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さよならの陽炎を、追いかけて  作者: 七瀬 澪
第三章 「銀色の観測者」(過去編)

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26. 秘密基地の夏

雨音だけが、世界の全てだった。


路地裏の軒下。 僕は、膝を抱えるようにして座り込み、手の中にある銀色のノートを見つめていた。 表紙は革製で、ボロボロに擦り切れている。


(……開け)


内なる声に突き動かされ、僕は震える指をノートの端にかけた。 覚悟を決めて、1ページ目をめくる。


そこには、僕の幼い筆跡で、日付と場所が記されていた。


『2016年 8月12日。午後2時。秘密基地にて』


その文字を見た瞬間、僕の視界が歪んだ。 暗い路地裏の風景が、強烈な「白」に塗り潰されていく。 記憶の奔流が、僕を10年前の夏へと連れ戻した。



「――りくん! めぐりくん!」


幼い少女の声が、鼓膜を叩いた。


「早く早く! カブトムシ逃げちゃうよ!」


視界が開ける。 強烈な日差しに、目が眩む。


そこは、近所の神社の裏山だった。 空は絵の具をぶちまけたような青。 入道雲が山肌に影を落とし、鼓膜が破れそうなほどの蝉時雨せみしぐれが降り注いでいる。


僕は、その光景の中にいた。 当時の僕の視点を借りて、映画のように体験していた。


山道を走っていくのは、麦わら帽子を被った少女。 10年前の結衣ゆいだ。 白いワンピースの裾を泥で汚しながら、虫取り網を片手に、楽しそうに坂道を駆け上がっていく。


「待ってよ、結衣ちゃん」


僕の口から、勝手に言葉が出る。 自分の声だ。でも、今の僕よりずっと高くて、幼い声。 僕は大きな虫かごを抱えて、彼女の後を追っていた。


「転ぶよ? おばさんに怒られるよ」


「平気だよ! 今日は冒険だもん!」


結衣は振り返り、悪戯っぽく舌を出した。 その笑顔があまりに眩しくて、胸が締め付けられるほど懐かしい。


僕たちは、この世界が永遠に続くと信じていた。 明日も、明後日も、大人になっても、ずっとこうして二人で笑い合っていれるのだと、疑いもしなかった。


「あ! 見て廻くん! あそこ!」


結衣が立ち止まり、草むらを指差した。 そこには、古びた金網のフェンスがあり、その向こう側に獣道が続いていた。


「あっちに行ったら、川の方に行けるんだって」


「え、でもあそこ、立ち入り禁止だよ?」


幼い僕は、大人の言いつけを守ろうと首を横に振った。 けれど、結衣の瞳はキラキラと輝いている。


「だからいいんじゃない! 誰も来ないから、私たちの『秘密基地』にできるよ!」


「秘密基地……」


その響きに、僕の心も躍った。 二人だけの場所。大人には内緒の聖域。


「行こう、廻くん! 探検隊、しゅっぱーつ!」


「あ、ちょっと!」


結衣は金網の隙間を器用にすり抜け、向こう側へと消えていく。 僕は慌てて後を追った。 草いきれの匂い。土の匂い。 そして、遠くから微かに聞こえる、川のせせらぎの音。



その日は結局、川までは行かなかった。 途中の開けた場所で、大きな木を見つけたからだ。


僕たちはその木陰に座り、コンビニで買ったアイスを半分こした。 ソーダ味の青いアイス。 当たりが出るかな、なんて言いながら、棒を舐める。


「ねえ、廻くん」


結衣が、口の周りを青くしながら言った。


「来週の月曜日、またここに来ようよ」


「月曜日? 8月15日?」


「うん。その日はお盆だから、お父さんたち忙しいでしょ? だから、一日中ここで遊べるよ」


彼女は、遠くの森の奥――川の音がする方を指差した。


「今度こそ、あの川まで行ってみようよ。すっごく冷たくて、気持ちいいんだって」


「……うん、いいよ」


僕は頷いた。 結衣が行きたいなら、どこへでも行くつもりだった。 それが、どんなに危険な場所でも。


「約束ね! ゆーびきーり、げんまん!」


僕たちは小指を絡ませた。 細くて、温かい、女の子の指。


「嘘ついたら、針千本飲ーます!」


「指切った!」


二人の笑い声が、夏の空に吸い込まれていく。 蝉の声が、わんわんと響いている。


ふと、僕は視線を感じて振り返った。


木漏れ日の向こう。 揺れる陽炎の中に、誰かが立っていた気がした。 黒い服を着た、銀色の髪の女の子のような……。


「廻くん? どうしたの?」


結衣に呼ばれて、僕は瞬きをした。 もう一度見ると、そこには誰もいなかった。 ただ、白い陽炎がゆらゆらと揺れているだけだった。


「……ううん、なんでもない」


僕は立ち上がり、結衣の手を引いた。


「帰ろう。夕焼チャイムが鳴っちゃう」


「うん! またね、秘密基地!」


僕たちは手を繋いで、夕暮れの山道を下っていった。 長く伸びた二つの影が、一つに重なる。


幸せだった。 世界で一番、幸せな夏だった。


3日後に、僕の命が終わるなんてことは、微塵も知らずに。



「……」


路地裏で、僕は息を吐いた。 ノートの上には、まだ何も起きていない「平和な記憶」だけが残っていた。


あまりにも鮮やかすぎる幸せ。 それが逆に、僕の胸をナイフのようにえぐった。


この約束が。 この「秘密基地に行こう」という無邪気な計画が、僕たちの運命を狂わせたのだ。


僕は、震える手で次のページをめくろうとした。 そこには、運命の日までの、不気味なカウントダウンが記されているはずだった。

本日も読んでいただきありがとうございます!

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