26. 秘密基地の夏
雨音だけが、世界の全てだった。
路地裏の軒下。 僕は、膝を抱えるようにして座り込み、手の中にある銀色のノートを見つめていた。 表紙は革製で、ボロボロに擦り切れている。
(……開け)
内なる声に突き動かされ、僕は震える指をノートの端にかけた。 覚悟を決めて、1ページ目をめくる。
そこには、僕の幼い筆跡で、日付と場所が記されていた。
『2016年 8月12日。午後2時。秘密基地にて』
その文字を見た瞬間、僕の視界が歪んだ。 暗い路地裏の風景が、強烈な「白」に塗り潰されていく。 記憶の奔流が、僕を10年前の夏へと連れ戻した。
◆
「――りくん! 廻くん!」
幼い少女の声が、鼓膜を叩いた。
「早く早く! カブトムシ逃げちゃうよ!」
視界が開ける。 強烈な日差しに、目が眩む。
そこは、近所の神社の裏山だった。 空は絵の具をぶちまけたような青。 入道雲が山肌に影を落とし、鼓膜が破れそうなほどの蝉時雨が降り注いでいる。
僕は、その光景の中にいた。 当時の僕の視点を借りて、映画のように体験していた。
山道を走っていくのは、麦わら帽子を被った少女。 10年前の結衣だ。 白いワンピースの裾を泥で汚しながら、虫取り網を片手に、楽しそうに坂道を駆け上がっていく。
「待ってよ、結衣ちゃん」
僕の口から、勝手に言葉が出る。 自分の声だ。でも、今の僕よりずっと高くて、幼い声。 僕は大きな虫かごを抱えて、彼女の後を追っていた。
「転ぶよ? おばさんに怒られるよ」
「平気だよ! 今日は冒険だもん!」
結衣は振り返り、悪戯っぽく舌を出した。 その笑顔があまりに眩しくて、胸が締め付けられるほど懐かしい。
僕たちは、この世界が永遠に続くと信じていた。 明日も、明後日も、大人になっても、ずっとこうして二人で笑い合っていれるのだと、疑いもしなかった。
「あ! 見て廻くん! あそこ!」
結衣が立ち止まり、草むらを指差した。 そこには、古びた金網のフェンスがあり、その向こう側に獣道が続いていた。
「あっちに行ったら、川の方に行けるんだって」
「え、でもあそこ、立ち入り禁止だよ?」
幼い僕は、大人の言いつけを守ろうと首を横に振った。 けれど、結衣の瞳はキラキラと輝いている。
「だからいいんじゃない! 誰も来ないから、私たちの『秘密基地』にできるよ!」
「秘密基地……」
その響きに、僕の心も躍った。 二人だけの場所。大人には内緒の聖域。
「行こう、廻くん! 探検隊、しゅっぱーつ!」
「あ、ちょっと!」
結衣は金網の隙間を器用にすり抜け、向こう側へと消えていく。 僕は慌てて後を追った。 草いきれの匂い。土の匂い。 そして、遠くから微かに聞こえる、川のせせらぎの音。
◆
その日は結局、川までは行かなかった。 途中の開けた場所で、大きな木を見つけたからだ。
僕たちはその木陰に座り、コンビニで買ったアイスを半分こした。 ソーダ味の青いアイス。 当たりが出るかな、なんて言いながら、棒を舐める。
「ねえ、廻くん」
結衣が、口の周りを青くしながら言った。
「来週の月曜日、またここに来ようよ」
「月曜日? 8月15日?」
「うん。その日はお盆だから、お父さんたち忙しいでしょ? だから、一日中ここで遊べるよ」
彼女は、遠くの森の奥――川の音がする方を指差した。
「今度こそ、あの川まで行ってみようよ。すっごく冷たくて、気持ちいいんだって」
「……うん、いいよ」
僕は頷いた。 結衣が行きたいなら、どこへでも行くつもりだった。 それが、どんなに危険な場所でも。
「約束ね! ゆーびきーり、げんまん!」
僕たちは小指を絡ませた。 細くて、温かい、女の子の指。
「嘘ついたら、針千本飲ーます!」
「指切った!」
二人の笑い声が、夏の空に吸い込まれていく。 蝉の声が、わんわんと響いている。
ふと、僕は視線を感じて振り返った。
木漏れ日の向こう。 揺れる陽炎の中に、誰かが立っていた気がした。 黒い服を着た、銀色の髪の女の子のような……。
「廻くん? どうしたの?」
結衣に呼ばれて、僕は瞬きをした。 もう一度見ると、そこには誰もいなかった。 ただ、白い陽炎がゆらゆらと揺れているだけだった。
「……ううん、なんでもない」
僕は立ち上がり、結衣の手を引いた。
「帰ろう。夕焼チャイムが鳴っちゃう」
「うん! またね、秘密基地!」
僕たちは手を繋いで、夕暮れの山道を下っていった。 長く伸びた二つの影が、一つに重なる。
幸せだった。 世界で一番、幸せな夏だった。
3日後に、僕の命が終わるなんてことは、微塵も知らずに。
◆
「……」
路地裏で、僕は息を吐いた。 ノートの上には、まだ何も起きていない「平和な記憶」だけが残っていた。
あまりにも鮮やかすぎる幸せ。 それが逆に、僕の胸をナイフのようにえぐった。
この約束が。 この「秘密基地に行こう」という無邪気な計画が、僕たちの運命を狂わせたのだ。
僕は、震える手で次のページをめくろうとした。 そこには、運命の日までの、不気味なカウントダウンが記されているはずだった。
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