9 花言葉は『感謝』
その日の夕方。
ミドリは、宴の準備で活気づく村の喧騒から少しだけ離れて、一人、カケルの家の前に立っていた。その手には、昼間、自分の手でそっと摘み取った、一輪のピンクのバラが握られている。
やがて、村のまとめ役のロイドと打ち合わせを終えたカケルが、少し急いだ様子で家に戻ってきた。
「どうした、ミドリ。こんな所で」
「……カケル」
ミドリは、意を決して、持っていたバラを、彼の前にそっと差し出した。
「これ、あなたに」
「……は? 俺に?」
カケルは、戸惑ったように、ミドリの手の中にある、可憐なピンク色の花と、ミドリの顔を、交互に見比べた。その顔には、「なんで、俺に花なんか?」と、はっきりと書かれている。
「うん。……感謝の、気持ち」
ミドリは、少し照れながら、俯きがちに言った。
「私のいた東の国にはね、『花言葉』っていうのがあったの。花の種類や色によって、特別な意味を持たせて、気持ちを伝える習慣。そして、このピンクのバラの花言葉は、『感謝』なのよ」
「……はな、ことば……」
カケルは、その聞き慣れない単語を、口の中で繰り返した。
「私が、この村に来てから、カケルには、ずっと助けられてばっかりだから。寝る場所をくれて、食べるものをくれて、畑まで貸してくれて……。本当に、ありがとう。その気持ちを、伝えたくて」
ミドリは、顔を上げて、カケルの目をまっすぐに見つめた。夕日に照らされた彼女の頬は、ほんのりと、バラの色に染まっているように見えた。
カケルは、しばらく何も言えず、ただ、ミドリを見つめていた。やがて、彼は、少しだけ気まずそうに視線を逸らすと、ごしごしと、乱暴に頭を掻いた。
「……そうか。まあ、なんだ。……どうも」
そして、おずおずと差し出されたバラを、そっと受け取った。
「悪い、これからまた村の寄り合いなんだ。じゃあな」
彼は、花そのものにはあまり興味を示さないまま、家の中へと入っていってしまった。
その、あまりにも素っ気ない背中を見送りながら、ミドリは、ふふっ、と小さく笑みを漏らした。
(やっぱり、男の子は「花より団子」、なのかな。日本でも、この世界でも、それは変わらないみたいね)
内心で、そんな可愛らしい悪態をつきながらも、ミドリの心は、春の陽だまりのように、どこまでも温かかった。
◇
翌朝、ミドリが目を覚まし、テーブルへと向かうと、そこには、簡素な土器の水差しが置かれていた。
そして、その水差しには、昨日ミドリが贈った、一輪のピンクのバラが、大切そうに生けられていた。
朝日が、窓から差し込み、その花びらを透かして、きらきらと輝いている。
(……ちゃんと、伝わってたんだ)
ぶっきらぼうな彼の、不器用な優しさに触れて、ミドリの胸は、朝の光のように温かいもので満たされていくのだった。
◇
あの奇跡のような開花から数日後、村は再び祝祭の熱気に包まれていた。
前回は、ほんのわずかな小松菜とかぼちゃを分け合う、ささやかな「収穫祭」だった。しかし、今回は違う。ミドリの畑でたわわに実った、ナス、きゅうり、そして土の中にずっしりと実をつけたじゃがいも。それら全てが、広場に設けられた長テーブルの上に、誇らしげに並べられていた。
「すごい……本当に、ミドリの言う通りになったぞ!」
「このナスっていうのを見てみろ! 今まで見た野菜の中で一番だ、ものすごく艶があって立派だ!」
「このきゅうりっていうのの瑞々しい匂いがたまらねえ!」
村人たちは、目の前に広がる野菜の山を前に、子供のようにはしゃいでいた 。カケルとノフーが中心となって腕を振るい、男たちは大きな鍋で猪の肉とじゃがいも、ルタオニオンを煮込んだ豪快なシチューを作り、女たちは採れたてのナスやかぼちゃを香ばしく焼き上げ、村特製のハーブ塩で味付けをしていく 。
陽が落ち、広場に焚かれた大きな焚き火が、人々の顔を暖かく照らし出す頃、宴は最高潮に達した 。
「うめえええっ! なんだこの芋は! ポポイモと違って、ほっくほくで、口の中でとろけるようだ!」
「この焼いたナスも最高だ! じゅわっと汁が溢れてきて、甘いのなんの!」
村人たちは、前回に引き続き、野菜の本当の美味しさに、ただただ感動の声を上げていた。それは、飢えを満たすための食事ではない。心を満たすための、豊かで幸福な食事だった 。
宴の輪の中心で、ミドリは村人たちの笑顔に囲まれていた 。
「ミドリちゃん、本当にありがとう!」
「あんたは、この村の女神様だよ!」
口々に寄せられる感謝の言葉に、ミドリは照れながらも、胸の奥からじんわりと温かいものが込み上げてくるのを感じていた 。
ふと見ると、輪の少し外れた場所で、ロイドの奥さんであるマリーが、幼いリーナを抱きしめながら、静かに涙を流しているのが見えた 。
「マリーさん……?」
ミドリが心配して声をかけると、マリーは慌てて涙を拭い、無理に笑顔を作った 。
「ご、ごめんなさい、ミドリちゃん。嬉しくて……。この子が生まれてから、こんなにたくさんの種類の、美味しい野菜を食べさせてあげられる日が来るなんて、夢にも思わなかったから……。いつも、固いポポイモと硬い黒パンばかりで、ごめんねって、心の中で謝ってたの。だから……本当に、ありがとう……」
その、母親としての偽らざる言葉に、ミドリの胸はぎゅっと締め付けられた。私の知識が、私の頑張りが、この村の人々の生活を、心を、確かに豊かにしている。その実感が、何よりも大きな喜びとなって、ミドリの心を震わせた 。
宴が終わり、人々がそれぞれの家路につく頃。後片付けをしていたミドリの元に、村のまとめ役であるロイドが、少し真剣な面持ちでやってきた。隣には、カケルもいる 。
「ミドリ。今、少しだけいいか」
「はい、もちろんです」
ロイドは、ミドリの畑の方を指差しながら、意を決したように言った 。
「単刀直入に言う。俺の家の畑の周りにも、あのバラを植えてはもらえないだろうか」
その言葉は、ミドリが心のどこかで待ち望んでいたものだった 。ロイドの真剣な瞳には、自分の家族の未来を、村の未来を、ミドリの持つ不思議な力に託したいという、切実な願いが宿っていた 。
「もちろんです! 喜んで!」
ミドリが満面の笑みで頷くと、そのやり取りを聞きつけていた他の村人たちが、堰を切ったようにミドリの周りに集まってきた 。
「おお、ロイド、ずるいぞ! 俺もだ、ミドリちゃん!」
「私の家もお願い!」
「私も!」「私も!」という声が、夜の広場に響き渡る。その熱気に、ミドリは少しだけ気圧されながらも、役に立っているという確かな実感に、胸が熱くなった 。
「みんな、落ち着いて!」
カケルが、力強い声で場を収める 。
「ミドリだって、一人しかいないんだ。それに、種の数にも限りがあるだろ」
その言葉に、村人たちははっと我に返り、少しだけ気まずそうに黙り込んだ 。
しかし、ミドリはにっこりと微笑んで、首を横に振った 。
「大丈夫です。種がなくても、バラは増やせるんですよ」
「え、本当かい!?」
村人たちの顔に、再び希望の光が灯る 。
「はい。『接ぎ木』という方法があるんです。今あるバラの枝を少しだけ切り取って、別の丈夫な木の根っこに繋いであげるんです。そうすれば、同じ花を咲かせる、新しいバラの木を作ることができるんですよ」
ミドリが語る、魔法のような技術。それは、彼女が農業高校で学んだ、確かな知識に基づいていた 。村人たちは、ぽかんと口を開けて、その説明に聞き入っている 。
「この村は、十軒ほどの小さな村です。一軒一軒、私が回って、皆さんの畑に、このバラを植えていきます。だから、心配しないでください」
その言葉に、広場は再び、今度は安堵と感謝の歓声に包まれた 。
その夜、ミドリはのベッドの上で、村の未来に思いを馳せていた 。
(これで、村の畑全部が元気になれば、もっと色々な作物が育つようになる。そうすれば、みんな、もっとお腹いっぱいになれる)
私の知識が、この村の、みんなの未来を、もっと明るくできるかもしれない。その壮大な可能性に、ミドリの心は、かつてないほど大きく、力強く、高鳴っていた 。
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