12. 歪んだアルバム
駅前のカフェの隅、冷房の効いた店内で、結衣は嬉しそうにスマートフォンの画面をスワイプしていた。
テーブルの上に置かれたアイスコーヒー。
僕の目には、それは「黒いインクを溶かした濁った液体」にしか見えず、ストローを伝って口に含んでも、冷たいという暴力的な刺激が走るだけで、豆の香ばしさもガムシロップの甘みも一切感じられなかった。
「見て見て、廻くん! これ、すごく綺麗に撮れてるよ」
結衣が画面をこちらに向ける。
そこには、昨夜の打ち上げ花火を背景に、肩を並べて笑う僕たちが映っていた。
奥行きを失い、一枚の薄っぺらな写真のように平坦になった僕の視界において、スマートフォンの画面は「平面の中の平面」だ。
そこには、僕が昨日の「1秒」と引き換えに守った、完璧なはずの幸福が収められている。
「……本当だ。綺麗だね」
僕は、学習した「正解のトーン」で応える。
けれど、画面を凝視した瞬間、僕の背筋に冷たい氷の柱が突き刺さった。
(……なんだ、これは)
画面の中の、僕の姿。
結衣の隣で笑っているはずの僕の輪郭が、微かに、けれど確実にかき消えていた。
まるでデジタルノイズが走ったかのように、僕の肩から腕にかけての境界線が、背景の夜空に溶け出している。
いや、溶けているのではない。
そこに映る僕は、まるで「未完成の塗り絵」のように、一部の色彩が剥落し、背後の景色が透けて見えていた。
「ねえ、廻くん? どうしたの、そんなにじっと見て。……変な顔、してる?」
結衣が不安そうに僕の顔を覗き込む。
僕は咄嗟に視線を外した。
「いや、あまりに綺麗に撮れてたから、見惚れちゃって。……あの、結衣。他のも見せてくれる?」
「うん、いいよ! ほら、これは階段のところで撮ったやつ」
次の写真。そこには、僕が結衣の手を引いて石段を降りる後ろ姿が映っていた。
鼓動が速くなる。
その写真の僕は、もっとひどかった。
僕の背中の中心。
ちょうど心臓があるはずの場所が、ぽっかりと円形状に「空白」になっていた。
バグではない。加工でもない。
まるで、最初からそこに「相沢廻」という人間が存在していなかったかのように、石段の冷たいグレーが、僕の体の中を突き抜けて描写されている。
(奏……。これが、あなたの言っていた『代償』の続きか)
五感を売り、名前を売り、そしてついに僕は「記録」からも消え始めている。
世界が、僕を「なかったこと」にしようとしているのだ。
「……廻くん?」
結衣の声が、少し震えていた。
彼女の手が、テーブルの上で僕の手に重ねられる。
その瞬間、僕は息が止まりそうになった。
重なった僕たちの手。
僕の視界では、結衣の指が、僕の皮膚を通り抜けて、テーブルの木目を直接触れているように見えた。
触覚がないだけじゃない。
僕の肉体は、もはや彼女の指を受け止めるだけの「質量」さえ、失いつつある。
「廻くんの手、なんだか……すごく冷たい。それに、なんだか、すごく……遠くにいるみたい」
結衣の瞳に、大粒の涙が溜まっていく。
彼女は「名前を忘れた僕」も、「五感を失った僕」も知らないはずだ。
けれど、幼馴染としての直感が、目の前にいる僕が「人ならざるもの」へと変質していることを察知していた。
「……ごめん、結衣。ちょっとトイレに行ってくる」
返事も待たずに、僕は逃げ出した。
洗面所の鏡を睨みつける。
そこには、かろうじて人の形を保っているが、輪郭が陽炎のように揺らめき、背景のタイルに溶け込みかけた「何か」が映っていた。
「……醜いわね。自分の形も保てないなんて」
背後から届いた冷ややかな声に、心臓が跳ねた。
振り返ると、個室のドアに背を預けて、奏が立っていた。
銀色の髪。
冷徹な瞳。
彼女だけは、この平坦な世界の中で唯一、圧倒的な「実存感」を持ってそこに存在していた。
「奏……! これはどういうことだ。写真の中の僕が、消えかかっている」
「当然でしょう? あなたは昨夜、名前を売った。名前はこの世界におけるあなたの『登録商標』のようなもの。それを手放した今のあなたは、世界というサーバーから削除されかけているデータに過ぎないのよ」
彼女は手元の銀色のノートをパラパラと捲り、僕に見せつけた。
そこには、僕が昨日過ごしたはずの「最高の一秒」が、無数の数式とノイズに変換されてびっしりと書き込まれている。
「写真だけじゃない。そのうち記憶からも、視界からも、あなたは消える。最後には結衣の隣に立っていても、彼女はあなたの存在に気づかなくなるわ。ただの『風』や『石ころ』と同じになるの」
「そんなの……! 僕は結衣を幸せにするために、君と契約したんだ! 僕が消えたら、誰が彼女を……!」
「あら、契約書には書いてあったはずよ。『代償はあなたの全て』だと」
奏は一歩、僕に近づいた。
彼女の指先が、僕の胸元に触れる。
本来なら感じるはずのない指の感触が、なぜかその時だけは、焼けるような熱として伝わってきた。
「教えて、廻くん。自分の姿が消えていく恐怖と、彼女が泣く顔を見る絶望。……どっちが重い?」
「……っ」
「もし耐えられないなら、また『やり直し』なさい。今、この瞬間の彼女の不安を消して、また偽物の笑顔を上書きすればいい。その代わり、次は……そうね。あなたの『声』をもらおうかしら」
彼女の唇が、僕の耳元で残酷に弧を描く。
悪魔の誘惑だ。
目の前の苦しみから逃げるために、さらに自分を切り売りする。
その先に待っているのは、結衣だけが幸せな、誰も僕を認識できない空虚な地獄だ。
「……さあ、選びなさい。沈黙の中で彼女を守るか、消えゆく姿を晒しながら足掻くか」
奏の姿が、陽炎のように揺らめき、洗面所の照明の中に溶けていく。
後に残されたのは、鏡の中に映る、名前を失い、輪郭を失い、それでもなお「結衣」という呪縛に囚われた、無惨な少年の姿だけだった。
僕は震える手で、蛇口を捻った。
流れる水の音さえ、今の僕には遠い異国のノイズのようにしか聞こえなかった。




