17. 幽霊の帰宅
暗闇の中を、結衣の手だけに引かれて歩く。
アスファルトから立ち昇る熱気が、僕の膝裏を焦がすように這い上がってくる。
蝉の声は、もはや夏を告げる歌ではなく、僕の鼓膜を削る無機質なノイズの壁となっていた。
視覚を失った世界では、距離感が消滅する。
一歩踏み出すたびに、地面が底抜けるのではないかという恐怖が背中を走る。
けれど、僕の手を握る結衣の指先の震えが、僕に「まだこの世界に繋ぎ止められている」という残酷な安堵を与えていた。
「……着いたよ、廻くん。おうち、だよ」
結衣の掠れた声。
その響きには、祈るような、あるいは絶望を先取りしたような震えが含まれていた。
僕は震える手を伸ばし、目の前にあるはずの「境界」を探った。
指先が冷たい金属に触れる。
錆びた鉄門の感触。
指でなぞれば、どこに傷があり、どこが剥げているのかを暗記しているほど、何度も触れてきた我が家の門だ。
けれど、その感触さえも、今の僕には「他人の家の残骸」に触れているような、悍ましい疎外感を伴っていた。
僕は結衣に促されるまま、敷居を跨いだ。
玄関の扉を開ける。
懐かしいはずの家の匂い。
洗剤の香り、夕食の仕度の匂い、および長年蓄積された生活の残り香。
視覚を奪われた僕の鼻腔に、それらの情報が暴力的な解像度で流れ込んでくる。
僕は、そこに自分の「居場所」を期待してしまった。
どれほど世界に否定されようとも、血の繋がった家族だけは、僕というエラーを見つけてくれるのではないか。
「……ただいま」
出ない声を、心の中で叫ぶ。
玄関の奥から、パタパタとスリッパが床を叩く音が聞こえてきた。
母さんの足音だ。
少し急ぎ足で、踵を鳴らす癖。
「あら、結衣ちゃん? いらっしゃい。どうしたの、そんなに泣きそうな顔をして」
母さんの声。
慈愛に満ちた、僕を育ててくれた、聞き間違えるはずのない声。
けれど、その言葉の中に、僕を指す代名詞は一つも含まれていなかった。
「おばさん……。あの、廻くんが……」
結衣が僕の腕を掴み、母さんの方へと差し出す。
僕は必死に、そこにいるはずの母さんの気配に向かって手を伸ばした。
僕を見てくれ。
僕を呼んでくれ。
「廻」という僕が売ってしまった名前を、母さんの声で上書きしてくれ。
「……え? 廻くん? 誰のことかしら、それ」
世界が、凍りついた。
母さんの声には、悪意も、困惑さえもなかった。
ただ、見知らぬ単語を耳にした時のような、真っさらで無機質な「無」があるだけだった。
「おばさん……冗談だよね? 廻くんだよ。おばさんの息子の、廻くんだよ!」
結衣の声が悲鳴に変わる。
彼女の指が僕の腕に食い込み、痛みが走る。
母さんは、少し困ったように笑った気配がした。
「結衣ちゃん、暑さで疲れちゃったのね。うちには子供なんていないでしょう? 私はずっと夫と二人暮らしよ。さあ、とりあえず上がりなさい。冷たい麦茶でも……」
母さんの足音が、僕のすぐ横を通り過ぎる。
彼女の服の裾が、僕の手の甲を掠めた。
けれど、彼女の意識の中に、僕は存在していなかった。
彼女の視界において、僕は玄関の空間を不自然に埋める「透明なゴミ」ですらなく、ただの背景の一部として処理されていた。
僕は、声の出ない喉を掻きむしりながら、階段を駆け上がった。
足音が異常に大きく響く。
自分の部屋へ。
僕が生きてきた証拠が詰まっている、あの場所へ。
部屋の扉を開ける。
そこは、僕の知っている「相沢廻の部屋」ではなかった。
本棚にあった漫画も、机の上の参考書も、壁に貼ったままのポスターも。
すべてが消えていた。
代わりにそこにあったのは、季節外れの扇風機や、古びた段ボールが積まれた、無機質な「物置」だった。
空気が、僕の知っている匂いじゃない。
長期間、人が立ち入らなかった場所特有の、埃っぽくて冷たい空気。
(嘘だ……。そんなはず、ない……!)
僕は床に膝をつき、必死に床板を叩いた。
ここに机があった。
ここにベッドがあった。
僕はここで眠り、ここで目覚め、結衣のことを考えていたはずだ。
けれど、どれだけ床をまさぐっても、僕の指が触れるのは冷たい段ボールの角と、厚く積もった埃の感触だけだった。
僕という人間が、この家で生きてきた十数年という時間が、奏のノートによって、根こそぎ削り取られたのだ。
「無駄よ。ここはもう、あなたの家じゃない」
背後から、冷徹な少女の声がした。
奏。
彼女だけが、この「僕のいない世界」で、僕を唯一の人間として見つめている。
「あなたは『存在』を売った。存在を失うということは、単に忘れられることじゃない。過去そのものが、あなたを排除して再構成されるということなの。この家において、相沢廻は最初から生まれてすらいない。……ねえ、自分の部屋が『なかったこと』になる気分はどう?」
「っ……、……あ……!!」
僕は、奏のいる気配に向かって拳を叩きつけた。
けれど、やはり手応えはない。
僕の拳は彼女の影をすり抜け、埃の積もった床を虚しく打った。
「結衣ちゃん、大丈夫? 急に二階に上がったりして……。誰もいないのに、誰かを探しているみたいで、おばさん心配だわ」
階下から、母さんの心配そうな声が聞こえる。
結衣は、独りで二階に上がり、誰もいない物置部屋で泣き崩れている「奇妙な少女」として、母さんの目に映っているのだ。
僕は、暗闇の中で叫び続ける。
声にならない、形にならない、祈りのような絶望。
結衣が僕の背中にしがみつき、激しく泣いているのが分かる。
彼女の涙が、僕のシャツを濡らす。
その温もりだけが、僕がこの家で「かつて人間だった」ことを証明する、最後の一片だった。
「1秒戻れば、君は笑う。……そう願った結果が、これよ」
奏が僕の耳元で囁く。
「彼女は今、笑っているかしら? あなたという『幽霊』を抱きしめて、世界中から狂人扱いされて。……これが、あなたの望んだ幸福なの?」
僕は、答えられない。
暗闇はさらに深く、冷たくなっていく。
自分の家という、最も安全なはずの場所で、僕は「永久の迷子」になったのだ。




