14. 言葉なき対話
「……廻くん?」
結衣の声が、カフェの穏やかな空気を微かに震わせる。
彼女の瞳は、真っ直ぐに僕を見つめている。
けれど、その奥には拭いきれない「違和感」が、小さな刺のように刺さっているのが分かった。
僕は、反射的に口を開こうとした。
ごめん、何でもないよ。
少し喉の調子が悪いだけなんだ。昨日、花火ではしゃぎすぎたかな——。
伝えたい言葉は、脳裏に溢れている。
けれど、脳から喉への回路は無惨に断たれていた。
いくら喉に力を込めても、そこにあるのは冷え切った空洞だけ。震えるはずの声帯は、奏のノートの中に閉じ込められてしまったのだ。
「っ……、……っ」
喉の奥から漏れるのは、掠れた吐息さえ伴わない、無機質な「無」だった。
結衣の表情が、見る間に強張っていく。
僕は焦って、テーブルの上の自分のスマートフォンを掴んだ。
喋れないなら、打てばいい。
デジタルという無機質な記号なら、僕の意志を彼女に運んでくれるはずだ。
だが、画面に指を触れた瞬間、指先がひどく熱くなった。
フリック入力で「の」「ど」「が」と打ち込もうとする。
しかし、僕が画面に触れるたび、表示される文字がドロドロと溶け、見たこともないノイズへと変質していく。
「あ、れ……?」
液晶の向こう側、文字入力のキーボードが、僕の指が触れた場所から順番に「消去」されていく。
いや、それだけじゃない。
画面の奥で、結衣と交わしてきたこれまでのメッセージ履歴が、上から順番に白い空白へと書き換えられていくのが見えた。
「今日楽しかったね」
「また明日」。
僕たちが積み上げてきたはずの言葉の残骸が、今この瞬間、僕の指が触れたという事実だけで、呪いのように消滅していく。
「やめろ……っ、消えるな!」
声にならない叫びを上げながら、僕は必死に画面を操作しようとした。
だが、その時、僕の指がスマートフォンの筐体をすり抜けた。
物質としての密度が限界を超えたのだ。
カラン、と乾いた音を立ててスマートフォンが床に落ちる。
拾おうとしても、僕の指は虚空を掴むばかりで、プラスチックの感触さえ返してこない。
「廻くん、どうしたの……? なんで何も言わないの? 私、何か怒らせること言った……?」
結衣が椅子を引いて、僕の顔を覗き込む。
彼女の大きな瞳から、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちる。
「私のせい? 昨日の花火のあと、私が変なこと言ったから?」
自分を責める彼女の言葉が、鋭利な刃物となって僕の胸を切り刻む。
違う。
君のせいじゃない。
全部、僕が勝手に始めたことなんだ。
そう伝えたいのに、僕には彼女を抱きしめる質量さえ、もう残っていなかった。
僕は狂ったように、カバンからノートとペンを引っ張り出した。
手が震える。
紙にペン先を突き立て、殴り書きするように『喉が痛いだけ』と書こうとした。
インクは紙に落ちる。
けれど、僕が書いたはずの文字は、結衣がそれを読み取るよりも早く、紙の上に黒い染みとなって広がっていった。
まるで、時間が加速して、インクが百年分も一気に劣化したかのように。
それどころか、僕が握っているペンが、まるで熱を持った飴のようにぐにゃりと曲がり、僕の指の間からこぼれ落ちた。
「書く」という行為そのものが、世界というシステムからエラーを吐き出されている。
「……見えないよ。真っ黒だよ、廻くん。何を書いたの?」
結衣の声が、絶望に染まっていく。
僕はペンを落とした。
言葉が届かない。
文字も届かない。
過去の記録さえ消えていく。
目の前に彼女がいるのに、僕は透明な壁の向こう側に、永遠に隔離されている。
「……廻くん、怖いよ。お願い、何か言って。冗談なら、もうやめてよ!」
彼女が僕の両肩を掴んだ。
その温もりは、僕を救うためのものではなく、消えゆく僕をこの世界に繋ぎ止めようとする、必死の叫びだった。
けれど、今の僕にはその温もりを受け止める「器」がない。
彼女の指が僕のシャツを掴む感触さえ、砂嵐のようにザラついていて、僕の心には一滴の喜びももたらさなかった。
ただ、彼女の涙の温度だけが、僕の透け始めた皮膚を火傷させるように熱かった。
(奏……っ!!)
僕は心の中で、あの少女の名を叫んだ。
窓の外。
街路樹の影から、奏が姿を現した。
彼女はカフェのガラス越しに、こちらを見て微笑んでいる。
その手には、僕から奪った「声」を封じた銀色のノートが握られていた。
『無駄よ。あなたは「伝える」という権利そのものを売ったの』
奏の声が、脳内に直接響く。
『声、文字、合図。あらゆる伝達手段は、あなたという存在を証明するためのもの。
それを失ったあなたは、今、この世界で最も孤独な「観測者」になったのよ。あなたが何を思い、何を愛しても、それは誰にも観測されない。「無」と同じなの』
「……っ!!」
僕は結衣の手を振り払い、立ち上がった。
彼女が驚いて目を見開く。
その悲しげな顔を見ていたくなくて、僕は店を飛び出した。
逃げる。
逃げたところで、僕という存在が崩壊している現実に変わりはないのに。
広場に出ると、夏の陽光が容赦なく降り注いでいた。
足元を見る。
僕の影は、アスファルトの上で今にも消えそうなほど薄くなっている。
周囲の通行人たちは、僕を避けることさえしなくなった。
僕の体は、人々の肩を、腕を、幽霊のように通り抜けていく。
一人のサラリーマンが僕を真っ直ぐ突き抜けて歩いていった。
僕の胸の中を他人の肉体が通り過ぎる、悍ましい悪寒。
「すみません」と言うこともできない。
謝る声も、謝る資格も、僕にはもう残っていない。
僕は街角の路地に倒れ込み、自分の喉を掻きむしった。
何か、一音でもいい。
「結衣」という名前を、もう一度だけ、僕の喉で、僕の温度で呼びたい。
それだけでいいのに、喉からはヒュウヒュウと虚しい風の音さえ漏れない。
その時、路地の奥から、規則正しい靴音が聞こえてきた。
コツ、コツ、コツ。
影の中から現れたのは、あの銀色の髪をした少女だった。
「ひどい顔ね。誠に自業自得だわ。あなたは彼女の笑顔のために、自分を切り売りし続けることを選んだんだから。ねえ、自分という一冊の本から、文字が全部消えていく気分はどう?」
「……、……っ!!」
僕は奏に飛びかかろうとした。
けれど、僕の体は彼女の体をすり抜け、壁に激突した。
痛覚さえも、もう半分ほどはどこかへ売却してしまったらしい。
冷たいコンクリートの感触さえ、遠い記憶の残響のようにしか感じられない。
「残念。今のあなたは、私に触れることさえできない。ねえ、廻くん。教えてあげる」
奏は僕を見下ろし、冷酷な宣告を付け加えた。
「次にあなたが失うのは、もっと根源的なものよ。……『形』、かしら。それとも『絆』かしら。このままじゃ、彼女はあなたを『いなくなった人』ではなく、『最初からいなかった人』として認識するようになるわ」
「……っ……」
「もし嫌なら、また『やり直し』なさい。でも、次は……そうね。あなたの『視覚』をもらおうかしら。光のない暗闇の中で、彼女の声だけを聞き、彼女の笑顔を想像するだけの余生。……それとも、いっそ全てを終わらせる?」
奏の笑い声が、夏の空に溶けていく。
僕は、声の出ない絶望の中で、ただ天を仰いだ。
1秒戻れば、君は笑う。
けれど、その笑顔を見るための「瞳」さえ、もうすぐ灰色の闇に呑み込まれようとしている。
路地の入り口で、僕を探す結衣の叫び声が聞こえた。
「廻くん! どこ!? 返事して! お願いだから、一人にしないで!」
僕は返事ができない。
名前もない。
声もない。
ただ、消えゆく陽炎のように、僕はその場に立ち尽くし、彼女の呼び声が遠ざかっていくのを、ただ「観測」することしかできなかった。




