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さよならの陽炎を、追いかけて  作者: 七瀬 澪
第一章「1秒の対価」

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2. 教室の静止画

五限の教室は、水槽の底に似ていた。


古い扇風機が緩慢な音を立てて生温い空気をかき回し、生徒たちはその澱みの中で、溺れないように静かに息を殺している。


 パキン。


廻は右目の奥で、見慣れた「世界の亀裂」を鳴らした。  

一秒前、教壇の教師が手元のチョークを折り、その破片が最前列の女子生徒のノートを汚そうとしていた。

だが、やり直した後の世界では、教師はチョークを折ることなく、滑らかに数式を書き進めている。


これでいい。


誰も気づかない。


誰も不快な思いをしない。  


廻は満足げに、手の中のシャープペンシルを回した。


この完璧な静止画のような日常は、僕が調律し続けているからこそ成立しているのだ。


僕は神ではないが、この教室における運命の編集者ではあった。


「――ねえ、空乃さんってさ。その髪、本物の銀色?」


静寂を切り裂いたのは、佐藤の声だった。

クラスの空気を支配したがる、無遠慮な男。

彼は奏の隣の席に腰掛け、許可も得ずに彼女の銀色の髪を一房、指先で弄ぼうとしている。  

奏は窓の外の入道雲を見つめたまま、微動だにしない。


「……触らないで」


「いいじゃん、減るもんじゃないし。そんなにツンツンしてると、せっかくの顔が台無しだぜ?」


周囲に微かな失笑が漏れる。


奏の表情は変わらない。


だが、机の下で握りしめられた彼女の指先が、微かに震えたのを廻は見逃さなかった。


助けてやる。

僕が最もスマートな形で。  

右目に意識を集中させる。


 パキン。


一回目。

佐藤が髪に触れる瞬間に大声で呼びかける。


――不自然だ。


 パキン。


二回目。

佐藤の椅子を蹴飛ばす。


――乱暴すぎる。


 パキン。  


三回目。

廻は席を立たず、あくびを噛み殺しながら言った。


「佐藤。お前、その髪の毛一本でも傷つけたら、明日からの弁当、全部購買の不人気パンにすり替えられる呪いにかかるぞ。昨日の昼、こっそり隠れて食べてた期間限定の激辛焼きそばパン、まだ胃に残ってるんだろ」


「……あ? なんでお前がそれを知って……っていうか、呪いってなんだよ。気味わりいな、相沢。お前、たまにマジで予言者みたいなツラするよな」


佐藤は手を引いたが、クラスの視線が「気味の悪いものを見る目」に変わった。  

筒抜けすぎるプライバシー。

正解だが、スマートじゃない。  

奏を助けることはできても、これでは僕が「普通」の日常から逸脱してしまう。


やり直しを経て辿り着いた、四回目の現在。  


佐藤が口を開く一瞬前、廻はわざとらしく自分のペンケースを床にぶちまけた。  

派手な音が響き、教室内すべての視線が廻に集まる。

佐藤の指が止まる。


「悪い、手が滑った。……佐藤、ついでにそっちに転がった消しゴム拾ってくれないか」


「あ? ……チッ、相沢かよ。ほらよ」


佐藤は奏への興味を失い、自分の席へと戻っていった。


完璧な介入。


奏は辱めを受けずに済み、佐藤も「自分が邪魔をされた」ことにすら気づいていない。

これこそが僕の、全能に近い「優しさ」の形だ。


放課後。帰り支度を整える奏の背中に、廻は声をかけた。


「災難だったな。あいつ、悪気はないんだろうけど、距離感がバカなんだよ」


奏が、ゆっくりと、錆びた歯車を動かすような仕草で顔を上げた。  

その瞳に映る自分を見た時、廻は一瞬、心臓を冷たい指でなぞられたような感覚に陥った。  


彼女の瞳の色が、判別できないほど淡く、白っぽく見えたからだ。


「……眩しいな」


廻は目をこすり、窓の外の夕陽を見やった。


校庭の砂の色が、昨日よりも心なしか白茶けて見える。


「西日が強すぎるせいか。最近、少し疲れが溜まってるのかもしれない」


「……いいえ、眩しいのは光のせいじゃないわ」


奏の声は、冬の朝の空気のように澄んでいた。

冷たく、けれどどこか、壊れ物に触れるような柔らかさを孕んで。


「相沢くん。……今の、ありがとう。でも、本当はあの子に、後悔させてあげたかった」


「後悔? 何を言ってるんだ。あいつに絡まれて、お前は嫌な思いをしただろ。それを俺が――」


「そうね。あなたは『なかったこと』にした。でも、あの子が私に嫌な思いをさせて、それを後で『悪いことをした』と恥じるはずだった未来も、あなたは一緒に殺してしまったのよ」


奏は机の上の銀色のノートを抱きしめた。


「失敗も、痛みも、後から振り返れば大切な人生の一部なのに。あなたはそれを、ゴミ箱に捨てるみたいに簡単に消してしまう」


「……消して何が悪い。不快な思いをする人間がいないなら、それが正解だろ」


「それは、誰のための正解? ……さっきから、耳元で硝子が割れる音が止まらないの」


奏が、一歩だけ歩み寄る。彼女から漂うのは、雨上がりのような、ひやりとした匂い。


「その音がするたび、あなたの周りから少しずつ、色彩が零れ落ちていく。……相沢くん、あなたの右目、さっきから何度も壊れてる」


廻は言葉を失った。右目の秘密を、やり直しの瞬間を、これほどまでに明確に指摘されたのは初めてだった。


「……何を知っているんだ、お前は」


「あなたが無理に笑わなくてもいい時間を……もしできるなら、私が預かってあげられたらいいのに」


奏の瞳には、慈悲のような色が混じっていた。

それは、偽物の完璧さで武装した廻にとって、何よりも耐え難い「正論」だった。


「色彩が薄いのは、夏の陽炎のせいだ。視界が白んでいるのは、熱に浮されているだけだ。……お前の妄想に付き合う暇はない」


廻は逃げるように教室を後にした。  


廊下で、夕陽を背負った結衣が「あ、廻! 一緒に帰ろう!」と手を振る。  


その笑顔を見ても、心は波立たない。

ただ、彼女が振る手の残像が、異常に長く視界に焼き付いて離れなかった。


「……気のせいだ。ただの、暑さのせいだ」


廻は右目を強く押し込み、痛みを無理やり奥底へ封じ込めた。

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