11. 忘却の朝
意識の覚醒は、深い水の底から浮かび上がるような、緩慢で不快なプロセスだった。
カーテンの隙間から差し込む朝陽が、網膜を刺す。
昨日、祭りの夜に見た「平坦な世界」の残滓だろうか。
視界は依然として奥行きを欠き、天井の木目も、壁に掛かったカレンダーも、すべてが僕の顔の数センチ先で静止しているような、息苦しい圧迫感を伴って迫ってくる。
(……ここは、どこだ?)
最初に脳裏をよぎったのは、あまりにも根源的な疑問だった。
見覚えのある部屋だ。机の上には教科書が並び、椅子には脱ぎ捨てられた夏服のシャツが掛かっている。
けれど、それらの記号が自分の人生とどう結びついていたのか、その手触りが思い出せない。
僕はシーツを掴もうとして、自分の右手に目を落とした。
血管が浮き出た、見慣れない男の手。
いや、自分の手であることは理解している。
けれど、まるで他人の肉体を借りているような、悍ましい乖離がそこにはあった。
指先を動かしてみる。
脳からの命令が届くまでに、わずかなタイムラグがある。
自分の意思が神経を伝わり、筋肉を収縮させるその一連の工程が、ひどく「マニュアル作業」のように意識的で、ぎこちない。
これは、ただ五感が鈍っているのではない。
僕という精神をこの肉体に繋ぎ止めている「接着剤」のようなものが、夜の間に蒸発してしまったのだ。
「……っ」
ベッドから足を踏み出した瞬間、さらなる違和感が僕を襲った。
足の裏がフローリングに触れる感触が、あまりに遠い。
まるで分厚いゴムの層を挟んで地面を蹴っているような、あるいは「他人の足」を遠隔操作で動かしているような、得体の知れない不安定さ。
歩き出すと、自分の足音が「自分のもの」として聞こえなかった。
ペタ、ペタ、という乾いた音が、僕の動作からコンマ数秒遅れて鼓膜に届く。
まるで透明な誰かが、僕の真後ろをぴったりと追尾して歩いているような錯覚。
僕は思わず振り返ったが、そこには朝陽に照らされた、無人の空間が広がっているだけだった。
僕は這いずるようにして机の上のスマートフォンを手に取った。
指紋認証。
ロックが解除される。
そこには、僕のプライバシーが、僕の知らない誰かの記録として無機質に羅列されていた。
通話履歴。
メッセージの通知。
そして、一番上に表示されていたのは、一通の未読メッセージだった。
『廻くん、昨日は本当にありがとう。花火、一生忘れないよ』
その文字を目にした瞬間、胸の奥で鋭い痛みが走った。
「廻」。
それが、僕を呼ぶための記号であることを、僕は知識として知っている。
けれど、その三文字を自分自身の名前として認識しようとした瞬間、脳が激しい拒絶反応を起こした。
「め」「ぐ」「り」。
音を分解する。
喉の中で転がしてみる。
けれど、それはただの空虚な振動として空気に溶けていく。
名前とは、自分と世界を繋ぐ、最も古い呪文だ。
その呪文を失った僕は、今、この部屋という名の「密室」で、正体不明の幽霊へと成り果てていた。
僕は鏡の前に立ち、そこに映る「僕」と向き合った。
鏡の中の少年は、ひどく虚ろな瞳でこちらを見返している。
昨日までの僕なら、この顔を見て「寝不足だな」とか、自分のコンディションを確認できただろう。
だが、今の僕の目に映っているのは、ただの「顔」というパーツを組み合わせた物体でしかなかった。
そこには、昨日まで宿っていたはずの「自分」という実体が存在しない。
まるで、誰かが描いた精巧な肖像画が、鏡のふりをしてそこに立っているだけのような。
奏の宣告が、耳の奥で冷たくリフレインする。
『明日、あなたは名前を失う』
それは、単に呼称を忘れるということではなかった。
自分の名前が、誰の口から、どんな温度で呼ばれてきたのかという「記憶の熱」を、根こそぎ奪われるということ。
「廻くん」と呼ばれるたびに感じていたはずの、あの胸が温かくなるような実感を、僕は昨日の「1秒」と引き換えに奏へ売却してしまったのだ。
僕は震える手で顔を洗った。
水の感触は、やはりザラついた不快なものだった。
冷たさという感覚が、何千本もの細い針となって皮膚を刺す。
洗面台に飛び散った水滴が、昨日の花火と同じように、奥行きのない「銀色の染み」として僕の視界を侵食していく。
(結衣……)
彼女の顔を思い出そうとした。
浮かんでくるのは、精密に描かれたイラストのような、二次元の笑顔だ。
「好きだ」という感情を呼び起こそうとしても、そこにあるのは、奏に預けてしまった「空洞」だけ。
愛している。
守りたい。
その意志だけは、脊髄反射のように僕の体を動かしている。
けれど、その意志を支えるための「心」という心臓が、もうどこにも見当たらない。
部屋に戻ると、またスマートフォンが震えた。
結衣からの着信。
画面に躍る「結衣」という二文字。
今の僕にとって、その名前さえも、いつかどこかで聞いたことのある、けれど意味を持たない古語のように感じられた。
僕は通話ボタンを押した。
耳に押し当てた機械の冷たさが、僕の頭蓋骨を凍らせる。
「……もしもし」
自分の声が、他人の声のように聞こえた。
『廻くん! おはよう。起きてた?』
弾んだ、弾けるような、命の温もりに満ちた声。
かつて僕が、その一音一音に救われてきたはずの声。
けれど、今の僕の耳には、その声は「名前を失った幽霊」を、無理やりこの世に引き留めようとする残酷な鎖のように響いた。
「……ああ。起きてるよ。おはよう、結衣」
僕は、結衣という名前を呼ぶ。
その瞬間、舌の上が焼けるような痛みを感じた。
自分自身の名前さえ失った空っぽの存在が、彼女の名前を呼ぶ。
それは、存在しない人間が、存在する人間に触れようとする、冒涜的な嘘だ。
彼女が僕を「廻くん」と呼ぶたびに、僕の中の何かが削り取られ、彼女の記憶の中にしか存在しない「架空の僕」が、現実の僕を追い越していく。
『ねえ、今日の午後、また会えるかな? 昨日の花火の写真、一緒に見たいなって』
彼女の誘い。
それは、昨日までの僕なら、世界がひっくり返っても飛びついたはずの幸福な提案。
だが、今の僕には、それが「死刑宣告」に等しかった。
彼女の顔を直近で見れば、僕は自分の「空洞」を隠し通せるだろうか。
名前さえも思い出の彼方に消え去ったこの頭で、僕は彼女の隣に立つ「廻くん」を、また演じきれるだろうか。
窓の外では、陽炎がゆらゆらと立ち昇っていた。
その歪みの中に、銀色のノートを抱えた奏の姿を探してしまう。
あの子なら、今の僕を見て、どんな残酷な言葉を吐くだろうか。
「おめでとう。あなたはついに、自分のことさえも『昨日捨てた一秒』にしたのね。五感も、心も、名前も。そうやって全部売ってしまえば、最後には何が残るのかしら」
僕は、部屋の壁に掛けられたカレンダーを凝視した。
そこには、僕が「相沢廻」として生きてきた日々の印がある。
けれど、今の僕には、それらはすべて「他人の日記」の切れ端に見えた。
自分自身の過去が、自分のものではなくなっていく。
世界という巨大なパズルから、僕というピースの形が少しずつ変質し、どこにも嵌まらなくなっていく。
自分の足音が、他人の歩調に聞こえる。
自分の吐息が、湿ったノイズに聞こえる。
僕は、結衣が笑ってくれる未来のために、僕という人間の全てをチップにして、終わりのない賭けを続けているのだ。
僕はクローゼットを開け、鏡の中の「物体」に服を着せた。
結衣が「似合ってるね」と言ってくれたシャツ。
けれど、その言葉を思い出しても、誇らしさも喜びも湧いてこない。
ただ、彼女を失望させないための「正解の衣装」を選ぶだけの無機質な作業。
「さあ、行こう。相沢……廻」
無理やり口にした自分の名前は、朝の光の中に溶けて消えていった。
僕は、名前のない幽霊として、彼女の待つ「陽炎」の中へと、自分の意思ではないような足取りで踏み出した。




