9. 指先の氷点下
パニックは去り、世界には平穏が戻った。
……はずだった。
「廻くん、本当にもう大丈夫? 顔、まだ少し青いよ?」
結衣が心配そうに僕の顔を覗き込む。
彼女の瞳には、僕を案じる純粋な、あまりに純粋すぎて今の僕には毒のようにすら感じられる光が宿っている。
僕はその光を直視することができず、意識的に口角を上げ、肺に残った乏しい酸素を絞り出して偽りの活力を声に込めた。
「ああ、本当に大丈夫だ。さっきはちょっと、空気に酔っただけだから。……ほら、花火、始まるんだろ?」
「……うん。行こう、とっておきの場所があるんだ」
結衣は僕の手をぎゅっと握りしめ、神社の裏手に続く石段を登り始めた。
手から伝わる彼女の温度。
それは奏に一時的に「調整」してもらったおかげで、今は驚くほど正確に、そして心地よい「少女の体温」として僕の皮膚を叩いている。
けれど、その心地よさが、かえって僕の肋骨の裏側を冷たく掻きむしった。
今感じているこの「正しい体温」は、僕の本来の感覚ではない。
奏という、あの底の知れない少女から一時的に融資を受けた、偽物の、張りぼての感覚なのだ。
借りたものは、返さなければならない。
利子をつけて、最も残酷な形で。
明日、目が覚めたとき、僕の世界から奪われている「大切な何か」とは一体何なのか。
その不安が、石段を一段登るごとに足元から泥のように這い上がり、僕の歩調を重く狂わせていった。
石段を登り切った先は、祭りの喧騒がわずかに遠のく、高台の展望スペースだった。
眼下には縁日の提灯が朱色の川のように連なり、遠くの街並みが夜の闇に沈み込んでいる。
地上ではあんなに騒がしかった人々の声も、ここまで来れば心地よい羽音のような残響にまで濾過されていた。
「ここ、穴場なんだよね。小さい頃にお父さんに教えてもらったの。私、廻くんとここに来るの、ずっと楽しみにしてたんだ」
結衣はそう言って、石造りの柵に寄りかかった。
夜風が彼女の浴衣の裾を優雅に揺らし、アップに結い上げたうなじの白さが、街の灯りを反射して淡く発光しているように見えた。
本来なら、その光景に胸を締め付けられ、彼女を抱きしめたくなるはずの場面。
だが、その瞬間に、僕の鼻腔を「変質」が襲った。
彼女の髪から漂っていたはずの、石鹸のような、甘い花の香りが一変する。
僕の脳が感知したのは、何かが無惨に焦げたような、ツンとした暴力的な腐臭だった。
ゴムが焼けるような、あるいは古いアルバムが火の中に投じられ、思い出が炭化していくときのような、不快な「死」の匂い。
「……っ、う……」
僕は思わず口元を押さえた。
胃の底から酸っぱいものがせり上がってくる。
結衣は僕の異変に気づいていない。
彼女はただ、夜空を見上げて、今か今かと最初の一発が打ち上がるのを待っている。
その横顔が、僕には剥製のように静止して見えた。
「廻くん、見て! 始まるよ!」
ヒュルルル……と、空を切り裂くような音が響く。
普通なら高揚感を煽るはずのその音も、今の僕の耳には「錆びたナイフで空を切り裂く音」のようにしか聞こえない。
一拍置いて、夜空のキャンバスに巨大な大輪の菊が咲き誇った。
赤、青、金。
本来なら、感嘆の声を上げるべき美しい光景。
だが、僕の目には、その火花の一つ一つが「ひび割れたガラスの破片」となって、僕の網膜をズタズタに切り裂きに来るように見えた。
色彩が、不自然なほどどぎつく、彩度が狂っている。
赤は鮮血よりも禍々しく暗く、金は数十年放置されて腐食した真鍮のように不気味にくすんでいる。
火花が散るたびに、耳の奥では「硝薬が爆ぜる不快な軋み」が重低音となって脳を揺さぶった。
「……綺麗だね、廻くん。やっぱり、二人で来てよかった」
結衣が、愛おしそうに僕の肩にそっと頭を預けてきた。
恋人同士のような、幸福の象徴。
けれど、彼女の髪が僕の頬に触れた瞬間、僕は背筋に氷の柱を叩き込まれたような激しい悪寒に襲われた。
柔らかいはずの彼女の髪が、僕の肌には「乾いた藁」か「細い針金の束」のように、ザラついて不快な触感として伝わってくる。
それだけじゃない。
彼女の肩から伝わってくる感触が、急速に「生物」としての柔らかさを失い、硬質化していく。
温かかったはずの肌が、冬の野ざらしにされた「石」のように、あるいは「冷たく磨かれたプラスチック」のように。
血の通わない、脈動のない、無機質な「物体」へと、僕の感覚の中で作り変えられていく。
(……やめろ、やめてくれ……!)
これが、奏が言っていた代償の「前払い」なのか。
『大切な何か』を預かる――それは、愛しい人に触れたときに感じる「愛おしさ」そのものを、感覚の拒絶によって物理的に塗り潰すということだったのか。
結衣が、僕の腕をぎゅっと抱きしめる。
彼女は自分の体温を、愛情を、僕に分け与えようとしている。
だが、今の僕にとって、その行為は「冷たいマネキンに抱きつかれている」ような生理的な嫌悪感しか生まなかった。
彼女の浴衣が擦れる音は、紙ヤスリが鼓膜を削る音に聞こえ、彼女の吐息は、湿った腐敗した風となって僕の首筋を撫でる。
「……廻くん? どうしたの? またどこか痛いの……?」
結衣が、僕の硬直に気づいて顔を上げた。
至近距離で僕を見つめるその瞳。
そこには不安と、拒絶されることへの恐怖が混じり合っている。
けれど、今の僕には、その瞳が「精巧に彩色されたガラスの義眼」のようにしか見えない。
瑞々しいはずの唇は、冷たく固まったシリコンの塊にしか見えない。
大好きなはずの結衣が、僕が守りたかったはずの女の子が。
目の前で、秒単位で、ただの「形の良い物質」へと成り果てていく。
結衣は、僕の視線が自分に向けられていないことに気づいたのだろう。
彼女は必死に僕の顔を覗き込み、震える手で僕の頬に触れた。
「ねえ、廻くん。私だよ? 結衣だよ? どこを見てるの……?」
その手の感触は、死んだ魚の鱗のように冷たく、ざらついていた。
僕は反射的に首を捻って、彼女のその手を避けてしまった。
「……っ!」
結衣が、傷ついた獣のような声を漏らして息を呑む。
彼女の指先が宙で止まり、力なく力なく垂れ下がっていく。
その痛々しい仕草さえも、今の僕には「ゼンマイ仕掛けの人形の故障」のようにしか映らない。
心では叫んでいる。
違うんだ、結衣。僕は君を愛しているんだ。
けれど、脳が、皮膚が、神経が、それを全力で拒絶している。
「……ねえ、相沢くん。その顔、まるで化け物でも見てるみたいね」
背後から、すべてを凍りつかせるような声がした。
振り返る必要もなかった。
空乃奏が、いつの間にか僕たちのすぐ後ろ、松の木の深い影に紛れて立っていた。
彼女は銀色のノートを広げ、何事かをペンでさらさらと、処刑の宣告でも書くかのように書き留めている。
「……奏。お前、何を……何をしたんだ……」
「契約の履行を確認しているだけよ。感覚の逆流を止めるための代償として、あなたの『実感』を少しだけ預かわせてもらったわ。今のあなたにとって、隣の彼女はただの『形の良い物質』でしょう? 精巧にできた、喋るお人形さん。……素敵じゃない、壊れる心配がなくて」
「……ふざけるな。戻せ、今すぐ戻せ! こんなの、僕の望んだことじゃない!」
「無理よ。これはあなたが自分自身で天秤に乗せた『平穏』の結果だもの。……見てごらんなさい。あなたのせいで、彼女、あんなに不安そうで、今にも壊れそうな顔をしているわよ」
奏の言葉に、弾かれたように結衣を見る。
結衣は、僕と、そして僕が睨みつけているはずの「何もない暗闇」を交互に見て、顔を蒼白にさせていた。
彼女には、奏の姿が見えていない。
ただ、何もない空間に向かって怒声を浴びせる幼馴染の狂態を、震えながら見守ることしかできないのだ。
「廻くん、誰と……誰と話してるの……? 怖いよ、もう帰ろう? お願い、廻くん……」
結衣の声が震えている。
その声にさえ、もう以前のような、心に響く愛おしさを感じられない。
ただの「鼓膜を震わせる一定の周波数」としてしか脳が認識しない。
僕は、彼女を安心させる言葉さえ見失い、ただ夜空に弾け続ける、不気味な色の死の火花を、呆然と見上げることしかできなかった。
幸せなはずの夏祭りの夜。
僕は、世界で一番大切なはずの人の隣で。
世界で一番深く、冷たい孤独の中に、生きたまま埋められていた。




