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7 行商人が運んできた風

昨夜の宴の熱気が、まだ村のあちこちに残り火のように燻っていた。


広場には、焚き火の跡と、村人たちの陽気な笑い声の残響が染み付いているかのようだ。 生まれて初めて味わう瑞々しい葉野菜の衝撃と、かぼちゃの優しい甘さは、村人たちの心に、食事がもたらす喜びという、素朴で力強い光を灯した。 それは、ただ腹を満たすための作業ではない、明日を生きるための活力と、ささやかな幸福そのものだった。



その翌朝。


ミドリは誰よりも早く目を覚まし、カケルの家の裏手にある、自身の小さな王国へと向かっていた。 朝露に濡れた土の匂いを胸いっぱいに吸い込むと、不思議と心が落ち着く。 ここが、今の彼女の居場所だった。


「みんな、おはよう」


畝に並ぶ、小さな緑の葉ひとつひとつに声をかける。 枯れてしまったナスやきゅうりの畝は、既に綺麗に片付け、次の挑戦のための堆肥を混ぜ込んであった。 失敗は、終わりではない。 次へ繋がる、貴重なデータだ。農業高校で学んだ知識と、この異世界の土が教えてくれる声に耳を澄ませば、きっと道は開ける。


唯一、たくましく育った小松菜と、数少ないながらも見事な実をつけてくれたかぼちゃの蔓を、ミドリは愛おしそうに撫でた。 そして、畑の隅、聖域と定めたバラの区画に目をやった時、彼女は改めてその異常なまでの生命力に首を傾げた。 他の作物が苦しんでいたのをまるで意に介さず、バラの苗だけは青々とした葉を天に伸ばし、その茎は子供の指ほどもある太さにまで成長していた。


(やっぱり、このバラ、何かある……)


そんな思索に耽っていると、遠くから、チリン、チリン、と軽やかな鈴の音が聞こえてきた。それは、村の日常にはない、どこか陽気で、心を弾ませるような音色だった。


村の入り口の方から、子供たちのはしゃぐ声が聞こえてくる。


「レオ兄ちゃんだ!」


「待ってたよー!」


声のした方に目をやると、一頭の馬が引く、幌付きの大きな荷馬車が、ゆっくりと村へ入ってくるところだった。御者台に座っているのは、快活そうな笑顔を浮かべた一人の青年だ。歳は二十歳そこそこだろうか。亜麻色の髪を無造作に風になびかせている。その目には、商人らしい抜け目のなさと、若者特有の好奇心がきらきらと輝いていた。


彼こそが、およそ二ヶ月に一度、この村に様々な物資と、そして外界の新しい風を運んでくる行商人、レオだった。娯楽の少ないこの村にとって、彼の訪れは、子供から大人まで、誰もが心待ちにしている一大イベントなのだ。


「よう、みんな! 元気にしてたか! 今回も、とびっきりの品を持ってきたぜ!」


レオが馬車からひらりと飛び降りると、子供たちがわっと彼を取り囲んだ。彼は荷台から、飴色に輝く干し果物をいくつか取り出し、子供たちの手に握らせる。それだけで、子供たちは英雄を迎えるかのような歓声を上げた。


「レオ、よく来たな」


村の男たちを代表するように、カケルとロイドが、笑顔でレオに歩み寄った。


「おう、カケルにロイドさん! あんたたちも息災そうで何よりだ。今回は、上等な鉄の鍬先と、頑丈な麻布を多めに持ってきたぜ。塩も、いつもより多めだ。そっちの獲れ高はどうだい?」


「ああ、上々だ」


とカケルが頷く。


「先日、でかい大猪グレートボアを仕留めたばかりでな。毛皮も牙も、特級品だぜ」


「へえ、そいつは素晴らしい! さすがは村一番の狩人様だ。ぜひ高く買わせてもらうよ」


男たちは、慣れた様子で物々交換の交渉を始めた。村で獲れた獣の毛皮や牙、薬草、そして主食のポポイモ。それらが、レオが持ってきた塩や布、農具といった、村の生活に不可欠な品々と交換されていく。それは、この村の生命線を繋ぐ、重要な儀式でもあった。


レオは、村人たちと軽口を叩き合いながらも、その目は常に鋭く獲物を見定める狩人のように、村の変化を見逃さなかった。そして、彼はふと、カケルの家の裏手の畑に立つ、一人の少女の姿に気づいた。


(……ん?)


見慣れない顔だった。村の女たちとはどこか違う、凛とした空気をまとっている。陽の光を吸い込んだかのような、艶やかな黒髪のボブカット。


日々の畑仕事で健康的に日焼けした肌。そして何より、彼女が身にまとっている、生成り色の素朴なチュニックとスカートは、村の女たちの着る、くたびれた灰色の服とは明らかに違っていた。 決して華美ではない。だが、その素朴さが、かえって彼女の清楚な魅力を際立たせていた。


レオの心臓が、とくん、と大きく跳ねた。

行商人として、様々な町や村を巡り、数多くの女たちを見てきた。だが、これほどまでに、一瞬で心を奪われたのは初めてだった。まるで、森の奥深くで、誰にも知られずひっそりと咲く、一輪の白百合を見つけてしまったかのような衝撃。


「……なあ、カケル。あそこにいるお嬢さんは、誰だい? あんたの村に、あんな綺麗な人がいたなんて、聞いてないぜ?」


レオが、少しだけ声を潜め、悪戯っぽくカケルに尋ねる。カケルは、レオの視線の先にミドリがいるのを認めると、少しだけ眉根を寄せた。


「……ミドリだ。東から来た旅人で、少し前からここにいる」


「へえ、ミドリちゃん、か。いい名前だ」


レオの目が、値踏みをするような商人としての目から、一人の男としての、熱を帯びたそれに変わるのを、カケルは見逃さなかった。


交渉が一段落したところで、ロイドがパン、と手を打った。


「よし、レオ! 長旅で疲れただろう。もてなしだ。うちの村の、新しいご馳走を食っていけ」


「ご馳走? ロイドさん、またまた。いつものポポイモの塩茹でだろ? あれも素朴で美味いけどさ」


「ふふん、まあ、見てろって」


ロイドに促され、カケルは少し不承不承といった顔で、畑にいるミドリに声をかけた。


「ミドリ! すまないが、小松菜を少し、摘んできてくれないか。客人に振舞うんだ」


「うん、分かった」


ミドリはこくりと頷くと、一番出来の良い小松菜を数株、手際よく摘み取り、井戸水で丁寧に泥を洗い落として、木の器に入れて持ってきた。


「さあ、レオ。食ってみてくれ」


差し出された器の中には、青々とした葉が、瑞々しい輝きを放っている。レオは、きょとんとした。


「え? これを? このまま?」


この世界では、葉物野菜を生で食べるという習慣は、ほとんどない。火を通すのが当たり前だった。


「まあ、騙されたと思ってさ」


カケルに促され、レオは半信半疑で、一枚の葉を手に取った。そして、おそるおそる、それを口に運ぶ。


次の瞬間。レオの顔に、雷に打たれたかのような衝撃が走った。


「なっ……!?」


サクッ、という軽やかな音が、彼の口から響く。

今まで経験したことのない、シャキシャキとした心地よい歯触り。 そして、噛みしめるたびに、口の中いっぱいに広がる、清流のような水分。 それは、ただの水分ではない。青臭さや苦みは全くなく、後に残るのは、春の陽光を思わせる、ほんのりとした、優しい甘みだった。


「う……うめええええええっ!! なんだこれは!? なんなんだ、この葉っぱは!?」


レオは、行商人としての体面も忘れ、子供のように目を輝かせて叫んだ。


「先日、アッシュフォードの街で大評判の『旅人の食卓』って店で食った野菜も驚いたが、こいつはそれに匹敵する! いや、それ以上かもしれねえぞ!」


そして、器に残っていた小松菜を、夢中で口にかきこみ始めた。そのあまりの食べっぷりに、周りで見ていた村人たちから、どっと笑いが起こる。


「信じられねえ……! こんな美味いもんが、この世にあったなんて! おい、カケル! あそこの名物の『コロッケ』ってのも絶品だったが、この葉っぱは一体、何ていう野菜なんだ!? あんたの村で採れるのか!?」


「ああ。ミドリが、育てたんだ」


「ミドリちゃんが!?」


レオは、興奮した様子でミドリに向き直った。その瞳は、もはや尊敬と、そして隠しようのない好意で、爛々と輝いている。


「ミドリちゃん、君はすごい! 天才だ! こんな素晴らしい野菜を育てられるなんて! ねえ、お願いだ! この野菜、俺に売ってくれないか!? アッシュフォード侯爵領の貴族相手なら、銀貨五枚でも売れる! いや、もっと高く売れるぞ!」


商人としての血が、激しく騒ぎ出す。これは、ただ美味いだけではない。莫大な富を生む、金のなる木だ。

しかし、ミドリは少し困ったように微笑み、首を横に振った。


「ごめんなさい、レオさん。これは、まだ試験的に育てているものなんです。それに、この葉はすぐに萎れてしまうから、遠いアッシュフォードの町まで運ぶのは、きっと無理だと思います」


その冷静で的確な返答に、レオはぐっと言葉に詰まった。そうだ、この瑞々しさこそが、この野菜の命だ。日持ちがしないのは、商人として致命的だった。


「そ、そうか……。残念だ……」


肩を落とすレオに、ミドリはくすりと笑った。


「でも、お口に合ったのなら、よかったです」


そのはにかんだような笑顔に、レオの心臓は、再び大きく跳ねた。聡明で、謙虚で、そして、とびきり可愛い。彼は、この数分間で、完全にミドリの虜になってしまっていた。


「ミドリちゃんは、東の国から来たんだってね。どうりで、俺たちの知ってる野菜とは、わけが違うはずだ。東の国には、他にも、こんなに美味いものがあるのかい?」


レオは、なんとか会話を繋げようと、矢継ぎ早に質問を重ねる。ミドリは、戸惑いながらも、「ええ、まあ……」と、当たり障りのない返事を繰り返す。その二人の様子を、少し離れた場所から見ていたカケルの表情が、みるみるうちに険しくなっていくのに、ミドリは気づいていなかった。


結局、レオは粘りに粘ったが、小松菜を仕入れることは叶わなかった。彼は、物々交換で手に入れた毛皮やポポイモを荷馬車に積み込むと、名残惜しそうに、ミドリに言った。


「ミドリちゃん。次に来る時までに、必ず、この葉っぱを新鮮なままアッシュフォードまで運ぶ方法を考えてくるよ。だから、それまで、もっとたくさん作っておいてくれるかい? これは、商売人としての一生のお願いだ」


「……考えておきます」


「よし、約束だ!」


レオは、満面の笑みを浮かべると、御者台にひらりと飛び乗った。


「それじゃあな、みんな! 二ヶ月後に、また来るぜ! ミドリちゃんも、元気でな!」


彼は、ミドリに向かって、大げさに手を振ると、鈴の音を鳴らしながら、颯爽と村を去っていった。


荷馬車が森の向こうに消えていくのを、ミドリは静かに見送っていた。

外界から来た、陽気で、自信に満ちた青年。彼の存在は、ミドリの心に、小さな波紋を広げていた。自分の知識と技術が、この村だけでなく、もっと広い世界でも通用するかもしれない。そんな、新しい可能性の扉が、ほんの少しだけ開いたような気がした。


レオの荷馬車が完全に見えなくなると、カケルが、ぶっきらぼうな口調でミドリに言った。


「……あんな奴の言うこと、真に受けるなよ。商人の口車だ」


「え?」


振り返ると、カケルは、少し拗ねたような、子供っぽい顔で、そっぽを向いていた。


「別に、他所の町で売れなくたっていいだろ。ここの皆が、お前の野菜を一番うまいって分かってるんだから」


その言葉は、乱暴に聞こえたけれど、そこには、ミドリの作ったものを、自分たちだけの宝物にしておきたいという、不器用な独占欲が滲んでいた。

そのことに気づいたミドリは、なんだか胸がくすぐったくなるのを感じて、ふふっと、小さく笑みを漏らした。


「うん。そうだね」



その夜、ミドリは一人、部屋のベッドに横になり、今日の出来事を反芻していた。行商人レオがもたらした、新しい風。それは、ミドリに、この世界での新たな目標を与え、そして、カケルの心には、今まで気づかなかった、小さな恋心の種を、芽生えさせようとしていた。


二人の関係が、ほんの少しだけ、変わり始める。そんな予感をはらんで、村の穏やかな一日は、ゆっくりと暮れていくのだった。


(……それにしても)


ミドリは、天井を見上げながら、ふと、ある言葉に引っかかった。


レオが叫んだ、「コロッケ」という単語。


(コロッケ……その響きに、ふと高校の家庭科の授業風景が脳裏をよぎった。フランス料理の『クロケット』を起源とし、日本でじゃがいもとひき肉の料理へと独自の進化を遂げた『和製洋食』。確か、そう習ったはず……)


この世界の言語が、どういうわけか日本語として認識できているのは、神様か何かのサービスなのだろう。だが、それにしても、この世界に日本独自の食文化であるはずの「コロッケ」が存在し、しかも店の名物になるほどに普及しているのは、どうにも奇妙だ。


(もしかして……)


ぞくり、と背筋に小さな震えが走った。


(この世界には、私以外にも、日本から来た人がいる……? そして、その人が、アッシュフォードの街にある『旅人の食卓』とやらに……?)


まだ見ぬ同郷人の存在の可能性。それは、ミドリの心に、孤独を和らげる微かな希望と、正体不明の相手への漠然とした好奇心を同時に芽生えさせるのだった。

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