。
アスファルトに手をつき、肩で息をしている。
安堵で全身が震えていた。泣いているようにも見えた』
『私は、音もなくその背中に降り立った。
雨粒が、私の体をすり抜けて彼を濡らしていく。
守ってあげたい。温めてあげたい』
『私は、透明な傘を差しかけるように、彼の上空に手を伸ばした。
雨を防ぐことはできないけれど、せめて心だけでも寄り添いたかった』
『「よかったね」
「頑張ったね」
「風邪ひいちゃうよ、バカだね」』
『声をかけようとした。
濡れた髪を拭ってあげようとした。
だって、今の彼はあまりにも無防備で、雨に打たれた捨て犬みたいだったから』
『でも――』
『その手は、空を切った』
『「ごめんね、廻くん! そんなに心配かけてごめんね!」』
『結衣が駆け寄り、彼に抱きついたからだ。
「ひゃっ、冷たい!」と言いながらも、彼女は彼を離さなかった。
二人は一つの傘に入り、身を寄せ合った。
彼の冷え切った体を、結衣の体温が温めていく』
『「いいんだ。無事でよかった……本当によかった……」』
『彼は、立ち上がり、結衣の背中に腕を回し、宝物のように抱きしめた。
その腕は、震えていた。
恐怖と、安堵と、そして……愛おしさに』
『私は、その光景を、たった数センチの距離で見つめていた。
私の伸ばした手は、二人の間の空間を彷徨っていた』
『触れられない。
私の指は、彼を突き抜けてしまう。
私の声は、雨音にかき消されてしまう』
『彼の体温を感じているのは、結衣だ。
彼の震えを受け止めているのは、結衣だ。
彼が命がけで探していたのは、私じゃない』
『……当たり前だ。
私は死神。不吉な予言者。
彼が一番会いたくない存在』
『分かっていたはずなのに。
どうしてこんなに、惨めなんだろう』
『二人は、雨の中を寄り添って歩き出した。
一つの傘の下、世界でたった二人のような顔をして』
『私は、その後ろ姿を見送ることしかできなかった。
雨音だけが、私の世界に残された音だった』
『私の体は雨に濡れない。
寒さも感じない。
なのに、どうしてこんなに震えるんだろう』
◆
ページの下半分は、インクが滲んで、文字の形を留めていなかった。
紙が波打っている。
大量の涙が、ここに落ちたのだ。
そして、その滲んだインクの上に、震える文字で、最後の一行が記されていた。
『欲しい』
『彼の体温が欲しい。
彼に向けられる笑顔が欲しい。
たとえそれが、偽りの記憶の上に成り立つものであっても……』
『私は、彼に恋をしてしまった』
『殺さなきゃいけない相手なのに。
あと3年後には、私がこの手で魂を奪わなきゃいけないのに』
『神様。
もしいるなら教えて。
どうして私を、こんな残酷な役回りにしたの?
彼を生かしたのが罪なら、この胸の痛みは、その罰なの?』
◆
「……っ、ううぅぅぅッ!!」
僕はノートに顔を埋め、獣のような声を漏らした。
叫び出したかった。
アスファルトを叩いて、自分の無力さを呪いたかった。
奏。
奏、ごめん。
君はそんな顔で、僕を見ていたのか。
僕が結衣を抱きしめるそのすぐそばで、透明な手を伸ばして、泣いていたのか。
僕の体温は、君のものだったのに。
僕の命は、君が繋いでくれたものだったのに。
僕は何も知らずに、君の目の前で、別の女の子と愛の物語を演じていた。
これ以上の拷問があるだろうか。
これ以上の裏切りがあるだろうか。
あの時の風も、あの時の安堵も、全部君がくれたものだったのに。
僕は「結衣ちゃんが無事でよかった」としか思わなかった。
君の孤独な愛になんて、1ミリも気づかなかった。
「……会いたい」
猛烈な衝動が、身体中を駆け巡った。
謝りたいんじゃない。
償いたいんじゃない。
ただ、抱きしめたい。
あの時、君が伸ばしてくれた透明な手を、今度こそ掴みたい。
すり抜けてしまうとしても、冷たいとしても、構わない。
君の存在を、僕の体温で証明したい。
「待っててくれ、奏」
僕はノートを閉じ、雨の中を走り出した。
まだ終わっていない。
彼女の日記には、まだ続きがある。
この恋心が暴走し、ついに世界の理を壊してしまう、あの日まで。




