28. 銀色の警告、金色の誘惑
「――っ!?」
僕は弾かれたように振り返った。
心臓が、早鐘を打っている。
しかし、そこには誰もいなかった。
楠の木陰。朱色の鳥居。揺れる陽炎。
さっきまで、あの銀色の髪の少女が立っていた場所には、ただ濃い影が落ちているだけだった。
「……消え、た?」
そんな馬鹿な。足音一つしなかった。
まるで最初から、そこに幽霊か何かが立っていたかのように、気配ごと消失していた。
いや、違う。
僕の耳元には、氷を押し当てられたような冷たい感触が、確かに残っている。
鼻腔には、雨上がりのアスファルトのような、あるいは病院の消毒液のような、無機質な香りが張り付いて離れない。
『明日、あなたたちは終わる』
その言葉が、呪いのように頭の中で反響した。
美しい声だった。歌うような、楽しそうな声だった。
だからこそ、怖かった。
僕は震える足で後ずさりし、逃げるように石段を駆け下りた。
背中に、見えない視線が突き刺さっている気がした。
空の上から、あのガラス玉のような瞳が、僕を見下ろして笑っている気がした。
◆
家に帰っても、その恐怖は消えなかった。
いつもは大好きな夕飯のカレーも、砂を噛んでいるようで味がしなかった。
テレビのお笑い番組を見ても、観客の笑い声が悲鳴に聞こえた。
お風呂に入っても、シャワーのお湯が氷水のように感じられた。
鏡に映る自分の顔が、死人のように青白く見えて、僕は慌てて電気を消して布団に潜り込んだ。
「行っちゃダメだ」
タオルケットを頭まで被り、僕は何度もそう思った。
結衣ちゃんには悪いけど、場所を変えてもらおう。
行かなければ何も起きない。あの予言は外れる。
「絶対に行かない……絶対……」
そう自分に言い聞かせ、僕は浅い眠りに落ちた。
夢を見た。
暗い水底で、誰かが僕の足を掴んで引きずり込む夢だった。
翌朝。
8月15日の朝は、皮肉なほど完璧な快晴だった。
ピンポーン。
午前9時。インターホンが鳴った。
僕の決意を試すような、明るく軽快な音。
「はーい、ちょっと待ってねー」
お母さんが玄関を開ける音がする。
僕は二階の部屋で、膝を抱えて動けずにいた。
断らなきゃ。帰ってもらわなきゃ。
「めぐりくーん! 遊ぼー!」
玄関ホールから、突き抜けるような明るい声が響いた。
結衣の声だ。
僕は、吸い寄せられるように部屋を出て、階段の上から下を覗き込んだ。
そこには、太陽そのものがいた。
新しい水着の上に白いTシャツを着て、麦わら帽子を被り、大きな浮き輪を抱えた結衣。
彼女は僕を見つけると、ひまわりのような満面の笑みで手を振った。
「廻くん! おはよー! 快晴だよ! 最高だよ!」
その眩しさを前にした瞬間。
昨夜の恐怖も、固い決意も、朝霧のように消し飛んでしまった。
「怖いから行かない」なんて、彼女の前では言えなかった。
それに、もし僕が断ったら、彼女は「じゃあ一人で下見に行ってくる!」なんて言い出しそうだった。
(僕がついてなきゃ)
この笑顔を守れるのは、僕しかいない。
僕が一緒に行って、危ないことはさせなければいいんだ。
あんな不気味な女の子の予言なんて、僕が外してやる。
「……うん、今行く!」
僕は階段を駆け下りた。
その一歩が、断頭台への階段だとも知らずに。
◆
道中、僕たちはコンビニに寄った。
お昼ごはん用のおにぎりと、おやつ、それに凍らせたスポーツドリンクを買った。
レジのおばちゃんに「気をつけて行ってくるんだよ」と言われ、「はーい!」と声を揃えて返事をした。
神社の裏山への道は、強烈な暑さだった。
アスファルトから立ち昇る陽炎。
鼓膜を震わせる蝉時雨。
僕は時々、不安になって後ろを振り返った。
あの銀髪の少女がつけてきていないか。
木陰から僕たちを見ていないか。
けれど、そこにあるのは普通の夏の風景だけだった。
僕は少しずつ、警戒心を解いていった。
◆
午前11時。
僕たちは、秘密基地の川に到着した。
そこは、不気味な予言とは裏腹に、楽園のように美しかった。
エメラルドグリーンの水面。木漏れ日が底の白い砂利を照らし、小さな魚たちがキラキラと泳いでいる。
「うわぁ……! すっごい綺麗!」
結衣が歓声を上げ、サンダルを脱ぎ捨てる。
僕たちは浅瀬に入った。
「冷たーい!!」
キーンと冷たい水が、汗ばんだ肌を一気に冷やしていく。
僕の心にこびりついていた不安も、この清流が洗い流してくれたような気がした。
「見て廻くん! サワガニがいる!」
「本当だ。あ、こっちにはオタマジャクシ!」
午前中は、平和そのものだった。
浅瀬で石をひっくり返してカニを探したり、持ってきた水鉄砲で撃ち合いをしたり。
岩場に座って食べたおにぎりは、世界で一番美味しかった。
「ねえ、帰りたくないね」
おにぎりを頬張りながら、結衣が言った。
「うん。ずっと夏休みならいいのにね」
僕も頷いた。
なんだ、やっぱり何も起きないじゃないか。
あの子はただの嘘つきで、意地悪な幻だったんだ。
そうして、お昼が過ぎた。
太陽が一番高いところから少し傾き、水面に複雑な陰影を落とし始めた頃。
僕たちは、少し冒険心が湧いてきた。
もっと奥へ。もっと面白い場所へ。
「ねえ、あっちの方、行ってみない?」
結衣が指差したのは、上流の岩場だった。
そこは木々が鬱蒼と茂り、水深が深くなっている、淵がある場所。
一瞬、背筋に冷たいものが走った。
けれど、結衣のワクワクした顔を見ていると、それを止めることができなかった。
「……うん、ちょっとだけなら」
それが、運命の分かれ道だった。
◆
午後3時。
淵の近くの岩場。
「あ! 廻くん、あそこ!」
結衣が声を潜め、水面の奥を指差した。
そこは、流れが速く、青黒く沈んだ深みの上だった。
「金色の魚! ……『ぬし』だよ!」
「え?」
見ると、確かに水面の揺らぎの奥に、大きな魚影がキラリと光った気がした。
結衣の目が輝く。
『ずっと一緒にいられますように』という、純粋な願いを叶えるために。
「捕まえなきゃ! お願い事しなきゃ!」
彼女は虫取り網を構えた。
その足元は、水しぶきと苔で、黒く濡れていた。
「あ、結衣ちゃん! 待って、そっちは――」
僕が止める間もなく、彼女は濡れた岩へと飛び移った。
その瞬間。
昨日の少女の声が、脳内で再生された。
まるで、耳元で囁かれたかのように鮮明に。
『足元の苔が、どれくらい滑りやすいか』
世界が、スローモーションになった。
ツルッ。
乾いた音がした。
黒く濡れた岩の苔に、サンダルの底が滑る音。
「――え?」
結衣の体が、重力を失って宙に浮く。
彼女の視線が僕と合い、恐怖に見開かれる。
空中に投げ出された虫取り網が、クルクルと回って落ちていく。
ドボォンッ!!
巨大な水しぶきと共に、彼女の体が淵の深みへと飲み込まれた。




