プロローグ:欠落の標本
何かを得るためには、何かを捨てなければならない。
それは、この世界の絶対的な等価交換の法則だ。
僕が手に入れた『やり直し』という万能の力。
右目の奥で薄い硝子が砕けるたび、世界は僕の望む地点へと巻き戻る。
最初は、ただの奇跡だと思った。
テストのミスを消し、失言を飲み込み、幼馴染の結衣が少しでも眉を寄せれば、その原因となった過去をまるごと葬り去る。
僕はその力を使って、自分の世界から「不都合」を徹底的に排除した。
けれど、幸福な「現在」を編集すればするほど、僕という人間は空っぽの器へと変わっていく。
失敗を消すたびに、僕の味覚が死んでいく。
誰かの涙をなかったことにするたびに、僕の世界から色彩が剥がれ落ちる。
偽物の平穏を買い続ける代償として、僕の指先からは、確かな熱が奪われていった。
そんな、夏が死体のような匂いをさせ始めた日のことだ。
『――ねえ、相沢くん』
銀色の髪を揺らし、境界線の上に立つ彼女――空乃奏が言った。
彼女は、僕が右目で殺し、捨ててきたはずの「汚れた時間」のすべてを抱きしめて、そこに立っていた。
『その右目で、次は何を殺すつもり?』
隠していたはずの醜い僕の正体を、彼女だけが知っていた。
これは、やり直しを積み重ねた先に、何もかもを失った僕たちが、崩れゆく陽炎の向こう側で、最後にたぐり寄せる「たった一つの本当」を見つけるまでの物語。




