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さよならの陽炎を、追いかけて  作者: 七瀬 澪
第二章「忘却の陽炎」

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22. 初めまして、最愛の人

腕の中にあった温もりが、蜃気楼のようにすり抜けていく。


ついさっきまで感じていた、心臓を締め付けるような切なさも、焦がれるような熱情も。


プツリと電源が落ちたように、僕の内側から完全に消失していた。


僕は、自分の目の前で泣きじゃくっている少女を、呆然と見下ろしていた。


(……誰だ、この子は?)


不思議なほど、感情が動かない。


見覚えのない制服。


知らない顔立ち。


彼女が流している涙の理由さえ、僕には何一つ推測できなかった。


ただ、彼女が僕の身体だったものをすり抜け、何もない空間を抱きしめるような格好で崩れ落ちたことだけが、物理的な事実として認識できた。


「……廻、くん……?」


少女が、濡れた瞳で僕を見上げる。


その唇が紡いだ「メグリ」という音は、おそらく僕の名前なのだろう。


けれど、その響きは、遠い外国の言葉のように無意味な記号として、僕の鼓膜(のような感覚器官)を素通りしていった。


僕は、答えなかった。


答えられなかったのではない。


答えるべき言葉を、何ひとつ持っていなかったからだ。


「……ねえ、どうしたの? そんな、知らない人を見るような目で……」


少女の声が、恐怖に震え始める。


彼女は必死に手を伸ばし、僕の頬に触れようとする。


けれど、その指先は僕の輪郭を捉えることなく、虚しく空を切った。


先ほどの「1分間」だけ許された実体化は、契約通り終了していた。


僕は再び、世界から弾き出された幽霊に戻っていたのだ。


しかし、今の僕にとって、自分が幽霊であることなど些細な問題だった。


それよりも不可解なのは、この少女がなぜ、僕のような「無」に対して、これほど執着しているのかということだった。


「……嘘、だよね? さっき、好きだって……。忘れないでって、言ったじゃない……!」


少女が叫ぶ。


好き?


忘れないで?


僕が、彼女に?


(……分からない)


僕は首を傾げた。


記憶の図書館に入ろうとしても、彼女に関する棚だけが、ごっそりと焼け落ちている。


そこには、真っ白な灰が積もっているだけだった。


「……あ、あぁ……」


少女の顔から、血の気が引いていく。


彼女は悟ってしまったのだろう。


今の僕が、さっきまでの僕ではないということを。


彼女を愛し、彼女のために命を削っていた「相沢廻」という人格が、ここにはもう存在しないということを。


『……残念ね。取引終了よ』


頭上から、鈴を転がすような声が降ってきた。


見上げると、銀色の髪をした少女が、木の枝に腰掛けて笑っていた。


彼女だけが、この奇妙な状況のすべてを理解しているようだった。


『彼は対価を支払ったの。あなたを繋ぎ止めるために、あなたへの想いをすべて売り払った。……今の彼は、ただの空っぽな器。あなたの名前も、笑顔も、過ごした日々も、何も覚えていないわ』


「……そんな……。私のために、記憶を……?」


少女が絶句し、地面に崩れ落ちる。


その様子を見下ろしながら、銀髪の少女――かなでは、今度は僕の方へと視線を向けた。


まるで、完成したばかりの美術品を品定めするような、冷たくて熱っぽい瞳だった。


『ねえ、どう? 気分は。……心臓を雑巾絞りされるような痛みも、嫉妬も、後悔も、きれいさっぱり消えたでしょう?』


彼女はふわりと枝から飛び降り、僕の目の前に立った。


『愛なんて不確定なバグに振り回されていた時より、今のあなたの方がよっぽど合理的で素敵よ。……やっと、本当の意味で「人間」を辞められたのね』


彼女の言葉の意味は、よく分からなかった。


ただ、彼女が楽しそうに笑っていることだけは理解できた。


僕は彼女に対しても、怒りも恐怖も抱かなかった。


ただ、目の前で揺れる銀色の髪が、月光を弾いて綺麗だなと、無機質に感想を抱いただけだった。


「……ごめんね、廻くん」


足元から、震える声がした。


「私が、弱いから……。私が『忘れる』なんて言ったから……。君は、自分の心を殺してまで、私を止めようとしたんだね……」


少女はゆっくりと立ち上がり、僕の目を見つめた。


その瞳には、先ほどまでの「縋るような弱さ」はなく、悲痛なほどの「決意」が宿っていた。


「……初めまして、相沢廻くん」


彼女は、見えない僕に向かって、深く頭を下げた。


「私は、結衣。……あなたがすべてを忘れても、私が全部覚えているから。……あなたが何度記憶を失っても、私が最初から、あなたを愛し直すから」


彼女の手が、再び僕の方へ伸びる。


触れることはできない。


言葉も届かないかもしれない。


それでも彼女は、空っぽになった僕の隣に寄り添い、歩き出した。


「帰ろう。……私たちの、家に」


僕は、彼女の背中を追った。


なぜついて行くのか、自分でも分からない。


ただ、この「知らない少女」の隣にいると、胸の奥の空洞が、微かに疼くような気がしたからだ。


それは、消されたはずの記憶の残滓なのか。


それとも、魂に焼き付いた本能なのか。


夜の公園を、二つの影が歩いていく。


一つは、涙を堪えて前を向く少女の影。


もう一つは、月明かりの下にも映らない、悲しい幽霊の影。


僕たちは、手をつなぐことすらできないまま、終わりのない夜へと帰っていった。

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