19.消去される履歴
暗闇の中、僕は結衣に引かれるまま、夏の熱気がこもった校舎へと足を踏み入れた。
視覚を失った僕の耳に届くのは、遠くで響く吹奏楽部の練習の音と、グラウンドから聞こえる野球部の掛け声。
夏休みの校舎は、生徒たちの気配が薄い分、建物自体の軋みや冷房の稼働音がやけに生々しく響く。
事務作業や部活動の指導のために残っている数少ない教師たちの気配が、廊下の向こう側から、冷たい空気と共に漂ってきた。
「……ここだよ。職員室」
結衣の声が、無機質な廊下に震えながら溶けていく。
彼女の指先は氷のように冷たく、僕の腕を掴む力は、今にも壊れてしまいそうなほど悲痛だった。
僕は扉が開く音を聞き、冷えた空気の塊が顔を撫でるのを感じた。
「……失礼します。あの、3組の、相沢廻くんのことで伺ったのですが」
結衣の言葉が、職員室の静寂を切り裂いた。
キーボードを叩く音や、書類を整理する音が止まり、数人の教師たちが顔を上げた気配がした。
「相沢……? 3組にそんな生徒はいないが。君、クラスを間違えていないか?」
応えたのは、僕の担任だったはずの男の声だった。
夏休みの特別補習や進路指導で、つい先日まで僕と向き合っていたはずの、聞き慣れた声。
けれど、その響きには、教え子を忘れたことへの戸惑いさえなかった。
そこにあるのは、知らない名前を突然出されたことへの、事務的な拒絶だけだった。
「……そんなはずありません! ほら、これを見てください。廻くんの生徒手帳です!」
結衣がデスクの上に、僕の私物を叩きつける音がした。
けれど、その直後、結衣が息を呑み、言葉を失う気配がした。
「……え? 嘘……。真っ白……?」
僕は不安に駆られ、彼女の気配に向かって手を伸ばした。
何が起きた。
僕の身分を証明する、あのプラスチックのカードはどうなったんだ。
「……結衣ちゃん、これ。ただの白紙のカードだよ。君、何か勘違いをしているんじゃないかな。暑さのせいかもしれない、少し休んでいきなさい」
教師の声が、憐れむように、けれどどこか気味の悪いものを避けるように響いた。
僕が「1秒」を買い戻すたびに、過去という名の記憶媒体が、世界というシステムによって上書きされていく。
僕がそこにいたという物理的な証拠は、今や現像前の印画紙のように、無垢な白へと回帰してしまったのだ。
「……じゃあ、去年の記録なら! 廊下に掲示してあった、合唱コンクールの写真とか、図書室にあるクラス写真の記録台帳なら、絶対にあるはずです!」
結衣は僕の手を引き、図書室へと駆け出した。
廊下を走る足音が、ガランとした校舎に虚しく反響する。
僕は自分の足が地面を叩く感覚さえ、徐々に希薄になっているのを感じていた。
まるで、一歩踏み出すごとに、僕というデータの解像度が落ちていくような、悍ましい感覚。
図書室の冷たい木の匂い。
結衣が棚から、年度ごとにまとめられた重い記録台帳を引き抜く音がした。
「……あった。去年の、2年3組の集合写真……」
ページを捲る音が、死刑判決を読み上げる秒針のように聞こえた。
「……いない。廻くんが、どこにもいない」
結衣の声が、絶望の深淵から漏れる呻きのように響いた。
「私の隣は、廻くんだったはずなのに。……佐藤くんが、私の隣に詰めて座ってる。……最初から、廻くんの席なんてなかったみたいに。名簿の数字も、欠番なしで綺麗に詰まってる」
それは、単に顔が消えたという現象ではなかった。
歴史そのものが「相沢廻が存在しなかった場合」の最適解へと、完璧に再構築されていた。
僕というパズルの一片を抜き取った後、世界は他のピースを器用に動かし、隙間なく埋めてしまったのだ。
「……わかったかしら。これが、この世界の『自動修正機能』よ」
静まり返った図書室。
結衣には聞こえないはずの、奏の声がした。
「世界は、異物を嫌うの。あなたが『自分自身』を対価にし続ける限り、世界はあなたを抹消することで、その整合性を保とうとする。……ねえ、相沢廻。あなたは今、この世界のどこにも『予約』されていない。……ただ一人、狂気に片足を突っ込んだあの少女の脳内にだけ、あなたの残像がバグとして残っている」
「……、……っ!!」
僕は、奏の気配に向かって虚しく手を振った。
叫びたい。
僕はここにいる、ここに立っているんだ。
けれど、僕の喉から漏れるのは、乾いた空気が抜ける音だけだった。
「廻くん……。ごめんね。私が、私だけが、あなたを忘れなければいいんだよね?」
結衣が僕の胸に顔を埋め、震える声で囁いた。
「世界中が廻くんを忘れても、私だけは、ここに廻くんがいるって……信じてるから。……だから、いなくならないで。お願い」
彼女の涙が、僕のシャツを濡らす。
けれど、その温もりさえも、今の僕には「存在しない幻」のように感じられた。
僕の右手は、もう彼女の背中を、実体を持って抱きしめることができなくなっていた。
指先が彼女の制服を通り抜け、微かな静電気のような感触だけを残して霧散していく。
「……あ、ああ……」
僕は、見えない瞳から、熱い何かがこぼれ落ちるのを感じた。
それは涙だったのか。
それとも、僕の中に最後に残った「人間としての成分」が、外へと漏れ出したものだったのか。
僕の足元には、もう影さえも落ちていなかった。
夏の強い日差しが、図書室の窓から差し込み、何もないはずの空間をただ虚しく照らし出していた。




