27. 銀色の予兆
ページをめくる指が、微かに震えていた。
そこに記されていた日付は、運命の前日だった。
『2016年 8月14日。午後4時。神社の境内にて』
文字が滲んで見える。
ここから先の記憶が、僕にとって「恐怖」の象徴であることを、魂が覚えているからだ。
意識が、再び暖かくて残酷な、あの夏の日へと沈んでいく。
◆
「ねえ廻くん、見て見て! 顔、上手に描けたよ!」
縁側で、結衣が弾んだ声を上げた。
彼女の手には、ティッシュペーパーと輪ゴムで作った、歪な形のてるてる坊主が握られている。マジックで描かれたその顔は、満面の笑みを浮かべていた。
「うん、すごい笑顔だね。これなら絶対晴れるよ」
「でしょ? 神様も笑っちゃうくらい笑わせないとね!」
僕たちは、縁側に座って足をぶらつかせながら、明日の準備をしていた。
庭では蚊取り線香の匂いが漂い、風鈴がチリンと涼やかな音を立てている。
お皿の上には、食べかけのスイカ。
スピーカーからは、ラジオ体操のスタンプカードの話や、近所のお祭りのお囃子の練習音が聞こえてくる。
明日は8月15日。
結衣と指切りをした「秘密基地への探検」の日だ。
僕たちは、この世界が永遠に続くと信じていた。
「あのね、廻くん」
結衣がスイカの種を庭にプッと吹き飛ばしながら言った。
「あそこの川の上流には『ぬし』がいるんだって」
「ぬし?」
「うん。大きな魚の王様。金色に光ってて、見つけた人の願い事をなんでも一つだけ叶えてくれるんだって」
「へえ、すごいな」
「明日、二人で探そうよ。もし見つかったら……」
彼女は少し頬を赤らめて、てるてる坊主をギュッと抱きしめた。
「『ずっと一緒にいられますように』って、お願いするの」
なんて、無垢で可愛い願いだろう。
「よし! じゃあこのてるてる坊主、神社の高い木に吊るしに行こう!」
「うん! 一番神様に近いところに吊るそう!」
僕たちは顔を見合わせて笑い合い、サンダルを履いて午後の日差しの中へ駆け出した。
◆
神社の石段は、昼間の熱気を吸い込んで、焼けたフライパンのように熱かった。
境内には、鼓膜が破れそうなほどの蝉時雨が降り注いでいる。
ミンミンミンミン……。
ジジジジジ……。
入道雲が空高く湧き上がり、濃い影を落としている。
湿気を帯びた熱風が肌にまとわりつく、日本の正しい夏。
「あっちー……」
僕は石段の途中で立ち止まり、手の甲で額の汗を拭った。
結衣は「お母さんに呼ばれてるから!」と先に帰ってしまった。
僕は一人で、責任重大な任務――てるてる坊主を吊るす場所を探しに来ていたのだ。
(どこがいいかな)
僕は境内を見渡し、本殿の脇にある大きな楠を見つけた。
あそこの枝なら、空に近い。きっと神様も気づいてくれるはずだ。
僕は汗だくになりながら木の下へ行き、背伸びをして、一番太い枝にてるてる坊主の紐を結びつけた。
風に揺れる白い人形。その笑顔が、青空に映える。
「よし。これで完璧」
僕は満足して頷いた。
明日は晴れる。
結衣と二人で、最高の冒険ができる。
おにぎりを食べて、川で遊んで、魚の王様を探して。
そして夕方には、「また明日ね」って笑ってバイバイするんだ。
そんな未来しか、想像していなかった。
疑いもしなかった。
「……ふぅ」
汗を拭おうとした、その時だった。
フッ。
音が、消えた。
今までうるさいほど鳴いていた蝉の声が、カセットテープを止めたように唐突に途切れたのだ。
風が止む。
木の葉の擦れる音が消える。
遠くの車の走行音さえも遮断され、世界が真空パックされたような「完全な静寂」に包まれた。
「……え?」
僕は周りを見回した。
風景は変わらない。真夏の神社の境内だ。
なのに、肌に感じる温度だけが、急速に下がっていく。
汗ばんだシャツが冷たく張り付き、鳥肌が立つ。
まるで、真冬の夜に放り出されたような冷気。
その発生源は、僕のすぐ後ろにあった。
「明日、晴れるといいわね」
背後から、声がした。
鈴を転がすような、涼やかで、どこか人間離れした美しい声。
けれど、そこには体温が感じられなかった。
僕は、錆びついたロボットのような動きで振り返った。
そこに、彼女がいた。
楠の木陰。
黒いワンピースを着た、銀色の髪の少女が立っていた。
透き通るような白い肌は、真夏の日差しの下でも病的に青白く、汗ひとつかいていない。
ガラス玉のような瞳が、僕の手元――揺れるてるてる坊主を見つめていた。
奏だ。
彼女は、まるで最初からそこの風景の一部だったかのように、静かに佇んでいた。
「……だれ?」
僕は警戒して尋ねた。
近所の子じゃない。こんな綺麗な子、見たことがない。
「通りすがりの観測者よ」
少女はクスクスと笑いながら、重力を感じさせない足取りで近づいてきた。
僕の目の前、わずか数センチの距離で立ち止まる。
冷たい香りがした。
「楽しみ?」
彼女は小首を傾げて聞いた。
「明日の川遊び。……楽しみ?」
「……うん、楽しみだよ」
僕は頷いた。
なんでこの子は、僕たちが明日川に行くことを知っているんだろう?
でも、彼女の雰囲気が不思議すぎて、僕はただ素直に答えた。
「結衣ちゃんと約束したんだ。秘密基地に行って、お願い事をするんだ」
「そう。それは素敵なことね」
彼女は、僕の頭上のてるてる坊主を見上げ、満足そうに目を細めた。
「思いっきり楽しみなさい。
お弁当も、水遊びも、魚探しも。
一秒も無駄にしないように、全部の時間を噛み締めて」
「……? うん、もちろんそのつもりだよ」
変な子だ。
当たり前のことを言っているだけなのに、なぜだろう。
彼女の言葉一つ一つが、遺言のように重く響くのは。
「よかった」
彼女はニッコリと微笑んだ。
その笑顔は、天使のように美しく、そして泣きたくなるほど残酷だった。
彼女は、僕の耳元にそっと唇を寄せた。
氷のような吐息が、鼓膜を刺す。
「いい天気になるといいわね、少年」
「うん、絶対晴れるよ。てるてる坊主も作ったし」
「ええ、そうね」
彼女は、歌うように、楽しそうに、僕の耳元で囁いた。
「だって明日は――あなたたちが、大人になれずに終わる日なんだから」




