16. 闇の中の観測者
光が、死んだ。
まぶたの裏側にあるはずの、淡い赤色さえも残っていない。そこにあるのは、宇宙の端の、さらにその先にあるような、完全なる虚無。
僕は、自分がどこに座っているのか、自分の手足がどの方向を向いているのかさえ、確信が持てなくなっていた。
視覚という「確証」を失った世界は、ひどく不安定で、まるで泥濘の中に浮いているような感覚だった。
暗闇は、単なる色の欠如ではなかった。
それは僕の「輪郭」を侵食する、冷たい貪食者だ。
右目の熱が引き換えにしたのは、光だけではない。
僕という存在をこの世界に繋ぎ止めていた「視線」という名の楔そのものだったのだ。
「……廻くん? ずっと目をつむって、どうしたの?」
暗闇の向こう側から、結衣の声が届く。
その声だけが、僕をこの現世に繋ぎ止める、たった一条の細い糸。
やり直しは、成功した。
僕が「視覚」という光の記憶を奏に売り払ったおかげで、結衣は再び僕を認識し、恐怖のない日常を取り戻した。
……少なくとも、僕にはもう見ることのできないその顔で、彼女は今、微笑んでいるはずなのだ。
僕は応えようとして、口を開く。
けれど、そこにはもう「言葉」を紡ぐための肺活量も、声帯の震えも存在しない。
ただ、乾いた空気が喉を通り過ぎるだけの、虚しい風鳴りが微かに響く。
「っ……、……あ……」
僕は、テーブルの上を必死に探った。
指先はひどく冷たく、感覚は麻痺したように鈍い。
プラスチックのストローや、陶器の冷たさが、まるで遠い世界の記憶のようにぼんやりと指を掠める。
ここにいる。
僕はここにいる。
何も見えず、何も言えなくても、僕は君の隣にいる。
その証明を求めて、彷徨う僕の手が、何かに触れた。
ガチャン。
鋭い音が、静かな店内に響き渡る。
どうやら僕は、自分のグラスを倒してしまったらしい。
氷がテーブルを滑り、カランカランと乾いた音を立てて散らばっていく。
冷たい液体が広がっていく気配が、太腿に伝わる微かな冷気だけで分かった。
「あ、危ない! 大丈夫、私が拭くから。じっとしてて」
結衣の慌てた声。
彼女の服が擦れる音。紙ナプキンで液体を懸命に吸い取る音。
僕はただ、暗闇の中で固まったまま、自分の無力さを噛み締めていた。
今の僕は、彼女にとって「手のかかる子供」ですらない。
そこに居るだけで彼女に負担をかけ、平穏を乱し、掃除を強いる「不完全な荷物」に過ぎないのだ。
「すみませーん! 濡れ布巾、貸してもらえますか?」
結衣が店員を呼ぶ。
すぐそばを、店員の足音が通り過ぎた。
「はい、失礼いたします。……お一人様ですか? お召し物は大丈夫でしょうか」
店員のその言葉に、僕の思考が凍りついた。
「お一人様」。
店員は、結衣に向かってそう言ったのだ。
「えっ……? あの、一人じゃなくて、彼が……。廻くんが今、グラスを倒しちゃって」
結衣の声が戸惑いに揺れる。
彼女の瞳は、真っ直ぐに僕を捉えていた。
けれど、その焦点はひどく不安定だった。
僕の輪郭が、夏の陽炎のように激しく揺らめき、時折背後の景色が透けて見えているのだろう。世界が僕という存在を拒絶する力が、唯一の観測者である彼女の視神経さえも狂わせようとしていた。
「……失礼いたしました。こちらの席、お連れ様はいらっしゃらないようですが……。お荷物か何か、お忘れ物でしょうか? 椅子が少し動いているようですが」
「何を言ってるんですか、目の前に、廻くんが……座ってるじゃないですか!」
結衣の声が、恐怖に染まっていく。
彼女に見えている「僕」は、今やデジタルノイズが混ざったような、今にも霧散しそうな残像に過ぎない。
「廻くん……? どこ? 冗談はやめて、返事をして……」
彼女が「どこ?」と漏らしたのは、目の前にいるはずの僕が、あまりに希薄で、魂だけがどこか遠くへ消えてしまったように見えたからだ。
店員にとって、僕は「そこに存在しないもの」として定義されている。
僕がどれだけ動こうと、音を立てようと、世界というシステムがそれを「意味のある現象」として処理することを拒否している。
椅子が倒れても、それは「風のいたずら」や「椅子のガタつき」として片付けられる。
僕がそこにいても、それは「誰もいない風景」として上書きされる。
これが、奏の言っていた『忘却』の正体か。
名前を失い、声を失い、光を失った僕は、結衣以外の人間にとって「観測不能なエラー」へと退化したのだ。
「廻くん……っ」
結衣の震える指が、僕の頬に触れた。
その温もりだけが、暗闇の中で唯一の「光」だった。
彼女だけが、僕というエラーを、必死に観測し続けてくれている。
けれど、周りの客たちの囁き声が、鋭い針となって僕の耳を刺した。
「ねえ、あの人……一人で何してるの?」
「怖い、誰かと喋ってるみたい……」
結衣が僕に向かって手を伸ばし、涙を流すほど、周囲の人間にとっての彼女は「何もない空間に向かって発狂している不審者」として孤立していく。
僕を守るための僕の行動が、彼女を社会的な死へと追い詰めていく。
「……お客様、他のお客様のご迷惑になりますので。……もし、お加減が悪いようでしたら……」
店員の、丁寧だが芯まで冷え切った声。
彼は僕の存在をミリ単位も認めず、ただ「一人で騒ぐ少女」を排除しようとしている。
(やめろ……。僕のせいで、彼女を壊さないでくれ……!)
暗闇のどこかで、銀色の髪の少女が笑った。
『素敵ね。彼女だけが、消えゆく陽炎を抱きしめている。……でも、廻くん。彼女の記憶の中のあなたも、もうすぐ「ノイズ」に変わるわよ』
奏の気配が、僕のすぐ後ろに迫る。
彼女だけは、僕の暗闇の中に直接土足で踏み込んでくる。
『世界があなたを忘れる時、彼女一人があなたを覚えていることは、祝福ではなく呪いになる。あなたは彼女の騎士ではなく、彼女を狂気へと引き摺り込む、最も愛おしい死神になるのよ』
「……、……っ!!」
僕は結衣の腕を掴み、カフェを飛び出した。
見えない。何も見えない。
けれど、彼女の手の温もりだけを頼りに、僕は必死に足を動かした。
通行人にぶつかっても、謝る声さえ出ない。
ぶつかった相手は「急に服が引っ張られた」ような違和感に首を傾げるだけで、僕の姿を見ることはない。
どれほど走っただろうか。
アスファルトの熱気と、夏の蝉時雨だけが、僕の感覚を埋め尽くす。
ようやく足を止めた時、結衣の激しい呼吸の音が隣で聞こえた。
「……廻くん……。ねえ、廻くん。もう、いいよ」
結衣の声が、諦めたように、そして慈しむように響いた。
「皆が何を言っても、私には見えてる。廻くんがそこにいて、一生懸命私の手を握ってくれてること。……それだけでいい。それだけでいいから……」
彼女は僕の胸に顔を埋め、声を上げて泣いた。
その涙の熱さが、僕の透け始めた皮膚を火傷させる。
僕は、彼女を抱きしめた。
力を込めれば込めるほど、自分の腕が彼女の体をすり抜けそうになる恐怖に怯えながら。
1秒戻れば、君は笑う。
僕はその1秒のために、自分の世界を、自分の言葉を、自分の光を全て売った。
そして今、僕は自分の「居場所」さえも、奏のノートに差し出した。
世界はもう、僕を知らない。
僕を知っているのは、僕の隣で泣きじゃくる、この少女一人だけ。
僕という存在の全てを対価にして、僕は彼女の笑顔という「剥製」を買い取った。
「1秒の対価」は、僕という人間の全てだった。
夏の陽炎が、激しく揺らめている。
僕を、そして彼女を、この残酷な純愛ごと焼き尽くそうとして。




