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さよならの陽炎を、追いかけて  作者: 七瀬 澪
第一章「1秒の対価」

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10. 嘘の上塗り

夜空に弾ける花火の音が、今の僕には遠い異国の爆辞のように無機質に響く。


隣で僕の服の裾を震える指で掴んでいる結衣。

彼女が発する「廻くん、帰ろう」という悲痛な訴えさえも、今の僕の脳は、ただのノイズの羅列としてしか処理できなかった。


かつて、彼女の体温は僕の救いだった。


彼女の笑顔は、僕がこの醜く歪んだ世界で息をするための唯一の酸素だったはずだ。


それなのに、今僕の右目が捉えている結衣は、あまりに精巧に作られた「肉の塊」でしかなかった。


頬に流れる涙は、ただの粘性を持った透明な液体。


震える肩は、物理的な振動を繰り返すタンパク質の複合体。


そこに宿っていたはずの「魂」の輝きを、僕は奏に差し出してしまったのだ。


「……廻くん、お願い。返事をして。どうしちゃったの……?」


結衣の瞳が、涙で潤んで僕を映し出している。


その痛々しいほど純粋な怯えを見て、僕の心の一部が、ひどく冷めた声でささやいた。



――このままでは、彼女にこの「異常」がバレる。



――「完璧なデート」という名の剥製が、ゴミ屑のように無惨に瓦解する。



その恐怖だけが、実感を失った僕を動かす唯一の動機だった。


僕は、石のように冷たく、ざらついた感触しか返さない結衣の細い肩を、無理やり抱き寄せた。


「……っ!」


肌が触れ合った瞬間、僕の脳内には「異物への拒絶反応」が激しく火花を散らした。


彼女の体温は、僕の皮膚を通じて「吐き気を催すような生ぬるい泥」の感触に変換される。


抱きしめているのに、そこには虚無しかない。


まるで、巨大な綿の塊を抱きかかえているような、手応えのない空虚さ。


だが、僕は笑った。


かつて幸せだった頃の記憶を必死に手繰り寄せ、強張る頬の筋肉を無理やり押し上げ、完璧な偽物の微笑を顔面に貼り付ける。


「……ごめん、結衣。ちょっと、さっきの立ちくらみの後遺症で、変なものが見えただけなんだ。もう大丈夫。ほら、見て。……花火、最後の一発だよ」


僕の声は、自分でも驚くほど穏やかで、慈愛に満ちていた。


けれどそれは、心からの言葉じゃない。


彼女をこれ以上傷つけないための、防衛本能が生み出した「模範回答」だった。


結衣は僕の胸に顔を埋め、微かに震えながら、けれど安堵したように小さく頷いた。


「……本当? 本当に、大丈夫……?」


「ああ。大丈夫だ。約束するよ。今日の残りの時間も、これからの夏休みも、全部僕が『最高』にしてあげるから」


その嘘を口にした瞬間、背後の暗闇から、奏の乾いた嘲笑が聞こえた。


『最高、ね。その言葉、今日だけで何回目かしら』


僕は彼女を無視し、右目の奥に眠る熱を呼び覚まそうとした。


今のこの、結衣を「物質」としか感じられない最悪の時間を、数秒だけやり直す。


彼女の不安を取り除き、僕の感覚が正常であった「フリ」を、現実として定着させるために。


パキン。


右目の奥で、何かが決定的に砕ける音がした。


だが、世界は戻らない。


代わりに、僕の視界から「奥行き」が完全に消え去った。


世界が、一枚の薄っぺらな写真のように平坦になる。


石段も、遠くの街灯も、そして結衣の顔も。

すべてが遠近感を失い、僕の眼前にベタりと貼り付いた二次元の映像へと退化した。


「……っ、ぐ、あ……」


平衡感覚が崩壊する。

地面がどこにあるのか分からない。一歩踏み出そうとすれば、視界という名のスクリーンに激突してしまいそうな錯覚に陥る。


僕は激しい眩暈に襲われながらも、結衣を離さなかった。


いや、離せなかった。


奥行きを失ったこの平面世界で、僕が「こちら側」に留まるための唯一の手がかりが、この「結衣という名の物質」だったからだ。


(……笑え。優しくしろ。彼女を、絶望させるな)


僕は、彼女の耳元で甘い言葉を注ぎ込み続けた。


心には一滴の愛おしさも湧いてこない。


ただ、彼女を満足させるためだけの仕草を、意識の混濁の中で必死になぞる。


言葉を重ねるたびに、僕の中の「相沢廻」という人間が、中身を失って空洞化していく。


奏の言った通りだ。


僕は、中身の抜けた思い出を抱えて歩く、空っぽの器に過ぎない。


結衣が幸せそうに僕を見上げるたびに、僕は彼女から「本当の僕」を隠すための壁を、より高く、より強固に築き上げていく。

それはもはや、愛情ではない。


自分の「やり直し」を正当化するための、執念深い自己弁護であり、呪いだ。


「……ねえ、廻くん。私、今、すごく幸せだよ」


結衣が、平坦なスクリーンの中で、僕に微笑みかける。


その笑顔は、僕が幾千回もの「一秒」を殺して、その死体の山の上に築き上げた、偽りの絶景だ。


僕は彼女の頬に触れる。


指先には、依然として冷たいプラスチックか、あるいは劣化したゴムのような感触しか返ってこない。


それでも僕は、それを「柔らかい温もり」であると自分に強烈な自己暗示をかけ、優しく撫で続けた。


花火のフィナーレが、夜空を白銀に染め上げる。


その輝きさえも、今の僕には網膜を焼くただの電気信号、あるいは光のノイズにしか見えない。


視界の端。


奏が、銀色のノートをパタンと閉じる音が聞こえた。


「おめでとう、廻くん。あなたはついに、完璧な『嘘』を現実に変えたのね。……でも、忘れないで。空洞を埋めるために使った代償は、もうあなたの元には戻らないわ」


彼女の姿は、いつの間にか消えていた。


ただ、足元に一枚、銀色のノートから剥がれ落ちたような紙片が、夜風に舞っていた。


僕はそれを拾い上げた。


そこには、僕の筆跡によく似た、けれどどこか他人のような文字で、こう記されていた。



――【代償の確定:明日、あなたは『名前』を失う】――



名前を失う?


その意味を考えようとした瞬間、僕の脳裏に異変が起きた。


自分の家の玄関の景色。父親の低い声。自分の部屋に飾ってあった写真。


それらが、まるで水に濡れた水彩画のように、境界線を失い、どろどろに溶けて消えていく。


自分が誰であり、どこに帰ればいいのかという記憶の「アンカー」が、次々と外れていく感覚。


「廻くん? 行こう? 最後まで一緒にいたいな」


結衣が僕を呼ぶ。


「廻くん」というその三文字の響きだけが、今、僕とこの世界を繋ぐ最後の細い糸だった。


もし彼女が僕をそう呼ばなくなったら、僕は本当に、この平坦な色彩の海に溶けて消えてしまうだろう。


石段を降りる僕の足取りは、ひどくおぼつかない。


奥行きのない世界で、僕は何度も足を踏み外しそうになりながら、結衣の手を強く、骨が軋むほど強く握りしめた。


結衣はそれを「情熱」だと思い込んだのか、頬を染めて嬉しそうに寄り添ってくる。


僕は、この嘘の上塗りを、命が尽きるまで続けていくのだ。


たとえ僕自身が何者であったかを忘れ、名前も、感覚も、魂もすべて差し出したとしても。


祭りの終わりを告げる遠い太鼓の音が、まるで僕という人間の葬送曲のように、暗い夜の底へ、底へと、重く響き渡っていた。

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