20. 僕を殺すための聖夜
今日は、僕がこの世界に生を受けた日であり、そして僕がこの世界から完全に拒絶されたことを証明する夜だった。
家に居場所をなくした僕たちは、夜の公園のベンチに座っていた。
蒸し暑い夏の夜風が吹いているはずだが、僕の皮膚はもう、その湿度さえ感知できなくなっている。
ただ、隣に座る結衣の気配だけが、世界との唯一の接点だった。
「……おめでとう、廻くん。17歳だね」
結衣の声が、暗闇の中で微かに震えている。
カサカサと、コンビニの袋を開ける音がした。
彼女は、僕のために小さなショートケーキを買ってきてくれたらしい。
本来なら、甘いクリームの香りが鼻をくすぐるはずの場面だ。
けれど、今の僕には、それがただの無機質な物体の移動音にしか聞こえない。
「ローソク、一本だけ立てたよ。……火、つけるね」
シュボッ、というライターの音。
僕の目の前には、依然として漆黒の闇が広がっている。
そこに揺らめくはずの小さな炎の光も、熱さも、僕には届かない。
「……ふふ。綺麗だよ、廻くん。……さあ、願い事をして。火を消して」
結衣が、子供をあやすように優しく囁く。
僕は、言われるがままに顔を近づけた。
肺に空気を溜め込み、唇を尖らせて、息を吹きかけようとする。
けれど。
「……」
ヒュウ、という音さえもしなかった。
僕の肺は、もう空気を循環させる機能を失っているのかもしれない。
ただの意思を持った「空間の歪み」が、炎の前で揺らいだだけ。
結局、ローソクの火を消したのは、夜の公園を吹き抜けた一陣の風だった。
「……あ、消えちゃった。……でも、大丈夫。廻くんの願い事、きっと叶うよ」
結衣の無理に明るい声が、痛々しく響く。
彼女は、プラスチックのスプーンを手に取った。
「はい、あーん。……ずっと、食べたがってたもんね、このケーキ」
スプーンが、僕の唇に触れる気配がした。
僕は口を開けようとする。
味覚がないことは分かっている。
食感がないことも分かっている。
それでも、彼女が祝ってくれるこの一口だけは、魂で味わわなければならない。
けれど、次の瞬間。
ボトッ。
鈍い音が、僕の太ももの上で響くことなく、ベンチの下の地面から聞こえた。
「……あ」
結衣の手が止まる。
僕の口に入ったはずのケーキ。
それは、僕の唇を、舌を、喉を、そのまま幽霊のようにすり抜け、重力に従って地面に落下したのだ。
物質としての干渉力が、ついにゼロになった。
僕はもう、食べることも、飲むことも、何かに触れることもできない。
ただの「映像」ですらない、実体のない概念になり果てたのだ。
「……ごめん。ごめんね、廻くん。私が、下手くそだったから……」
結衣が慌てて地面のケーキを拾おうとする。
けれど、彼女の手が震えて、うまく掴めないのが気配で分かった。
違う。
君のせいじゃない。
僕がもう、生き物じゃないからだ。
僕は、自分の膝の上に置いたはずの手を見下ろした。
見えないけれど、分かる。
僕の手は今、自分の膝さえもすり抜けて、空中に浮いているのだろう。
「……ねえ、廻くん」
結衣の動きが止まった。
長い、長い沈黙が、夜の公園を支配する。
遠くで鳴く虫の声だけが、僕たちの間の断絶を埋めるように響いていた。
やがて、結衣がぽつりと呟いた言葉は、僕の予想を遥かに超える、残酷な「救済」の提案だった。
「……もう、終わりにしよっか」
その声は、驚くほど静かで、透き通っていた。
「私ね、気づいちゃったの。……廻くんが苦しいのは、世界が廻くんを消そうとしてるからじゃない。……私が、廻くんを『離さない』からだよね?」
ドキリ、と心臓のない胸が跳ねた。
「世界はもう、廻くんを『死んだこと』にしたいのに、私が無理やり思い出して、名前を呼んで、ここに縫い止めてる。……だから、廻くんは成仏できなくて、ずっと痛い思いをしてるんだよね?」
違う。
僕は君を守るために。
君の笑顔を見るために、ここにいるんだ。
そう叫びたかった。
けれど、僕にはもう、それを否定する「声」がない。
首を振ろうとしても、その動作が彼女に見えているかどうかさえ分からない。
「私、決めたよ」
結衣が立ち上がる気配がした。
彼女の手が、僕の頬だった場所に、そっと触れた気がした。
「……私、廻くんを忘れるね。……廻くんを、楽にしてあげる」
それは、僕が最も恐れていた言葉。
そして、今の僕にとって、唯一残された「救い」という名の地獄だった。
彼女が僕を忘れれば、僕はこの世界から完全に消滅する。
痛みも、苦しみも、孤独もなくなる。
暗闇の向こうで、銀色の髪の少女が、パチパチと拍手をする音が聞こえた。
『おめでとう。ついに彼女は、愛するがゆえに、あなたを殺す決意をしたわ。……さあ、どうするの? このまま彼女の記憶から消えて、無になる? それとも……』
奏の声が、甘い毒のように脳髄に響く。
『最後の「何か」を売って、彼女に「忘れないで」と縋り付く?』
僕は、暗闇の中で拳を握りしめた。
握った感覚さえない、虚無の拳を。
僕の誕生日は、僕という存在の命日になろうとしていた。




