31. 僕の知らない物語
雨は、まだ止む気配を見せない。
手の中にある銀色のノートは、雨に濡れてずっしりと重かった。
それは物理的な重量ではない。
ここに記された、一人の少女が抱え続けてきた「10年分の沈黙」の重さだ。
僕は、泥水に座り込んだまま、震える指でページをめくった。
ここから先は、僕が知らない物語。
僕が「結衣に命を救われた」という美しい嘘を信じ込み、勘違いの英雄として生きていた日々の、その裏側の記録だ。
最初のページは、インクが滲んで波打っていた。
そこには、僕の記憶にある懐かしい日付と、僕の知らない冷徹な筆跡が並んでいた。
◆
『2019年 6月12日。雨。中学2年生』
『今日も彼は、愚かなことをした』
その書き出しを見て、僕は息を飲んだ。
2019年。僕が13歳の時だ。
『放課後の教室。彼は、結衣の悪口を言った男子生徒に掴みかかった。
相手は柔道部の主将。勝てるはずがないのに。
「結衣ちゃんを侮辱するのは許さない」なんて、青臭いセリフを吐いて』
記憶が蘇る。
そうだ。あの日、僕はボコボコに殴られた。
前歯が欠け、唇が切れ、制服は血だらけになった。
それでも僕は、結衣のために戦った自分を誇らしく思っていた。
それが「命の恩人」への恩返しだと信じていたから。
でも、奏の視点は違った。
『見ていられなかった。彼が殴られるたびに、私の体がきしむような錯覚を覚えた。彼の口から飛び散る血。腫れ上がる頬。……バカみたい』
『その血は、誰のものだと思っているの?その心臓を動かすエネルギーは、誰が貸してあげたものなの?
私が寿命を削って与えた「時間」を使って、彼は別の女のために傷ついている』
『教室の隅、誰にも見えない場所で、私は拳を握りしめていた。助けてあげたい。痛みを取り除いてあげたい。でも、今の私はただの「観測者」。手出しはできない』
『戦いが終わった後、保健室で手当てを受ける彼に、結衣が泣きついていた。
「ごめんね、廻くん。私のために……」
「いいんだよ。結衣ちゃんが笑ってくれるなら、これくらい」』
『彼は、血の味のする口で笑った。
その笑顔は、私に向けられたことのない、優しくて強いヒーローの顔だった』
『……ふざけないで』
『私が、どれだけの思いでその命を繋いだと思っているの。
泥だらけになって、前歯を折って、そんな無様な姿を晒してまで守る価値が、あの女にあるの?』
『「ありがとう」と言うべき相手は、そこにいる泣き虫な女の子じゃない。あなたの後ろで、息を潜めて見ている私なのに』
『叫びたかった。姿を現して、「その命は私のものよ」と主張したかった。
でも、できなかった。
そんなことをすれば、彼はまた恐怖に顔を歪めるだろう。
あの神社の時のように、私を「死神」として恐れるだろう』
『だから私は、今日も沈黙を守る。彼の「勘違いの恋」が、彼を強くしていくのを、ただ指をくわえて見ている』
『痛い。殴られた彼よりも、見ている私の方が、ずっと痛い』
◆
文字が、乱れていた。
筆圧が強すぎて、紙が破れかけている箇所もある。
当時の彼女の、行き場のない怒りと嫉妬が、指先を通して伝わってくるようだ。
僕は、自分の唇に触れた。
あの日折れた前歯は、今は差し歯になっている。
その傷跡さえも、彼女にとっては「裏切りの証」だったのだ。
僕はページをめくった。
季節は巡り、僕たちは中学を卒業し、高校受験を迎えていた。
◆
『2021年 2月。雪。中学3年生』
『進路指導室の前で、彼と担任の声が聞こえる。
怒号に近い声だ』
『「相沢、お前ならもっと上の進学校を狙えるんだぞ! なんでランクを下げるんだ!」
担任の説得は正論だった。
彼の成績なら、県内トップの高校だって余裕で合格できる。
それだけの知能と才能を、彼は持っていた』
『でも、彼は頑固に首を横に振った。
「いえ、南高校に行きます」
「だから、理由を言え!」
「……結衣ちゃんが、そこを受けるから」』
読んでいて、顔から火が出るようだった。
そうだ。僕は自分の将来なんてどうでもよかった。
結衣と同じ高校に行き、彼女のそばにいること。それだけが人生の目的だった。
「恩人の彼女を守るためなら、学歴なんて安い代償だ」と本気で思っていた。
『廊下の窓際で、私はため息をついた。
雪が降っている。私の心の中みたいに、冷たくて白い雪』
『彼は、自分の才能をドブに捨てようとしている。
たった一人の少女のために。
その献身は、美しいというより、もはや狂気だ』
『でも、悔しいけれど……。
そんなふうに、何か一つを迷いなく選び取れる彼が、眩しく見えてしまう』
『もしも。
もしもあの日、私が記憶を消さなかったら。
もしも私が、正直に「私が助けたのよ」と恩を着せていたら。
彼は、私のためにその才能を使ってくれただろうか?』
『「奏のために、死神の学校に行くよ」なんて、笑ってくれただろうか?』
『……想像して、虚しくなった。ありえない。
私は、彼の人生の登場人物ですらない。
ただの背景。ただのシステムの一部』
『彼が合格発表の日、結衣と手を取り合って喜ぶ姿を見て、私は決めた。
もう、期待するのはやめよう。
私は観測者。10年後に彼の魂を回収するだけの、冷徹な機械になろう』
『そう決めたはずなのに。
彼が「やった!」と満面の笑みで空を見上げた時。
一瞬だけ、私と目が合った気がして……心臓が跳ねてしまった』
『バカな私。
彼は空を見上げただけ。
そこにいる「透明な私」なんて、映っているはずがないのに』
◆
『2021年 4月。高校入学式』
『新しい制服。少し背が伸びた彼。
桜並木の下で、彼は結衣のカバンを持って歩いている』
『「重くない? 持つよ」
「えー、悪いよぉ」
「いいって。鍛えてるし」』
『彼は、私のあげた時間を使って、体を鍛え、勉強をし、優しさを育んでいる。
そのすべてが、結衣という「器」に注がれている』
『私は、桜の木の枝に座って、その光景をスケッチした。
二人の幸せそうな姿。
まるで少女漫画のワンシーン。
そこに、死神が入り込む余地なんて1ミリもない』
『でも、不思議ね。
腹が立つはずなのに、憎らしいはずなのに。
私のあげた命で、彼がこんなにも生き生きと動いているのを見ると……なんだか、誇らしいような気持ちになってしまう』
『「育ての親」の心境?
それとも、これが……』
『文字にするのはやめておこう。
認めてしまったら、私はもう「観測者」には戻れなくなる気がするから』
◆
日記の余白に、桜の花びらの押し花が挟まれていた。
10年前の色あせた花びら。
彼女は、僕たちが見ていたのと同じ桜を、同じ風を感じながら、たった一人で見上げていたのだ。
「……気づけよ、僕」
僕は、過去の自分を殴りたかった。
空を見上げた時、目が合った気がした?
それは気のせいじゃなかったはずだ。
彼女はそこにいたんだ。
ずっと、一番近くで、一番遠い場所から、僕を見守っていたんだ。
僕が結衣のために強くなるたびに。
僕が結衣のために優しくなるたびに。
彼女は、自分のあげた命が「正しく、けれど残酷に」使われているのを確認して、傷つきながらも目を離せなかったのだ。
そして、物語は高校生活へと進む。
二人の距離が近づき、奏の孤独がいっそう深まる季節へ。
僕は、雨に濡れて重くなったページを、慎重にめくった。
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