29. 水底の取引
「結衣ちゃん!!」
恐怖など、感じる暇もなかった。
僕は地面を蹴った。考えるよりも早く、本能が体を突き動かしていた。
ドボォンッ!!
巨大な水柱と共に、僕もまた深みへと飛び込んだ。
一瞬にして、世界が変わった。
真夏の太陽に焼かれた肌を、氷の刃のような冷水が切り裂く。
視界は白い泡に覆われ、鼓膜は水圧で塞がれた。
(冷たい、冷たい、冷たい!)
水中で目を開ける。
泡の向こうで、結衣がもがいているのが見えた。
彼女は泳げない。
パニックになって空気を吐き出し、まるで足首に重りでもついているかのように沈んでいく。
(死なせない!)
僕は必死に水をかいた。
水流が重い。服が水を吸って、鉛のように体にまとわりつく。
それでも僕は、彼女の腰に手を回し、抱き寄せた。
川底の岩を足場にして、渾身の力で踏み切る。
上がれ。上がれぇぇぇっ!!
僕の全体重と、火事場の馬鹿力を込めて、彼女を水面の方へ押し上げる。
頭上の光が近づく。
ザバァッ!
僕の手が彼女の背中を押し切り、彼女の顔が水面に出たのが見えた。
咳き込む音と、岩にしがみつく必死な手。
助かった。
助けられた。
そう確信した瞬間だった。
フッ……と。
僕の体から、すべての力が抜け落ちた。
安堵したせいなのか、急激な温度変化で足がつったのか。
岸に手をかけようとした指先が、空しく空を切る。
(あ、れ……?)
視界が下へとスライドしていく。
水を含んだ衣服が、今度は僕を川底へと引きずり込んでいく。
「めぐ……り、くん?」
水面の向こう、岩の上から結衣が振り返るのが見えた。
彼女の顔が、恐怖に歪んでいく。
手を伸ばしてくれている。
でも、届かない。
ブクブクブク……。
口から銀色の泡が漏れた。
水面が遠ざかる。
太陽の光が、ゆらゆらと歪んで遠のいていく。
苦しい。
息ができない。
肺が焼けつくように熱いのに、指先は氷のように冷たい。
(ああ、やっぱり)
7歳の僕は、唐突にそれを悟った。
ドラマや漫画で見るような劇的なものじゃない。
ただ、スイッチが切れるように、寒くて暗い場所へ落ちていくだけ。
『明日、あなたたちは終わる』
あの予言通りだ。
僕は大人になれずに、ここで終わるんだ。
ごめんね、お母さん。
ごめんね、結衣ちゃん。
帽子、拾ってあげられなくて。
意識が薄れていく。
視界が青から紺へ、そして完全な漆黒へと染まっていく。
もう、何も見えない。
もう、何も聞こえない。
僕の人生は、ここで終わった。
……はずだった。
その、絶対的な闇の中で。
カチリ。
奇妙な音が響いた。
まるで、壊れた懐中時計の蓋を開けるような、硬質な金属音。
次の瞬間。
冷たさが消えた。
苦しさが消えた。
流れる水の音も、遠くの蝉の声も、すべてが遮断された「完全な静寂」が訪れた。
「……だから言ったでしょう?」
頭上から、あの声が降ってきた。
目を開ける。
そこは、色が消え失せた「灰色の水中」だった。
水泡も、舞い上がった砂も、すべてが空中で静止している。
その中で、一人だけ色彩を持った少女が、僕を見下ろしていた。
銀色の髪。
底知れぬガラスの瞳。
黒いワンピースの裾を優雅に揺らめかせ、彼女は重力を無視して、水底に横たわる僕の鼻先にふわりと降り立った。
奏だ。
昨日の予言者が、そこにいた。
「『水遊び日和』だったでしょう?」
彼女は、死にかけている僕の頬を、冷たい指先でつついた。
その瞳には、憐れみも同情もない。
ただ、壊れたおもちゃを検分するような、冷徹で、少しだけ楽しげな光があった。
「……だれ?」
水の中なのに、声が出た。息ができる。
「私は観測者。……あなたたちの言葉で言うなら『死神』」
彼女はクスクスと笑った。
「あなたの寿命は、あと5秒で尽きるわ。心臓麻痺。苦しまずに逝けるのが、せめてもの救いね」
「……やだ」
僕は首を振った。
恐怖で震える声が、灰色の水中に響く。
「しにたく、ない……もっと、いきたい……」
「そう。往生際が悪いのね」
彼女は、まるで駄々をこねる子供をあやすように、僕の顔を覗き込んだ。
「じゃあ、取引しましょうか」
「とり、ひき?」
「ええ。私があなたの時間を少しだけ巻き戻して、助かる世界線に連れて行ってあげる」
彼女の瞳が、青白く妖しく輝いた。
それは、昨日の警告とは違う。甘美で、危険な誘惑の色だった。
「その代わり――あなたの命を、私が『予約』するわ」
「よ、やく?」
「そう。これから10年間。あなたの命は私からの『レンタル品』になる」
彼女は白くて細い指を一本立て、僕の心臓の上にかざした。
「期限は2026年の8月31日。あなたが大人になりかけたその瞬間に、私は利子をつけてその命を回収しに来る」
「その時、あなたの体も心も、全ては私のものになる。……それでも、生きたい?」
10年。
7歳の僕にとって、それは永遠にも等しい長さだった。
今ここで終わるより、10年でも長く生きられるなら。
結衣と一緒にいられるなら。
その代償が、魂を売り渡すことだとしても。
「……うん。いいよ」
僕は答えた。
震える声で、運命を受け入れた。
「契約成立ね」
少女は満足そうに微笑むと、僕の手を握った。
氷のように冷たい手。
そして、もう片方の手で僕の額に触れた。
「ただし、記憶は消させてもらうわ。……死神に怯えて暮らす10年なんて、つまらないでしょう?」
彼女の顔が近づく。
氷のような吐息が、僕の顔にかかる。
「忘れて、笑って、幸せになりなさい。
……そして最期の瞬間に思い出して、絶望すればいい」
視界が白く染まる。
彼女の銀髪が、光の中に溶けていく。
「さよなら、廻。……また10年後に」
カチリ。
時が動き出す。




