21. 残された対価
「……さよなら、廻くん」
結衣が、ベンチから立ち上がる。
その言葉は、僕への決別であり、彼女自身が正気を保つための最後の防衛本能だった。
彼女は、僕がいるはずの空間に背を向け、暗闇の中へと歩き出す。
待ってくれ。
行かないでくれ。
僕は必死に手を伸ばし、彼女の背中を掴もうとした。
スカッ。
僕の手は、彼女のカーディガンを何の抵抗もなくすり抜けた。
まるで煙か何かのように。
僕の必死の抵抗は、物理現象として世界に登録されることすらない。
結衣は一度も振り返らない。
彼女が遠ざかるたびに、僕の意識が急激に薄れていくのが分かった。
世界で唯一の観測者である彼女が、僕を「いないもの」として認識しようとした瞬間、僕というバグはデリートされる運命にあるのだ。
手足の感覚が消える。
自分が立っているのか、浮いているのかさえ分からなくなる。
意識が、泥のような眠りへと引きずり込まれていく。
(嫌だ……。消えたくない……! 僕はまだ、彼女に何も……!)
『……無様ね』
時間が、凍りついた。
遠ざかる結衣の足音が止まり、風に揺れる木々の葉音がピタリと止む。
灰色の世界の中に、銀色の髪の少女だけが、鮮やかに浮かび上がっていた。
奏だ。
彼女は、消えかけている僕の目の前に舞い降り、楽しげに覗き込んだ。
『彼女は賢いわ。あなたを「忘れる」ことが、あなたをこの無限の苦しみから解放する唯一の手段だと気づいた。……このまま彼女が行ってしまえば、あなたは完全に消滅できる。楽になれるのよ?』
「……う、……あ……」
僕は声にならない声で、首を横に振った。
楽になんて、ならなくていい。
僕が消えれば、彼女は一生、「愛する人を自分で殺した」という十字架を背負うことになる。
それだけは、絶対に阻止しなければならない。
『……ふーん。まだ、足掻くのね』
奏が、銀色のノートをパラパラと捲る。
『でも、あなたにもう売れる「感覚」は残っていない。視覚も、聴覚も、声も、触覚も……全部、私がいただいたわ』
彼女の指が、あるページで止まる。
そして、悪魔のような笑みを浮かべた。
『でも、まだあるわね。……物質的な対価じゃないけれど、とても価値のあるものが』
彼女の指先が、僕の胸――心臓があるはずの場所を指した。
『あなたの「記憶」。……結衣ちゃんに関する、すべての記憶を売りなさい』
思考が、停止した。
記憶を売る?
それは、僕が僕でなくなるということだ。
彼女をなぜ愛しているのか。
彼女とどんな時間を過ごしてきたのか。
なぜ、自分がこんな体になってまで彼女を守ろうとしているのか。
その「理由」をすべて失うということだ。
『対価として、1分間だけ「実体」と「声」を返してあげる。……彼女を引き止めるには、十分な時間でしょう?』
『ただし、その1分が過ぎれば、あなたは彼女のことを何も思い出せなくなる。……彼女が誰なのかも、自分が誰なのかも分からない、ただの彷徨える亡霊になるのよ』
奏の提案は、死刑宣告よりも残酷だった。
彼女を繋ぎ止めるためには、彼女を愛しているという記憶を捨てなければならない。
彼女を抱きしめるためには、その温もりの意味を忘れなければならない。
(……それでも)
僕は、迷わなかった。
僕が記憶を失っても、彼女が笑ってくれるなら。
彼女が、自分を責めずに生きてくれるなら。
僕は、中身のない空っぽの幽霊になっても構わない。
(……売る。……その取引、成立だ)
僕の意思が伝わった瞬間、奏がパチンと指を鳴らした。
『契約成立。……さあ、最後の1分間を楽しみなさい』
ドクンッ。
心臓が、激しく跳ねた。
血液が血管を駆け巡り、喉に熱い空気が戻ってくる感覚。
指先に、夜風の湿度が絡みつく感触が蘇る。
世界が、色を取り戻す。
遠ざかっていた結衣の背中が、鮮明に見えた。
彼女はまだ、公園の出口に向かって歩いている。
僕は地面を蹴った。
アスファルトを蹴る足の裏の痛みさえ、今は愛おしい。
「……結衣!!」
僕の喉から、声が出た。
その音は、僕自身が驚くほど大きく、夜の公園に響き渡った。
結衣の肩が、ビクリと跳ねる。
彼女が振り返るよりも早く、僕は彼女の背中に追いつき、その体を強く抱きしめた。
「……っ!?」
温かい。
柔らかい。
洗剤の匂いと、彼女特有の甘い香り。
そのすべてが、僕の脳髄を焼き尽くすほど鮮烈だった。
「……え、嘘……。廻、くん……?」
結衣が、信じられないものを見る目で僕を見上げる。
その瞳に、僕の顔が映っている。
鏡には映らなかった僕が、彼女の瞳の中にだけは、確かに存在している。
「……廻くん、触れる……。声が、聞こえる……! なんで……?」
彼女の瞳から、涙が溢れ出す。
僕は彼女の涙を親指で拭い、優しく微笑んだ。
これが、最後だ。
あと数十秒で、僕はこの笑顔の意味さえ忘れてしまう。
だから、今だけは。
僕がまだ「相沢廻」である、この数秒間だけは、彼女に愛を伝えなければならない。
「結衣。……忘れないで」
僕は、彼女の耳元で囁いた。
「僕は、ここにいる。……世界中が僕を消そうとしても、君が覚えている限り、僕は何度でも戻ってくる」
「……うん、うん……! 忘れない、忘れるわけないよ……!」
結衣が僕の背中に腕を回し、しがみつく。
その力の強さが、僕の肋骨をきしませる。
痛い。
なんて幸福な痛みなんだろう。
『……あと、10秒』
頭の中に、奏のカウントダウンが響く。
僕の視界が、端から徐々に白く霞み始めた。
記憶のデータが、猛烈な勢いで吸い出されていく。
初めて出会った日のこと。
一緒に帰った夕焼けの道。
彼女の笑顔。泣き顔。怒った顔。
すべてが、砂のように崩れ、風にさらわれていく。
「……好きだよ、結衣」
僕は、最後の力を振り絞って言った。
「たとえ僕が、君を忘れても。……僕の魂は、君を愛してる」
『……ゼロ』
プツン、と何かが切れる音がした。
僕の腕から、力が抜ける。
目の前にいる、泣きじゃくる少女。
彼女の温もりも、匂いも、声も。
なぜ僕が彼女を抱きしめているのかも。
すべてが、「知らないこと」へと変わっていった。
僕は、見知らぬ少女を抱きしめたまま、ただ呆然と、夏の夜空を見上げていた。
そこには、何もなかった。
星も、月も、僕という人間の痕跡も。
何もかもが、きれいさっぱり、消え失せていた。




