18. 鏡の中の空白
18. 鏡の中の空白
朝が来たことを知らせるのは、まぶたを透かす光ではなく、肌を刺す熱気のわずかな変化だった。
僕の目の前には、永遠に続く墨を流したような闇が広がっている。
昨夜、自分の部屋だったはずの物置で、結衣にしがみつかれたまま、僕はいつの間にか意識を失っていたらしい。
身体の下にあるのは、かつてのベッドの柔らかな感触ではなく、硬い床板と、薄く積もった埃のざらつきだった。
結衣の規則正しい寝息が、すぐそばで聞こえる。
彼女だけが、僕をこの世界に繋ぎ止めている唯一の重り。
けれど、その重りが、僕という存在が消えていく速度に耐えきれなくなっているのを、僕は本能で察していた。
「……ん、廻くん。起きてる?」
結衣が身を寄せ、僕の腕に触れる。
その指先の熱さえも、昨日に比べてどこか遠く、希薄に感じられた。
僕は応える代わりに、彼女の手にそっと触れた。
声は出ない。
けれど、この指先の接触だけが、僕たちがまだ同じ次元に存在していることを証明する唯一の通信手段だった。
「……顔、洗いにいこう。おばさんたちは、もう仕事に出たみたいだから」
彼女の声は、無理に明るく振る舞おうとして、ひどく歪んでいた。
僕は彼女に手を引かれ、暗闇の中を歩く。
慣れ親しんだはずの廊下。
けれど、僕の記憶にある「我が家」の地図は、一歩進むごとに現実と衝突し、崩壊していく。
洗面所に辿り着くと、ひんやりとしたタイルの空気が僕を包み込んだ。
「……廻くん、ちょっとじっとしてて。顔、拭いてあげるから」
結衣が蛇口を捻る音がする。
水の流れる音が、静かな家の中でやけに大きく響いた。
冷たいタオルが、僕の顔を覆う。
視覚を失った僕にとって、それは世界と直接触れ合う数少ない、貴重な感覚だった。
「……、……っ」
結衣の手が、止まる。
タオルを絞る音が途絶え、彼女の息を呑む気配が、洗面所の狭い空間に充満した。
「……嘘。……なんで」
結衣の声が、震えている。
僕は不安に駆られ、見えない瞳を彷徨わせた。
どうした。何が起きた。
僕の顔に、何か異変でもあったのか。
それとも、ついに僕の皮膚さえも、消え始めてしまったのか。
「廻くん、鏡を見て……。あ、ううん、違う。……鏡に、映ってない」
鏡。
そこは、光を反射して実像を写し出す、世界の「コピー」を保存する場所。
けれど、今の僕には、そのコピーを作成するための「オリジナル」の資格さえも、剥奪されてしまったのだ。
結衣の震える手が、僕を鏡の方へと向けさせる。
もちろん、僕には何も見えない。
けれど、結衣の言葉が、鏡の中にあるはずの「絶望」を、僕の脳裏に鮮明に描き出していた。
「私の隣に、廻くんがいるのに……。鏡には、私一人しか映ってない。……廻くんの後ろにある、棚の段ボールが、透けて見えてる」
それは、ただ「透明」になったという話ではなかった。
光という物理現象が、僕という物体を無視し始めたのだ。
世界というプログラムにとって、相沢廻はすでに「処理不要なデータ」としてゴミ箱に捨てられた。
だから、光は僕の肌で跳ね返ることなく、僕を透過し、背後の壁や荷物を照らし出している。
結衣の瞳に映る僕の姿さえ、今や陽炎のように揺らめき、時折、背景の景色に呑み込まれそうになっているのだろう。
僕は自分の顔を触った。
指先には、確かに鼻があり、口があり、頬がある。
質量はまだ、ここにある。
けれど、世界という鏡は、僕を「無」として定義し直してしまった。
「おめでとう。あなたはついに、光学的な死を迎えたのね」
背後から、奏の声がした。
彼女の足音は、結衣には聞こえていない。
奏だけが、この異常な洗面所の中で、僕の「消滅」を特等席で眺めている。
「光さえも、あなたを忘れた。次は重力かしら。それとも、時間そのものかしら。あなたが『1秒』を買い戻すたびに、この世界の物理法則は、あなたというバグを修正しようとする」
「……、……っ!!」
僕は鏡があるはずの方向に向かって、拳を叩きつけた。
ガシャン、という激しい音。
鏡の破片が飛び散り、僕の拳に鋭い痛みが走った。
「廻くん!? ダメ、危ない!!」
結衣が僕を羽交い締めにし、泣き叫ぶ。
けれど、割れた鏡の破片に映り込んだのは、泣き顔の彼女と、彼女の腕に抱かれた「何もない空間」だけだった。
僕の拳からは、確かに血が流れているはずだ。
けれど、床に落ちたはずの血液さえも、結衣の目には映らない。
僕からこぼれ落ちた命は、地面に届く前に、この世界から消去されている。
「廻くん、ごめんね……。私のせいで。私が、あんなこと言ったから……っ」
結衣の涙が、僕の胸を濡らす。
今の彼女は、虚空を抱きしめ、何もない空間に向かって懺悔し続ける、狂った少女にしか見えないだろう。
僕の愛は、彼女を救うためのものではなかった。
彼女を、この残酷な孤独の檻に閉じ込めるための、最も残酷な罠だったのだ。
奏が、僕の耳元で囁く。
「ねえ、彼女を解放してあげたら? あなたが消えれば、彼女は『誰もいないはずの場所』を愛さなくて済む。……それとも、まだ抗う?」
僕は、声の出ない喉で、獣のような呻きを上げた。
暗闇の中、僕は彼女を強く抱きしめ返した。
姿が消えても、光を失っても。
彼女が僕を「観測」し続けてくれる限り、僕はまだ、地獄の淵で踏みとどまることができる。
けれど、結衣の腕の中で感じる僕の体温は、刻一刻と、冷たい虚無へと近づいていた。
「ここまで読んでいただきありがとうございます。毎日更新で、一気に第2章まで駆け抜けています。ブックマークしてもらえると、この先の『1秒の代償』がより残酷に、より切なく加速していきます。彼らの結末を見届けていただければ嬉しいです」




