25. 銀色の箱舟
意識が、砂の城のように崩れていく。
降りしきる雨の冷たさも、アスファルトの硬さも、もう感じない。 視界の端から、世界がノイズに変わっていく。 深夜のテレビ放送が終了した後のような、無機質で、残酷なほど静かな砂嵐。
手足の感覚が希薄になる。 自分が「相沢廻」という固有名詞を持った人間だったのか、それともただの現象だったのか、その境界線すら曖昧になっていく。
(ああ、これでいい)
僕は、泥のような安堵に身を委ねていた。
結衣を狂わせ、彼女に虚空を抱きしめさせるだけのバグなら、消えた方がいい。 彼女の美しい記憶からも、この世界のシステムログからも、きれいさっぱり消滅したい。
思考が途切れる。 自我という輪郭が溶け、世界という巨大な海に還元されていく。 それは、母親の胎内に戻るような、甘美な死の誘惑だった。
『……バカっ!!』
ノイズの向こうで、誰かの悲鳴が聞こえた気がした。
聞き覚えのある、鈴を転がすような声。 けれど、いつもの傲慢で冷ややかな響きはそこにはない。 喉が裂けんばかりに張り上げられた、必死で、恐怖に震えている声。
誰かが、消えかけた僕の腕を掴んだ。 その手は、幽霊であるはずの僕の実体を確かに捉え、焼けるように熱かった。
重いまぶたをこじ開ける。 ノイズ混じりの視界に、鮮烈な銀色が飛び込んできた。
奏だ。 いつも涼しい顔で僕を観察していた彼女が、肩で息をして、美しい銀髪を雨と泥で汚して、僕を見下ろしていた。 その瞳は、怒りと、溢れ出しそうな涙で潤んでいた。
(……かな、で?)
僕は名前を呼ぼうとした。 だが、喉からは空気の漏れる音すらしない。 声帯はおろか、呼吸をするための肺すら、もう半分以上消失している。
「くっ……! 間に合って……!」
奏は、泥水に膝をつくのも構わず、僕の体に覆いかぶさった。 彼女の体温が、雨の冷たさを遮断する。
そして彼女は、小脇に抱えていた銀色のノートを乱暴に開いた。 雨に濡れるのも厭わず、そのページを僕の胸に押し当てる。
「戻れ! 廻!!」
彼女が、祈るように叫ぶ。
「消させない……! あなたの居場所は、まだここにある!!」
カッ!!
ノートから、目も眩むような銀色の光が奔流となって溢れ出した。 その光は、拡散しようとしていた僕の魂の粒子を無理やり束ね、ブラックホールのような引力でノートの中へと吸い込んでいく。
吸い込まれる直前、僕は見た。 彼女の頬を伝う雫が、雨なのか涙なのか分からないまま、僕の顔に落ちるのを。 その一滴が、ひどく熱かったことだけを。
◆
気がつくと、僕は文字の海に溺れていた。
そこは、上下左右の概念が存在しない、純白の空間だった。 無数の文章が、星屑のように、あるいは吹雪のように、視界を埋め尽くして浮遊している。
ここは……あのノートの中か?
僕は、重力のない空間を漂いながら、目の前に流れてきた一文を目で追った。
『7月15日。結衣の笑顔が好きだと言った。彼女が笑うと、世界の色が変わる気がした』 『7月20日。結衣を守るためなら、右腕を失ってもいいと思った。痛みよりも、彼女を失うことの方が怖かった』 『8月1日。結衣の手料理が美味しいと、心から感じた。この日常が永遠に続けばいいと願った』
(……なんだ、これ?)
僕は呆然とそれを眺めた。 内容は理解できる。言葉の意味も分かる。 これは、かつての相沢廻が抱いていた、嘘偽りのない感情の記録だ。
けれど、そこに実感は伴わなかった。 胸の奥が熱くなることも、懐かしさに締め付けられることもない。 まるで、赤の他人が書いた熱烈な恋愛小説を読まされているような、徹底的に冷めた感覚。
ふうん、昔の僕はこうだったのか。 他人事のような感想しか湧いてこない。
僕の心は、やはり死んだままなのだ。 記憶も、感情も、何一つ戻っていない。
だが――。
ふと、その文字の向こう側にあるものに、目が止まった。
(……これ)
ただの活字データではない。 この空間に浮かぶ膨大な量の文章、その全てが、手書きなのだ。
震えるような、けれど一画一画に魂を込めるような、丁寧で繊細な筆跡。 ペンの入り抜き、文字の跳ね、筆圧の強弱。 そこには、書き手の感情が痛いほど生々しく残っていた。
ページの端には、何箇所もシミがついている。 インクが滲むほど強くペンを握りしめた跡。 何度も書き直した痕跡。 そして、紙が波打つほどに落ちた、無数の涙の跡。
文字の隙間から、書き手である奏の声が聞こえてくるような気がした。
『重い……』
彼女の残留思念が、空間に響く。
『彼が結衣ちゃんを愛すれば愛するほど、このノートは鉛みたいに重くなる』 『彼の心は、私じゃない誰かで埋め尽くされている。……それを書き写すたびに、私の心が削れていく』
彼女は、傷ついていた。 僕が結衣への愛を語るたびに。 僕が結衣との未来を夢見るたびに。 彼女は自分の心臓にナイフを立てるような思いで、それを記録していたのだ。
『でも、こぼしちゃダメ』
声が、強くなる。
『一文字でも落としたら、廻が壊れちゃう』 『彼が世界から消されないように。彼の魂の形を、私が繋ぎ止めなきゃ』
衝撃が、僕の魂を貫いた。
彼女は、奪っていたんじゃない。 拾っていたんだ。
世界というシステムがバグである僕を削除しようとするたびに、彼女は僕からこぼれ落ちる人間性を必死にかき集め、自分の身を削ってこのノートに書き写していた。
たとえそれが、他の女性への愛の言葉であっても。 自分以外の誰かを想う言葉で、彼女のノートが埋め尽くされていくとしても。
僕が結衣との幸せな時間に浸っている間、彼女はずっと一人で、この膨大な量の愛のログを背負い続けていたのか。 僕が生きた証を残すためだけに、僕の惚気を、ゴミ箱のように受け止め続けていたのか。
(……あぁ)
僕は、涙が滲む文字に指先で触れた。
胸が痛い。 結衣への愛は思い出せないのに、この文字に込められた奏の痛みだけは、ダイレクトに伝わってくる。
(ごめん……ごめん、奏)
謝りたかった。 君を悪魔だと罵ったことを。 君の孤独に気づけなかったことを。
「……見つかっちゃった」
背後から、声がした。
振り返ると、白い空間の入り口に、奏が立っていた。 いつもの不敵な笑みはない。 隠し事を見られた子供のように、気まずそうに、けれどどこかホッとしたように、眉を下げて笑っていた。
「悪趣味でしょう?」
彼女は自嘲気味に言う。
「好きな男の頭の中身を、こうやってコレクションして眺めるなんて。……ストーカーみたい」
(……違う)
僕は首を横に振った。 声は出ない。ここでも僕は無力だ。 言葉を伝える手段を持たない僕は、ただ彼女に駆け寄り、その震える手を両手で包み込んだ。
彼女の手は、ボロボロだった。 ペンだこができ、インクで汚れ、無数の切り傷があった。 それは、彼女がどれだけの時間をかけて、僕という存在を書き留めてきたかを物語っていた。
僕の体温はないかもしれない。 それでも、伝えなくてはならなかった。 君のおかげで、僕はまだここにいる。 君が繋ぎ止めてくれたから、僕はまだ僕でいられるんだ、と。
「……っ」
奏の瞳が揺れる。 彼女は、僕の手を振り払おうとして、できずに俯いた。
「憎まれていた方が、楽だったのに」
彼女はポツリと漏らす。
「あなたが真実を知ったら……優しいあなたは、私に気を遣っちゃうでしょう? 同情しちゃうでしょう?」
彼女は顔を上げ、泣き出しそうな笑顔を作った。
「そんなの、いらないわよ」
「……」
「帰って、廻。……ここはまだ、あなたが来るべき場所じゃない」
彼女が僕の胸を、トンと押した。 拒絶の強さではない。 壊れ物を扱うような、どこまでも優しい力だった。
「結衣ちゃんが待ってる。……あの優しい地獄に、戻りなさい」
(嫌だ!)
僕は彼女の手を掴もうとした。 首を振る。 もう結衣の元には戻れない。 あんなきれいな世界で、君の犠牲の上に成り立つ幸せなんて、僕は欲しくない。
僕は、君の隣にいたい。 この痛々しい文字の海で、君と一緒に溺れていたい。
しかし、視界が白く染まっていく。 僕の意思とは無関係に、世界が遠ざかる。 彼女が管理者権限で、強制的に僕を現世へ押し返そうとしているのだ。
「さよなら、廻」
消えゆく意識の中で、彼女が最後に呟いた言葉だけが、僕の脳裏に焼き付いた。
「私は、ただの陽炎。……あなたの思い出の燃えカスにすぎないんだから」
◆
「……ッ、はぁ!!」
僕は、激しい咳き込みと共に目を覚ました。
肺に空気が流れ込む感覚。 叩きつける雨の冷たさ。 背中にはアスファルトの硬い感触。
僕は、路地裏の水たまりの中に戻っていた。 体がある。感覚がある。 消えかけていた僕の存在が、強引に再構成されている。
「……、……」
周りを見渡しても、奏の姿はなかった。 雨音だけが、ザアザアと世界を叩いている。
ただ一つ。 僕の胸の上に、あの銀色のノートが一冊、置き去りにされていた。
表紙はボロボロで、革が擦り切れ、雨に濡れて冷たい。 けれど、それを抱きしめた瞬間、僕は火傷するほどの熱を感じた。
それは、彼女の愛の重さだった。 彼女が一人で抱え続けてきた、魂の重量だった。
(……置いていったのか)
彼女は、僕の魂である中身を、僕に返したのだ。 これで人間らしくなれ。 これで結衣の元へ帰れ、と言うように。
僕は、震える手でノートを拾い上げた。 ずっしりと重い。 この重さが、僕の命の重さであり、彼女の罪の重さだ。
結衣の元へ戻れだって? 無理だ。 こんなものを……こんな痛いほどの献身を見せつけられて、どうして彼女を一人にできるんだ。
僕は立ち上がった。 足取りは重い。雨に打たれた体は冷え切っている。 けれど、もう迷いはなかった。
僕は、本当の真実を知らなければならない。 彼女が何者で、なぜここまでして僕を守るのか。 そして、彼女が最後に言った「私は陽炎」という言葉の意味を。
このノートには、結衣との思い出だけじゃない、もっと古い、根源的な何かが記されているはずだ。
僕は、雨よけの軒下に入り、震える指をノートの表紙にかけた。 最新のページではない。 僕が知りたいのは、この物語の一番最初のページだ。
全ての始まり。 僕がいつ、どこで、この孤独な少女と出会ったのか。
僕は、固く閉ざされたその扉を、ゆっくりとめくった。
第2章 完




