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さよならの陽炎を、追いかけて  作者: 七瀬 澪
第三章 「銀色の観測者」(過去編)

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27. 銀色の予兆

ページをめくる指が、微かに震えていた。


そこに記されていた日付は、運命の前日だった。


『2016年 8月14日。午後4時。神社の境内にて』


文字が滲んで見える。


ここから先の記憶が、僕にとって「恐怖」の象徴であることを、魂が覚えているからだ。


意識が、再び暖かくて残酷な、あの夏の日へと沈んでいく。



「ねえ廻くん、見て見て! 顔、上手に描けたよ!」


縁側で、結衣が弾んだ声を上げた。


彼女の手には、ティッシュペーパーと輪ゴムで作った、歪な形のてるてる坊主が握られている。マジックで描かれたその顔は、満面の笑みを浮かべていた。


「うん、すごい笑顔だね。これなら絶対晴れるよ」


「でしょ? 神様も笑っちゃうくらい笑わせないとね!」


僕たちは、縁側に座って足をぶらつかせながら、明日の準備をしていた。


庭では蚊取り線香の匂いが漂い、風鈴がチリンと涼やかな音を立てている。


お皿の上には、食べかけのスイカ。


スピーカーからは、ラジオ体操のスタンプカードの話や、近所のお祭りのお囃子はやしの練習音が聞こえてくる。


明日は8月15日。


結衣と指切りをした「秘密基地への探検」の日だ。


僕たちは、この世界が永遠に続くと信じていた。


「あのね、廻くん」


結衣がスイカの種を庭にプッと吹き飛ばしながら言った。


「あそこの川の上流には『ぬし』がいるんだって」


「ぬし?」


「うん。大きな魚の王様。金色に光ってて、見つけた人の願い事をなんでも一つだけ叶えてくれるんだって」


「へえ、すごいな」


「明日、二人で探そうよ。もし見つかったら……」


彼女は少し頬を赤らめて、てるてる坊主をギュッと抱きしめた。


「『ずっと一緒にいられますように』って、お願いするの」


なんて、無垢で可愛い願いだろう。


「よし! じゃあこのてるてる坊主、神社の高い木に吊るしに行こう!」


「うん! 一番神様に近いところに吊るそう!」


僕たちは顔を見合わせて笑い合い、サンダルを履いて午後の日差しの中へ駆け出した。



神社の石段は、昼間の熱気を吸い込んで、焼けたフライパンのように熱かった。


境内には、鼓膜が破れそうなほどの蝉時雨せみしぐれが降り注いでいる。


ミンミンミンミン……。


ジジジジジ……。


入道雲が空高く湧き上がり、濃い影を落としている。

湿気を帯びた熱風が肌にまとわりつく、日本の正しい夏。


「あっちー……」


僕は石段の途中で立ち止まり、手の甲で額の汗を拭った。


結衣は「お母さんに呼ばれてるから!」と先に帰ってしまった。


僕は一人で、責任重大な任務――てるてる坊主を吊るす場所を探しに来ていたのだ。


(どこがいいかな)


僕は境内を見渡し、本殿の脇にある大きな楠を見つけた。


あそこの枝なら、空に近い。きっと神様も気づいてくれるはずだ。


僕は汗だくになりながら木の下へ行き、背伸びをして、一番太い枝にてるてる坊主の紐を結びつけた。


風に揺れる白い人形。その笑顔が、青空に映える。


「よし。これで完璧」


僕は満足して頷いた。


明日は晴れる。


結衣と二人で、最高の冒険ができる。


おにぎりを食べて、川で遊んで、魚の王様を探して。

そして夕方には、「また明日ね」って笑ってバイバイするんだ。


そんな未来しか、想像していなかった。


疑いもしなかった。


「……ふぅ」


汗を拭おうとした、その時だった。


フッ。


音が、消えた。


今までうるさいほど鳴いていた蝉の声が、カセットテープを止めたように唐突に途切れたのだ。


風が止む。


木の葉の擦れる音が消える。


遠くの車の走行音さえも遮断され、世界が真空パックされたような「完全な静寂」に包まれた。


「……え?」


僕は周りを見回した。


風景は変わらない。真夏の神社の境内だ。


なのに、肌に感じる温度だけが、急速に下がっていく。


汗ばんだシャツが冷たく張り付き、鳥肌が立つ。


まるで、真冬の夜に放り出されたような冷気。


その発生源は、僕のすぐ後ろにあった。


「明日、晴れるといいわね」


背後から、声がした。


鈴を転がすような、涼やかで、どこか人間離れした美しい声。


けれど、そこには体温が感じられなかった。


僕は、錆びついたロボットのような動きで振り返った。


そこに、彼女がいた。


楠の木陰。


黒いワンピースを着た、銀色の髪の少女が立っていた。


透き通るような白い肌は、真夏の日差しの下でも病的に青白く、汗ひとつかいていない。


ガラス玉のような瞳が、僕の手元――揺れるてるてる坊主を見つめていた。


奏だ。


彼女は、まるで最初からそこの風景の一部だったかのように、静かに佇んでいた。


「……だれ?」


僕は警戒して尋ねた。


近所の子じゃない。こんな綺麗な子、見たことがない。


「通りすがりの観測者よ」


少女はクスクスと笑いながら、重力を感じさせない足取りで近づいてきた。


僕の目の前、わずか数センチの距離で立ち止まる。


冷たい香りがした。


「楽しみ?」


彼女は小首を傾げて聞いた。


「明日の川遊び。……楽しみ?」


「……うん、楽しみだよ」


僕は頷いた。


なんでこの子は、僕たちが明日川に行くことを知っているんだろう?


でも、彼女の雰囲気が不思議すぎて、僕はただ素直に答えた。


「結衣ちゃんと約束したんだ。秘密基地に行って、お願い事をするんだ」


「そう。それは素敵なことね」


彼女は、僕の頭上のてるてる坊主を見上げ、満足そうに目を細めた。


「思いっきり楽しみなさい。


お弁当も、水遊びも、魚探しも。


一秒も無駄にしないように、全部の時間を噛み締めて」


「……? うん、もちろんそのつもりだよ」


変な子だ。


当たり前のことを言っているだけなのに、なぜだろう。


彼女の言葉一つ一つが、遺言のように重く響くのは。


「よかった」


彼女はニッコリと微笑んだ。


その笑顔は、天使のように美しく、そして泣きたくなるほど残酷だった。


彼女は、僕の耳元にそっと唇を寄せた。


氷のような吐息が、鼓膜を刺す。


「いい天気になるといいわね、少年」


「うん、絶対晴れるよ。てるてる坊主も作ったし」


「ええ、そうね」


彼女は、歌うように、楽しそうに、僕の耳元で囁いた。



「だって明日は――あなたたちが、大人になれずに終わる日なんだから」


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