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さよならの陽炎を、追いかけて  作者: 七瀬 澪
第二章「忘却の陽炎」

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24. 人形遊びの終わり

夜になっても、その奇妙な「おままごと」は続いていた。


リビングの照明は、わざとらしく明るい。 テーブルには、少し冷めたハンバーグが二つ。 結衣は、対面の「誰もいない席」に向かって、フォークで小さく切ったハンバーグを差し出していた。


「ほら、廻くん。あーん」


彼女の手が、空中で止まる。 数秒の沈黙。 彼女は、まるでそこに口を開けた僕がいるかのように、愛おしそうに目を細める。


「……ふふ。恥ずかしがらないでよ」


彼女は独り言を続け、差し出したフォークを、ガリッと自分の口に運んだ。 僕が食べた、という「設定」なのだ。


「んー、美味しい! ワイン入れたの正解だったかも」


彼女は咀嚼する。 対面の席のハンバーグは、手付かずのまま脂が白く固まり始めている。


僕は部屋の隅で、呼吸を忘れたように立ち尽くしていた。 吐き気がした。幽霊の僕に胃袋なんてないのに、猛烈な吐き気がした。


これは「健気」なんて美しい言葉で飾れるものじゃない。 これは――呪いだ。 僕という存在が、彼女の「現実認識能力」を侵食している。


「ねえ、明日のことなんだけど」


結衣がワイングラス(中身はぶどうジュースだ)を揺らす。


「水族館はやめようか。人多いし、廻くん酔っちゃうもんね」


「だからさ、一日中、ベッドでゴロゴロしよ?」


「私、新しいパジャマ買ったんだ。……見たい?」


彼女は、誰もいない空間に媚びるように上目遣いをする。 その瞳孔が、わずかに開いているように見えた。 焦点が合っていない。 彼女が見ているのは「僕」ではなく、脳内で再生される「理想の僕」の映像データだ。


「……ねえ」


「なんか言ってよ」


「可愛いって、言ってよ」


彼女の声のトーンが、急に落ちる。 糸が切れた操り人形のように、彼女の表情筋がダラリと弛緩した。


「……なんで、食べてくれないの?」


彼女の視線が、手付かずのハンバーグに落ちる。


「冷めちゃうよ?」


「私が作ったんだよ?」


「死ぬ気で……笑ってるんだよ?」


ガシャンッ!!


彼女が突然、フォークを皿に叩きつけた。 陶器が悲鳴を上げ、ソースがテーブルクロスに血痕のように飛び散る。


「なんでよぉッ!!」


結衣が頭を抱え、獣のような声を絞り出した。


「なんで『美味しい』って言ってくれないの!?」


「なんで抱きしめてくれないの!?」


「そこにいるんでしょ!? 気配はするんだよ!? なのに、なんで……なんで私に触ってくれないのよぉッ!!」


彼女は席を蹴り倒し、ふらふらと立ち上がった。 そして、僕がいるはずの場所――何もない空間に向かって、両手を広げて飛びついた。


「廻くんッ!!」


彼女の体は誰にも受け止められることなく、無様に空を切った。 勢い余って床に倒れ込む。 ドン、という鈍い音が響く。


「あ……」


彼女は床に這いつくばったまま、自分の両腕を見た。 その腕の中には、誰もいない。 あるのは、冷たい空気と、フローリングの硬い感触だけ。


「……あ、はは」


彼女の口から、乾いた空気が漏れる。


「……嘘、つき」


「ずっと一緒だって……言ったのに」


彼女は自分の肩を抱きしめた。 僕の代わりに、自分で自分を抱きしめるしかなかった。


「寒いよぉ……廻くん……」


「独り言いうの……もう、やだよぉ……」


「私が……私が悪かったの? 私がワガママ言ったから? だから出てこないの?」


「ごめんなさい……ごめんなさい……ッ!」


彼女は床に額を擦り付け、子供のように嗚咽を漏らし始めた。 謝る必要なんてないのに。 悪いのは、中途半端に現世にしがみついている僕の方なのに。


彼女は壊れたレコードのように、「ごめんなさい」と「会いたい」を繰り返し続ける。


僕は、その光景を直視できず、天井を仰いだ。 涙すら出なかった。 ただ、自分の魂が、ボロボロと音を立てて崩れ落ちていくのが分かった。


(……僕が、君を狂わせたんだ)


僕がそばにいる限り、彼女は永遠に「いない僕」を探し続ける。 冷めたハンバーグを作り続け、空気を抱きしめ続け、最後には心が完全に壊れてしまうだろう。


愛するとは、そばにいることだと思っていた。 でも違った。 今の僕にとっての愛とは――彼女の世界から、痕跡ごと消え失せることだ。


(さよなら。……結衣)


僕は、床で泣きじゃくる彼女に背を向けた。 最後に一度だけ、彼女の髪に触れようと手を伸ばしかけて――止めた。


触れれば、また彼女は期待してしまう。 「そこにいる」という呪いをかけてしまう。


僕は手を握りしめ、壁に向かって足を踏み出した。


「……っ!? 待って!!」


背後で、結衣が弾かれたように顔を上げた気配がした。 見えないはずだ。音もしないはずだ。 それでも、彼女の本能が「本当の別れ」を悟ったのかもしれない。


「行かないで! お願い、置いていかないで!」


「廻くん! 廻くぅぅぅぅぅんッ!!」


彼女の絶叫が、ナイフのように背中に突き刺さる。 それは、最愛の人を呼ぶ声であり、同時に、亡霊を縛り付ける鎖の音でもあった。


僕は振り返らなかった。 振り返れば、僕はまたこの「優しい地獄」に戻ってしまう。


僕は壁をすり抜け、夜の雨の中へと飛び出した。 背後で、何かが壊れる音がした気がした。 それが皿の割れる音なのか、彼女の心が砕ける音なのか、僕にはもう分からなかった。



雨は、僕の体を突き抜けて地面を叩く。 感覚はない。寒さもない。 ただ、世界から自分が「不要な異物」として排除されていく感覚だけが、妙に心地よかった。


僕の体(輪郭)が、陽炎のように揺らぎ始める。


意識が遠のく。 結衣との記憶も、自分の名前さえも、雨に溶けていく。


(ああ……これでいい)


僕は路地裏の水たまりに倒れ込んだ。 水面に映った自分の顔が、ノイズのように乱れて消えていくのを見届けながら。


僕の意識は、プツンと途切れた。

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