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さよならの陽炎を、追いかけて  作者: 七瀬 澪
第三章 「銀色の観測者」(過去編)

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28. 銀色の警告、金色の誘惑

「――っ!?」


僕は弾かれたように振り返った。


心臓が、早鐘を打っている。


しかし、そこには誰もいなかった。


楠の木陰。朱色の鳥居。揺れる陽炎。


さっきまで、あの銀色の髪の少女が立っていた場所には、ただ濃い影が落ちているだけだった。


「……消え、た?」


そんな馬鹿な。足音一つしなかった。


まるで最初から、そこに幽霊か何かが立っていたかのように、気配ごと消失していた。


いや、違う。


僕の耳元には、氷を押し当てられたような冷たい感触が、確かに残っている。


鼻腔には、雨上がりのアスファルトのような、あるいは病院の消毒液のような、無機質な香りが張り付いて離れない。


『明日、あなたたちは終わる』


その言葉が、呪いのように頭の中で反響した。


美しい声だった。歌うような、楽しそうな声だった。


だからこそ、怖かった。


僕は震える足で後ずさりし、逃げるように石段を駆け下りた。


背中に、見えない視線が突き刺さっている気がした。


空の上から、あのガラス玉のような瞳が、僕を見下ろして笑っている気がした。



家に帰っても、その恐怖は消えなかった。


いつもは大好きな夕飯のカレーも、砂を噛んでいるようで味がしなかった。


テレビのお笑い番組を見ても、観客の笑い声が悲鳴に聞こえた。


お風呂に入っても、シャワーのお湯が氷水のように感じられた。


鏡に映る自分の顔が、死人のように青白く見えて、僕は慌てて電気を消して布団に潜り込んだ。


「行っちゃダメだ」


タオルケットを頭まで被り、僕は何度もそう思った。


結衣ちゃんには悪いけど、場所を変えてもらおう。


行かなければ何も起きない。あの予言は外れる。


「絶対に行かない……絶対……」


そう自分に言い聞かせ、僕は浅い眠りに落ちた。


夢を見た。


暗い水底で、誰かが僕の足を掴んで引きずり込む夢だった。


翌朝。


8月15日の朝は、皮肉なほど完璧な快晴だった。


ピンポーン。


午前9時。インターホンが鳴った。


僕の決意を試すような、明るく軽快な音。


「はーい、ちょっと待ってねー」


お母さんが玄関を開ける音がする。


僕は二階の部屋で、膝を抱えて動けずにいた。


断らなきゃ。帰ってもらわなきゃ。


「めぐりくーん! 遊ぼー!」


玄関ホールから、突き抜けるような明るい声が響いた。


結衣の声だ。


僕は、吸い寄せられるように部屋を出て、階段の上から下を覗き込んだ。


そこには、太陽そのものがいた。


新しい水着の上に白いTシャツを着て、麦わら帽子を被り、大きな浮き輪を抱えた結衣。


彼女は僕を見つけると、ひまわりのような満面の笑みで手を振った。


「廻くん! おはよー! 快晴だよ! 最高だよ!」


その眩しさを前にした瞬間。


昨夜の恐怖も、固い決意も、朝霧のように消し飛んでしまった。


「怖いから行かない」なんて、彼女の前では言えなかった。


それに、もし僕が断ったら、彼女は「じゃあ一人で下見に行ってくる!」なんて言い出しそうだった。


(僕がついてなきゃ)


この笑顔を守れるのは、僕しかいない。


僕が一緒に行って、危ないことはさせなければいいんだ。


あんな不気味な女の子の予言なんて、僕が外してやる。


「……うん、今行く!」


僕は階段を駆け下りた。


その一歩が、断頭台への階段だとも知らずに。



道中、僕たちはコンビニに寄った。


お昼ごはん用のおにぎりと、おやつ、それに凍らせたスポーツドリンクを買った。


レジのおばちゃんに「気をつけて行ってくるんだよ」と言われ、「はーい!」と声を揃えて返事をした。


神社の裏山への道は、強烈な暑さだった。


アスファルトから立ち昇る陽炎。


鼓膜を震わせる蝉時雨。


僕は時々、不安になって後ろを振り返った。


あの銀髪の少女がつけてきていないか。


木陰から僕たちを見ていないか。


けれど、そこにあるのは普通の夏の風景だけだった。


僕は少しずつ、警戒心を解いていった。



午前11時。


僕たちは、秘密基地の川に到着した。


そこは、不気味な予言とは裏腹に、楽園のように美しかった。


エメラルドグリーンの水面。木漏れ日が底の白い砂利を照らし、小さな魚たちがキラキラと泳いでいる。


「うわぁ……! すっごい綺麗!」


結衣が歓声を上げ、サンダルを脱ぎ捨てる。


僕たちは浅瀬に入った。


「冷たーい!!」


キーンと冷たい水が、汗ばんだ肌を一気に冷やしていく。


僕の心にこびりついていた不安も、この清流が洗い流してくれたような気がした。


「見て廻くん! サワガニがいる!」


「本当だ。あ、こっちにはオタマジャクシ!」


午前中は、平和そのものだった。


浅瀬で石をひっくり返してカニを探したり、持ってきた水鉄砲で撃ち合いをしたり。


岩場に座って食べたおにぎりは、世界で一番美味しかった。


「ねえ、帰りたくないね」


おにぎりを頬張りながら、結衣が言った。


「うん。ずっと夏休みならいいのにね」


僕も頷いた。


なんだ、やっぱり何も起きないじゃないか。


あの子はただの嘘つきで、意地悪な幻だったんだ。


そうして、お昼が過ぎた。


太陽が一番高いところから少し傾き、水面に複雑な陰影を落とし始めた頃。


僕たちは、少し冒険心が湧いてきた。


もっと奥へ。もっと面白い場所へ。


「ねえ、あっちの方、行ってみない?」


結衣が指差したのは、上流の岩場だった。


そこは木々が鬱蒼と茂り、水深が深くなっている、淵がある場所。


一瞬、背筋に冷たいものが走った。


けれど、結衣のワクワクした顔を見ていると、それを止めることができなかった。


「……うん、ちょっとだけなら」


それが、運命の分かれ道だった。



午後3時。


淵の近くの岩場。


「あ! 廻くん、あそこ!」


結衣が声を潜め、水面の奥を指差した。


そこは、流れが速く、青黒く沈んだ深みの上だった。


「金色の魚! ……『ぬし』だよ!」


「え?」


見ると、確かに水面の揺らぎの奥に、大きな魚影がキラリと光った気がした。


結衣の目が輝く。


『ずっと一緒にいられますように』という、純粋な願いを叶えるために。


「捕まえなきゃ! お願い事しなきゃ!」


彼女は虫取り網を構えた。


その足元は、水しぶきと苔で、黒く濡れていた。


「あ、結衣ちゃん! 待って、そっちは――」


僕が止める間もなく、彼女は濡れた岩へと飛び移った。


その瞬間。


昨日の少女の声が、脳内で再生された。


まるで、耳元で囁かれたかのように鮮明に。


『足元の苔が、どれくらい滑りやすいか』


世界が、スローモーションになった。


ツルッ。


乾いた音がした。


黒く濡れた岩の苔に、サンダルの底が滑る音。


「――え?」


結衣の体が、重力を失って宙に浮く。


彼女の視線が僕と合い、恐怖に見開かれる。


空中に投げ出された虫取り網が、クルクルと回って落ちていく。


ドボォンッ!!


巨大な水しぶきと共に、彼女の体が淵の深みへと飲み込まれた。

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