23. 優しい地獄
朝が来るたび、僕は自分が「バグ」であることを思い知らされる。
僕はリビングのソファに腰を下ろし、ぼんやりとテレビを眺めていた。 重力も、眠気も、肉体の重さもない。 けれど僕は、人間だった頃の習慣をなぞるように、そこに座っていた。
キッチンでは、結衣という少女が朝食の支度をしている。 トーストが焼ける匂い。コーヒーの香り。 きっと、以前の僕にとっては幸福な朝の風景だったのだろう。 だが、記憶を失った今の僕にとっては、知らないドラマのワンシーンを見せられているような、薄ら寒い他人事でしかなかった。
ただ一つ、異常なことを除いては。
彼女はテーブルに、二人分の皿を並べていた。
「おはよう、廻くん」
結衣が、僕が座るはずのダイニングチェアに向かって声をかける。 そこには誰も座っていない。 僕はソファにいるのだから、当然だ。
けれど彼女は、あたかもその椅子に僕が座っているかのように、自然に、愛おしそうに話しかける。
「今日はいい天気だね。予報だと30度超えるんだって」
彼女はコーヒーを一口飲み、少しだけ「間」を空ける。 僕が返事をするための、数秒間の空白。
当然、静寂しか返ってこない。
「……ふふ。そうだね、暑いの嫌だよね」
彼女は、誰もいない空間に向かって相槌を打った。 まるで、そこに見えない台本があるかのように。
(……やめてくれ)
僕はソファから立ち上がり、彼女の背中を見つめた。
彼女の行動は、健気さを通り越して、不気味だった。 彼女は「僕」を見ているのではない。 彼女の脳内にしかいない、思い出の中の「相沢廻」という幻影と会話しているのだ。
すぐ後ろに立っている、空っぽな僕のことなんて、彼女の瞳には映っていない。
「あ、そうだ。これ見て」
彼女がポケットから一枚の写真を取り出し、空っぽの食卓に置いた。 制服姿の少年と彼女が、看板の前でピースサインをしている写真だ。
「この時、廻くんがクラスの出し物で焼きそば焼いててさ。ソースの匂いが取れないって騒いでたんだよ」
彼女は写真を指差しながら、楽しそうに笑う。
「懐かしいね」
「…………」
僕はテーブルに近づき、覗き込むように写真の中の少年を見つめた。 誰だ、これは。 今の僕と同じ顔をしているが、全くの赤の他人にしか見えない。 この少年が何を感じ、何を大切にしていたのか。僕には何一つ理解できない。
「ねえ、廻くん。……聞いてる?」
彼女がふと、顔を上げて虚空を見つめる。 その視線の先には、壁しかない。 すぐ隣に立っている僕とは、決して目が合わない。
僕は、衝動的に彼女の目の前に回り込んだ。 この茶番を終わらせたかった。
(僕は、そんな奴じゃない。……君が愛しているのは、僕じゃない!)
彼女の顔の目の前で、音のない叫び声を上げる。 手を伸ばし、彼女の肩を掴もうとする。
スカッ。
僕の手は、彼女の体をすり抜け、ただの冷たい風となって通り過ぎた。
結衣が、ぴくりと肩を震わせる。
「……エアコン、効きすぎかな」
彼女はカーディガンを羽織り、寂しそうに眉を下げて、また写真に視線を落とした。
「……そっか。今日は無口な気分なんだね。……ううん、いいの。そこにいてくれるだけで」
彼女はアルバムを閉じ、冷めてしまったトーストを口に運ぶ。 カサッ、カサッという乾いた咀嚼音だけが、静まり返った部屋に響く。
痛い。 この感情が何なのか、記憶のない僕には分からない。 ただ、目の前の少女が、僕のせいで狂っていくのを見ているのが、生理的に耐え難い。
僕は逃げるように、その場を離れた。 ドアを開けることもなく、壁をすり抜けて外の世界へ。
ここにいてはいけない気がした。 このまま彼女のそばにいたら、僕は彼女の愛の重さで、本当に押し潰されてしまう。
◆
あてもなく街を彷徨う。 夏の午後の日差し。 幽霊の僕には熱さも感じないはずだが、世界中の色彩が「お前は異物だ」と拒絶しているように感じて、視界がチカチカした。
『……辛そうね』
ふと、頭の中に直接、声が響いた。 見上げると、電線の上に銀色の髪の少女――奏が座っていた。
彼女だけが、僕を見ている。 この世界で唯一、僕を認識できる管理者。
(……笑いに来たのか)
僕は睨みつけ、心の中で念じた。 声は出ないが、彼女には僕の思考が聞こえるはずだ。
「まさか。ただの観察よ」
彼女はふわりと地面に降り立つと、音もなく僕の隣を歩き始めた。
不思議だった。 結衣と一緒にいる時の「申し訳なさ」や「息苦しさ」が、彼女の隣では消える。 彼女の前では、僕は「透明人間」であることを隠さなくていいからだ。
(……ねえ、奏)
僕は思考を飛ばす。
(君は、僕から記憶や感覚を奪って、どうするつもりなんだ? ……ただの嫌がらせにしては、手が込みすぎてる)
「趣味よ」
彼女は歩調を崩さずに答えた。
「人間の大切なものが壊れていく音を聞くのが好きなの。……悪趣味でしょう?」
彼女はケラケラと笑う。 完璧な「悪役」の笑顔。
けれど。
(……ん?)
僕は、一瞬だけ違和感を覚えた。
彼女が小脇に抱えている、あの銀色のノート。 話している間、彼女はそのノートを、一度たりとも持ち替えようとしない。
小柄な彼女の腕には、不釣り合いなほど分厚いハードカバー。 まるで、指先が表紙に食い込むほど、必死に力を込めて握りしめている。
少しでも気を抜けば、その重さに耐えきれず、取り落としてしまうとでも言うように。 その華奢な手首が、微かに震えているように見えたのは、陽炎のせいだろうか。
「……なに? ジロジロ見て」
僕の視線に気づいたのか、奏がスッとノートを背中に隠した。
(……いや。なんでもない)
僕は目を逸らした。 彼女が疲れているはずがない。彼女はこの世界のルールそのものなのだから。
「そろそろ帰ったら?」
奏が、冷たく言い放つ。
「あんまり長く外にいると……結衣ちゃんも、独り言を言う相手がいなくて寂しがってるでしょうし」
彼女はそう言うと、踵を返した。 その去り際、彼女は僕の方を見ずに、吐き捨てるように言った。
『……感謝しなさい』
『え?』
『あなたは空っぽで、「軽い」ままでいられるんだから。……何も背負わなくていいっていうのは、特権よ』
それだけ言うと、彼女は夏の陽炎の中へ溶けるように消えていった。
残された僕は、彼女の言葉を頭の中で繰り返す。
ただの皮肉だ。 声も記憶も失った僕への、残酷な当てつけ。
……それなのに。
なぜ彼女の声は、あんなにも深く、疲労を滲ませていたのだろうか。 まるで、深海の水圧をたった一人で支えているダイバーのような、息苦しい響き。
僕は、自分の喉に手を当てた。 音は出ない。 胸に手を当てた。 鼓動もない。
僕はこんなに「軽い」のに。 あの少女の背中は、何であんなに重そうに見えたのだろうか。




