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さよならの陽炎を、追いかけて  作者: 七瀬 澪
第三章 「銀色の観測者」(過去編)

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30. 偽りの英雄

「――ッ、ガハッ!!」


猛烈な勢いで、肺に空気が流れ込んできた。


閉じられていた気道が無理やりこじ開けられ、生温かい酸素が全身の血管を駆け巡る。


「げほっ! げほっ、うぇっ、ごほっ!!」


僕は、川岸の岩場で激しく咳き込みながら、胃の中の水を大量に吐き出した。


喉が焼けるように痛い。


視界がチカチカと明滅する。


背中には、フライパンのように焼けた岩の感触。


ジリジリと肌を刺す真夏の太陽。


そして、耳をつんざくような蝉時雨。

生きてる。


僕は、生きてる。


さっきまであの静寂な灰色の世界にいたのが嘘みたいに、世界はやかましく、眩しく、生気に満ちていた。


「め、廻くん……!?」


すぐ横で、悲鳴のような声が鼓膜を叩いた。


結衣だ。


彼女はずぶ濡れで、髪も服も泥だらけで、僕の肩を揺さぶっていた。


その顔は涙と鼻水でぐしゃぐしゃで、唇は紫色に震えている。


「よかったぁ……っ! 起きないから……もう、死んじゃったかと思って……っ!」


「……ゆい、ちゃん?」


僕は呆然と体を起こそうとして、力が入らずに崩れ落ちた。


頭が割れるように痛い。記憶が、霧がかかったように曖昧だ。


(あれ? 僕、なんでここにいるんだ?)


状況を整理する。


結衣ちゃんが足を滑らせて、淵に落ちた。


僕は飛び込んで、彼女を押し上げた。


そこまでは覚えている。


でも、そのあと僕は力尽きて、暗い水底へ沈んでいったはずだ。


水面に手は届かなかった。意識も途切れた。


誰かが引き上げてくれなきゃ、絶対に助からない状況だった。


自力で上がれるはずがない。


周囲を見渡しても、ここには僕たち二人しかいない。


大人も、通りすがりの人もいない。


ということは――。


僕は、僕のTシャツの裾を白くなるほど強く握りしめている、結衣の小さな手を見た。


その手は泥だらけで、爪には苔が挟まっていた。


必死で、何か重いものを掴もうとした痕跡。


(……結衣ちゃんが、助けてくれたの?)


僕の脳が、消された記憶の空白を埋めるために、最も合理的で、最も美しい「嘘」を書き込んだ。


『僕が沈んだあと、彼女が必死で手を伸ばしてくれたんだ』


『火事場の馬鹿力で、僕の腕を掴んで、引きずり上げてくれたんだ』


僕の命の恩人は、結衣ちゃんなんだ。


「……ありがとう、結衣ちゃん」


僕は、震える彼女の手を両手で包み込んだ。


熱い涙が溢れてきた。


生きて会えたことへの安堵と、彼女への強烈な感謝が、胸の中で混ざり合う。


「結衣ちゃんが、助けてくれたんだね」


僕がそう言うと、結衣はしゃくり上げながら、一瞬だけ戸惑ったような顔をした。


彼女自身、パニックの最中で記憶が曖昧だったのだろう。


ただ必死に手を伸ばしていたら、僕が息を吹き返した。


でも、僕の確信に満ちた目を見て、彼女はコクンと頷いた。


「そうだよ」とは言わなかった。


ただ、否定しなかった。


彼女もまた、僕が生きていたことへの安心感と、感謝されたことへの心地よさに、流されてしまったのだ。


その瞬間。


僕の中で、歪な「信仰」が生まれた。


この命は、もう僕のものじゃない。


一度死んだ僕を、彼女がこの世に繋ぎ止めてくれた。


なら、この拾った命(レンタル品)は、すべて彼女に捧げるべきだ。


「僕、決めたよ」


僕は、涙を拭って彼女を見つめた。


10歳の小さな体で、一生を縛るほどの重い誓いを立ててしまった。


「この命は、全部君のために使う」


「え……?」


「君が悲しい時は、僕が絶対に助ける」


「君が笑ってくれるなら、僕はなんだってする」


言葉が、勝手に溢れ出した。


それはまるで、魂に刻まれた「契約」の条文を無意識に読み上げているようだった。


契約相手を間違えたまま。


「たとえ時間を巻き戻してでも……1秒でも長く、君を幸せにする」


それは、水底の死神への裏切りだった。


僕に「時間」を貸してくれた本当の恩人を忘れ、別の少女に永遠の愛を誓う。


これ以上ないほどの、残酷なピエロの誕生だった。



その光景を。


少し離れた木の上から、銀色の髪の少女が見下ろしていたことを、僕は知らなかった。


ノートの次のページ。


そこには、当時の彼女の心境が、インクの染みと共に記されていた。


『2016年 8月15日。契約成立直後』


『彼は、私を忘れた』


『そして、隣にいた少女を「命の恩人」だと信じ込んだ』


『滑稽だ。傑作だ。笑いが止まらない』


『冷たい水底から彼を拾い上げたのは、私なのに』


『心臓を動かし、岸まで放り投げたのは、私なのに』


『私の寿命エネルギーを削って与えた「時間」を、彼はあの少女のために使うと誓った』


文字が、乱れている。


怒りか、悲しみか、あるいは嫉妬か。


『……でも、訂正はしない』


『だって、その方が彼は幸せでしょう?』


『死神に生かされた不気味な命より、好きな女の子に救われた奇跡の命の方が、ずっと綺麗で、輝いているもの』


『私の手は冷たいから。……あの子の手みたいに、彼を温めることはできないから』


『だから私は、何も言わない』


『あなたがその勘違いのまま、あの子のために命を燃やす様を、特等席で見せてもらうわ』


日記の最後は、自分に言い聞かせるように締めくくられていた。


『せいぜい、いい「養分」になりなさい。……私の、偽りの英雄さん』



現在。


雨の路地裏。


僕は、ノートを抱えたまま、アスファルトに突っ伏した。


胃の底から、熱い鉛のようなものがせり上がってくる。


「う、ぅあぁ……っ!!」


吐き気がした。


自分の愚かさに、心臓が潰れそうだった。


この10年間、僕はずっと結衣のために生きてきた。


「彼女に命を救われたから」という感謝を原動力に、彼女の笑顔のためなら何でもした。


彼女がピンチの時は駆けつけ、彼女が泣いている時はそばにいた。


でも、その前提がすべて嘘だったとしたら?


僕が結衣に「君のおかげで生きている」と感謝するたびに。


僕が結衣に「この命に代えても守る」と愛を誓うたびに。


本当の命の恩人である奏は、どんな気持ちでそれを聞いていたんだ?


自分の存在をなかったことにされ、自分のあげた命(時間)を使って、別の女への愛を紡がれる。


そんな地獄のような時間を、彼女は10年間も、たった一人で耐えてきたのか?


それどころか、彼女はループするたびに僕を助けていた。


僕が結衣を救おうとして失敗し、死ぬたびに、彼女はまた時間を巻き戻してくれた。


つまり僕は、『奏の命を削って、結衣を愛していた』ということになる。


「……っ、ううぅぅぅッ!!」


声にならない慟哭が漏れる。


なんて残酷なことを。


なんて酷いことを、僕は彼女に強いていたんだ。


「違う……違うんだ、奏」


僕は、誰もいない雨空に向かって、泥だらけの手を伸ばした。


「僕が生きたかったのは……」


「僕を助けてくれたのは、君なのに……っ!」


雨音がいっそう強くなる。


まるで、彼女が流せなかった10年分の涙のように、冷たく、容赦なく僕を打ちつけた。


このノートには、まだ続きがある。


ここから始まる10年間の観察記録。


それは、死神が人間に恋をして、自らを滅ぼしていくまでの、緩やかな自殺の記録だった。

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