15. 光の終焉
路地の入り口で立ち尽くす結衣の背中が、陽炎に揺れて歪んで見える。
「……廻くん、嘘だよ。ねえ、冗談でしょ?」
彼女の声はもう、僕を呼ぶためのものではなく、壊れそうな自分を繋ぎ止めるための独り言のように響いていた。
僕は手を伸ばす。彼女の細い肩に触れて、大丈夫だと、僕はここにいると伝えたかった。
けれど、僕の指先は彼女のシャツの生地さえ捉えられない。
触れようとすればするほど、僕という存在の解像度が下がり、彼女の存在が遠ざかっていく。
(……ごめん、結衣。ごめん)
心の中で繰り返す謝罪は、誰に届くこともなく僕の内側で腐敗していく。
奏が僕の隣に音もなく歩み寄り、銀色のノートをパラパラと捲った。
「見て。彼女、もう限界よ。あなたが何も言わず、触れることもできず、ただそこに『不穏な空白』として存在している。それが彼女をどれだけ追い詰めているか、想像できるかしら?」
「……っ」
「あなたのせいで、彼女の夏は真っ黒に塗りつぶされようとしているわ。守りたかったのは、この絶望した顔? それとも、あの輝くような笑顔だったのかしら」
奏の言葉は、正論という名の暴力だった。
結衣がふらりとよろけ、電柱に手をついて泣き崩れる。
その姿を見て、僕の中の何かが決壊した。
彼女を救いたい。この最悪な現実を、なかったことにしたい。
たとえ、その先にさらなる地獄が待っていたとしても。
僕は、声の出ない喉を必死に動かし、奏を睨みつけた。
僕の意思を読み取った彼女は、満足げに目を細める。
「いいわ。一秒戻して、彼女の絶望を消してあげましょう。……その代わり、約束通りあなたの『視覚』をもらうわ」
奏の指が、僕の右目の瞼に優しく触れた。
その指先から、凍てつくような冷気が脳髄まで突き抜ける。
「さようなら、光。これからは、あなたの想像力だけが彼女を守る盾になるのよ」
パチン、と指を鳴らす音が聞こえた。
右目の奥が、爆発したような熱に襲われる。
視界が真っ赤に染まり、次の瞬間、世界からすべての色が吸い取られていった。
空の青、街路樹の緑、結衣の白いワンピース。
あらゆる色彩が灰色の霧に包まれ、やがてその霧さえも、底なしの暗闇へと塗りつぶされていく。
(……あ)
光が、消えた。
形が、消えた。
最後に見た結衣の泣き顔が、網膜の裏側に焼き付いた残像となって、一瞬だけ揺らめき、そして永遠の沈黙へと没した。
「……廻くん?」
耳の奥に、懐かしい声が届く。
気がつくと、僕は再びカフェの椅子に座っていた。
「……廻くん? どうしたの、急に目を閉じて」
結衣の声だ。
やり直しは、成功したらしい。
彼女の声には先ほどの絶望はなく、ただ純粋な戸惑いだけが混じっている。
僕は、目を開けようとした。
けれど、まぶたの裏側にあるはずの景色が、どこを探しても見当たらない。
いくら瞳を動かしても、そこにあるのは、宇宙の果てのような冷たい無だけだった。
僕は、自分が座っている椅子の感触を、服が肌に触れる微かな摩擦を、そして向かい側に座っているはずの彼女の気配を、必死に「観測」しようとする。
けれど、何も見えない。
彼女がどんな表情をしているのか、カフェの窓の外が晴れているのか、今が昼なのか夜なのかさえ、僕には分からない。
「……っ」
僕は震える手を伸ばし、テーブルの上を探った。
カチャリ、と何かが触れ合う音がする。
それが自分の飲みかけのアイスコーヒーなのか、彼女のグラスなのか、判別することさえ今の僕には困難だった。
「廻くん、顔色が悪いよ? 大丈夫?」
結衣の手が、僕の頬に触れる。
その温もりだけが、暗闇の中で唯一の「光」だった。
けれど、僕はその手を握り返すことさえできない。
声を失い、視覚を失った僕は、今や彼女にとって「生きた彫像」に等しい。
(ここにいるよ、結衣。僕は、ここに……)
暗闇の向こう側で、奏の嘲笑うような気配がした。
『1秒戻れば、君は笑う。……ねえ、今の彼女、どんな顔で笑っているか、あなたに見える?』
僕は、答えられない。
ただ、彼女の温もりを頼りに、永遠に続く暗闇の淵で立ち尽くすことしかできなかった。
愛する人の笑顔を守るために、僕はついに、その笑顔を見る権利さえも、自分から切り離してしまったのだ。




