13. 侵食される日常
洗面所のタイルを掴む指が、自分の視界の中でもうっすらと白く濁り、背後の壁の色を透かしている。
僕は鏡の中の「何か」を睨みつけたまま、荒い呼吸を繰り返した。
奏の言葉が、毒のように脳の奥に回り続けている。
(……声を失う? 僕が、僕じゃなくなるだけじゃ飽き足らず、言葉さえ奪うのか)
結衣が待っている。僕の帰りが遅いことを、彼女はきっと今この瞬間も不安に思っているはずだ。
僕は冷たい水で無理やり顔を叩き、逃げるようにトイレを後にした。
カフェのホールに戻った瞬間、奇妙な感覚が全身を駆け抜けた。
店内に満ちているはずの喧騒——食器が触れ合う音、客たちの話し声、コーヒーマシンの唸り——それらすべてが、僕の周囲だけを避けて流れているような静寂。
テーブル席に戻る僕とすれ違った店員は、僕の肩がぶつかりそうな距離にいたにもかかわらず、眉ひとつ動かさなかった。
それどころか、僕の存在など最初からそこになかったかのように、僕が歩く軌道を平然と横切っていった。
「……あ」
声を出そうとして、喉が震えた。
結衣が座っている席が見える。
彼女はスマートフォンを握りしめたまま、うつむいていた。
その肩が微かに震えている。僕を待っている。僕が「何者か」に変質してしまったことに怯えながら、それでも僕を信じて、そこに留まっている。
僕は彼女の向かいの席に滑り込んだ。
椅子が床を擦る音さえ、今の僕には自分の耳に届かないほど希薄だった。
「……結衣、待たせてごめん」
絞り出した僕の声。
それは、自分でも驚くほど掠れていて、まるで砂嵐を録音したテープを再生したような、不気味な歪みを伴っていた。
結衣は、ゆっくりと顔を上げた。
けれど、その瞳は僕を捉えていなかった。
彼女の視線は、僕の数センチ右側、あるいは僕の背後の空中に向かって泳いでいる。
「……廻くん? どこにいるの……?」
結衣の震える声が、僕の心臓を直接握りつぶした。
「どこ」だって? 僕はここにいる。目の前に座っている。
僕は必死に手を伸ばし、テーブルの上の彼女の手に触れようとした。
スカッ、という感覚。
僕の指先は、彼女の肌に触れる直前で、まるで磁石の同極同士が反発し合うように、虚空を滑った。
僕の手は、彼女の手を透過しているわけではない。
けれど、僕という「存在の優先順位」がこの世界において著しく低下した結果、彼女に「触れる」という現象さえも、世界が受理を拒否しているのだ。
「結衣! ここにいるよ。見てくれ、結衣!」
僕は叫んだ。喉が裂けるような思いで、彼女の名前を呼んだ。
だが、僕の叫びは、カフェの冷房の風音にかき消された。
隣の席の女子大生たちが楽しそうに笑う。
レジで注文をするサラリーマンの低い声。
その日常の音の壁の中に、僕の声は一滴のインクを海に落としたように、一瞬で拡散し、消えていく。
「……嘘。どうして……さっきまで、そこにいたのに……」
結衣が立ち上がった。
彼女の大きな瞳から、一筋の涙が頬を伝ってこぼれ落ちる。
彼女は僕が座っているはずの空間に視線を向け、けれど何も見えない絶望に顔を歪めた。
彼女にとって、僕はもう「消えた」のだ。
昨日売った「名前」という登録情報が消去され、写真から輪郭が消え、そして今、ついに「視覚的な認識」という最後の防壁が崩れ去った。
僕は彼女を追いかけようとして、椅子を蹴った。
ガシャン、と大きな音がして椅子が倒れる。
その音にだけは、店内の客たちが一瞬反応した。
「なんだ?」「風か?」
けれど、倒れた椅子のそばに立ち尽くしているはずの僕には、誰も目を向けない。
人々の目には、ただ「椅子が勝手に倒れた」という怪奇現象としてしか映っていないのだ。
「廻くん! 廻くん!!」
結衣がカフェを飛び出していく。
僕はその後を追った。
街は、夏の午後の眩い光に溢れていた。
陽炎がアスファルトの上で激しく揺らめいている。
結衣が駅前の広場で、泣きながら僕を探している。
「廻くん! どこ!? どこにいるの!?」
僕は彼女の背中に向かって、何度も何度も声を張り上げた。
けれど、通り過ぎる人々は、必死に叫ぶ僕の体をすり抜けるように歩いていく。
一人の子供が、僕に向かって走ってきた。
僕はぶつかるのを避けようと身を引いたが、子供は何の抵抗もなく、僕の腹部のあたりを透過して走り去った。
感覚がない。
質量がない。
声が届かない。
僕は、この世界に実在しながら、誰とも交わることができない「生きた幽霊」へと成り果てていた。
その時、広場の時計塔の陰に、あの白い影が立っていた。
奏だ。
彼女は、まるでこの惨劇を特等席で観劇しているかのように、優雅にノートを広げている。
『どう? 世界から無視される気分は』
彼女の声だけは、明瞭に聞こえた。
僕は、怒りと絶望を込めて彼女を睨みつけた。
「やり直せ……! 今すぐ、この瞬間を……結衣が僕を認識していた、さっきまでの時間に戻せ!」
右目の奥が、沸騰した鉛を流し込まれたように熱くなった。
奏は、面白そうに目を細めた。
『いいわよ。でも、言ったわよね。次の代償は、あなたの「声」よ』
「……っ」
『このやり直しを受け入れれば、結衣は再びあなたを見ることができる。けれど、あなたは二度と、彼女の名前を呼ぶことも、愛を囁くこともできなくなる。……それでも、いいの?』
遠くで、結衣が膝をついて泣き崩れるのが見えた。
僕を探して、絶望して、心を壊しかけている僕のたった一人の大切な人。
僕の名前を失っても、僕を愛そうとしてくれた人。
(……声なんて、いらない)
僕の名前が消え、僕の形が消えても、彼女の瞳の中に「僕という居場所」が残るなら。
たとえ僕が、一言も喋れない木偶人形になろうとも。
「……やれ」
僕が掠れた声でそう告げた瞬間、右目の視界が真っ赤に染まった。
世界の時間が、ガラスが砕けるような音を立てて逆行を始める。
結衣が泣き叫ぶ声が、巻き戻されるテープのように逆再生される。
広場の人々の動きが、不自然な加速を伴って後ろへ流れる。
太陽が東へと戻り、街の影が伸び縮みし——。
パキン。
何かが、僕の喉の奥で決定的に千切れる音がした。
熱い液体が喉に溢れる感覚。
けれど、痛みはすぐに「無」へと変わった。
……気がつくと、僕は再びカフェのテーブル席に座っていた。
目の前には、スマートフォンを操作して笑っている結衣がいる。
「見て見て、廻くん! これ、すごく綺麗に撮れてるよ」
彼女は、先ほどと全く同じ台詞を、全く同じ笑顔で僕に投げかける。
彼女の瞳は、真っ直ぐに僕を捉えている。
「やり直し」は成功した。僕は再び、彼女の世界の中に「存在」することを選び取ったのだ。
「……」
僕は、応えようとして口を開いた。
けれど、喉からは、空気の抜けるような空虚な音さえ漏れなかった。
声帯が、筋肉が、言葉を紡ぐための全ての機能が、そこにはもう存在していなかった。
僕は、金魚のように口をパクパクと動かすことしかできない。
「……廻くん? どうしたの、急に黙り込んで」
結衣が不思議そうに僕の顔を覗き込む。
僕は、震える指で自分の喉を押さえた。
幸せなはずの日常。
目の前で微笑む、世界で一番大切な人。
けれど、僕はもう、彼女に「大好きだ」と伝える手段さえ、売却してしまったのだ。
窓の外。
陽炎の向こう側で、奏が満足げに頷いた。
彼女のノートの新しいページには、僕が失った「声」という記憶が、黒々と刻まれていた。




