6 最初の収穫と希望の芽
種を蒔いてからの毎日は、祈りと観察の繰り返しだった。
夜明けと共に目を覚まし、カケルのお母さんの服に着替えて畑へ向かう。朝露に濡れた土の匂いを吸い込み、畝のひとつひとつに異常がないか見て回る。それが、私の新しい日常になった。
向こうの世界では、スマホのアラームに叩き起こされ、SNSをチェックすることから一日が始まっていたというのに。
ここでは、太陽の昇る角度と、鳥のさえずりが私の時計だった。
「ミドリ姉ちゃん、おはよーっす!」
決まって夜明け過ぎにやってくるのは、ノフーだった。彼は小さなジョウロで、楽しそうに水やりを手伝ってくれる。
「おはよう、ノフー。今日も早いね」
「おう! だって気になるじゃねえか! 東の国の野菜ってやつが、本当にこの畑から出てくんのか!」
その目は、まるで宝の地図の在り処を教えられた子供のように、純粋な好奇心でキラキラと輝いていた。
カケルは、毎朝森へ狩りに出かける前に、必ず畑に顔を出した。彼は何も言わず、腕を組んで私の仕事ぶりをじっと眺めているだけだったが、その視線が「本当に大丈夫なのか」という心配から、「こいつ、本気でやってるな」という感心の色に、徐々に変わっていくのが分かった。
それと同時に、私は畑の隅の一角に、日に日に強まる違和感を覚えていた。聖域と定めたバラの区画のバラだけが、他の野菜とは比べ物にならない速度で、力強く芽を伸ばし始めていたのだ。
(異世界の土がよほど合ったのかな……? それとも、品種改良された種だから生命力が強いんだろうか)
不思議に思いつつも、他の野菜の世話に追われる日々の中で、その疑問はすぐに忙しさの中に掻き消されていった。
そして、種まきから五日が過ぎた朝のことだった。
「……あ!」
思わず、声が漏れた。畝の一つ、小松菜を蒔いた場所から、小さな、本当に小さな双葉が、健気にも土を押し上げて顔を出していたのだ。昨日までは、確かに何もなかった場所に。
「め、芽が出てる……!」
「え、どこどこ!?」
私の声に、隣で雑草を抜いていたノフーが飛んできた。
「うおっ、本当だ! ちっちぇえ! こいつが、あの絵に描いてあった野菜になるのか!?」
「うん……うん!」
私は何度も頷いた。涙が滲んで、目の前の小さな双葉がぼやけて見える。
よかった。この世界の土でも、太陽でも、水でも、ちゃんと命は育つんだ。私の知識は、無駄じゃなかった。安堵と喜びで、胸がいっぱいになった。
小松菜の芽吹きを皮切りに、畑は生命の祝祭に包まれた。じゃがいもが力強く土を持ち上げ、ナスの紫がかった双葉が顔を出し、きゅうりとかぼちゃも、可愛らしい芽を次々と芽吹かせた。
そんなある日の昼下がり、村がにわかに活気づいた。遠くから聞こえてくる男たちの勇ましい声と、村人たちの歓声。何事かと畑から顔を上げると、ノフーが興奮した様子で駆け寄ってきた。
「ミドリ姉ちゃん、大変だ! カケル兄さんたちが、やったぞ!」
ノフーに手を引かれるまま村の入り口へ向かうと、そこには信じられない光景が広がっていた。屈強な男たちが四人がかりで、巨大な猪を担いでいる。その猪は、燃えるような赤い鬣を持ち、牙は鋭く湾曲し、まるで血で濡れたかのように赤黒く光っていた。その先頭を歩くのは、弓を背負い、誇らしげに胸を張るカケルだった。
「『大猪』だ! カケルが、森の主の一頭を仕留めたぞ!」
村人たちの歓声が、地鳴りのように響く。この猪一頭で、村の食料事情は劇的に改善されるだろう。カケルは村の英雄だった。
しかし、村の明るい光とは裏腹に、私の畑には、少しずつ暗い影が差し始めていた。順調に育っているように見えた野菜たちに、異変が現れ始めたのだ。
最初に異変に気づいたのは、ナスだった。葉の裏に、粘つくような黒い斑点が現れ、数日後には葉全体が病的な黄色に変色し、ぱりぱりと枯れ落ちてしまったのだ。
きゅうりの蔓は元気に伸びたものの、なぜか黄色い花が咲いたそばから、まるで力尽きたように色褪せてぽとりと落ちてしまう。
じゃがいもは、茎ばかりが光を求めるようにひょろひょろと頼りなく伸び、土の中の芋が全く大きくならなかった。
(どうして……? 土の酸度は調整したはず。水はけも悪くない。肥料だって……)
農業高校で学んだ知識を総動員しているのに、原因が分からない。これが、異世界の洗礼なのだろうか。私の知る常識が、ここでは通用しない。焦りと不安が、じわじわと心を蝕んでいく。
◇
そして、運命の一ヶ月後。
私の小さな畑に残されていたのは、青々とした葉を茂らせる小松菜と、大きな葉の下にごろりと実った、数個のかぼちゃだけだった。ナスも、きゅうりも、じゃがいもも、そのほとんどが枯れてしまった。
その惨状を前に、私はとうとう、その場にへたり込んだ。
悔しい。自分の無力さが、情けない。村のみんなの期待を、裏切ってしまった。ぽろぽろと、大粒の涙が、乾いた土に吸い込まれていく。
「……そんなに落ち込むなよ」
いつの間にか、背後にカケルが立っていた。
「最初から、全部うまくいくわけねえだろ」
ぶっきらぼうな、けれど温かい声。
「でも……! 私、たくさん収穫して、みんなに美味しい野菜を、お腹いっぱい食べさせてあげたかった……!」
「十分だろ」
カケルはそう言うと、私の隣にしゃがみこみ、まだ青々と茂る小松菜の葉を、そっと指で撫でた。
「俺じゃろくに何も育てられなかったこの場所に、お前は緑を芽吹かせた。それに、こいつと、あのかぼちゃってやつは、ちゃんと育ったじゃねえか。失敗じゃねえよ。これは、お前がこの土地で勝ち取った、最初の収穫だ」
その言葉に、私ははっと顔を上げた。
そうだ。全滅じゃない。この小松菜とかぼちゃは、確かに育った。でも、なぜこの二つだけが? 枯れてしまったナスやじゃがいもと、何が違ったんだろう……?
私は改めて、自分の小さな畑全体を見渡した。そして、ある一つの可能性に気づき、息を呑む。
元気に育った小松菜。そして、いくつか実をつけてくれたかぼちゃ。その二つは、どちらも畑の隅……私が「聖域」と決めて、バラの種を蒔いた区画のすぐ隣に植えたものだった。
そういえば、あのバラだけは、種を蒔いた当初からずっと、異常なほど成長が早かった。他の作物が苦しんでいるのをあざ笑うかのように、青々とした葉を茂らせている。
(バラの……近く……? まさか、そんな偶然……。でも、どうしてあのバラだけが、あんなにも元気に……?)
確証はない。ただの希望的観測かもしれない。でも、この世界に来てから、常識では考えられないことばかりだ。もし、この仮説が本当なら、これはただの収穫じゃない。この村の未来を、農業そのものを変えることができる、大きな大きな一歩になるかもしれない。
俯いている時間はない。この、かけがえのない最初の収穫と、奇跡の可能性を秘めた希望の芽を、最高の形でみんなに届けなくては。
「……ありがとう、カケル」
涙を拭い、私は決意を固めて立ち上がった。
◇
その日の夕方。カケルと私は村の広場に、村人たち全員を集めていた。
まずは、収穫したばかりの小松菜を、大きな木の器に山盛りにする。
「さあ、みんな! 私の畑で採れた、最初の恵みよ! まずは、このまま食べてみて!」
私の言葉に、村人たちは顔を見合わせる。この世界では、葉物を生で食べる習慣がないのだ。
「え、ミドリさん、この葉っぱ、火を通さなくていいのか?」
ロイドさんが戸惑ったように尋ねる。
「ええ! このみずみずしさが、ご馳走なの!」
私がにっこり笑って一枚ちぎり、ぱりっと音を立てて食べてみせると、おそるおそる、皆が手を伸ばし始めた。
「……なんだこれ!?」
最初に声を上げたのはノフーだった。
「ぱりぱりしてるのに、口ん中が水でいっぱいになる! 苦くねえし、ほんのり甘い! うめえ!」
その言葉を皮切りに、広場のあちこちから、驚きと感動の声が上がった。
「本当だ! 信じられないくらいみずみずしい!」
「こんな葉っぱ、初めて食ったぞ!」
次に、大きな鍋で、先日カケルが仕留めた、大猪のロース肉と、小松菜をさっと炒めたシンプルな塩炒めを振る舞う。
「うおおっ! 肉の塩気と、葉っぱの甘みが、すげえ合うぞ!」
村人たちが小松菜の味に熱狂している中、私はもう一つのとっておきを、大切そうに抱えて運んできた。湯気を立てる黄金色の塊が並んだ、大きな木の皿だ。
私はその皿を持って、目をキラキラさせながらこちらを見ている子供たちの輪の中心へと向かった。
「みんな、お待たせ! これは、この畑を作るのを一番頑張ってくれたみんなへの、約束の特別なご褒美、『お陽さまかぼちゃの蜜煮団子』よ」
私の言葉に、子供たちの間から「わあっ!」と歓声が上がる。
「みんながあの日、たくさんの『宝物』を集めてくれたおかげで、土が元気になって、この美味しいかぼちゃができたの。本当にありがとう」
私はしゃがみこんで、一人ひとりの顔を見ながら、お団子を小さな手のひらに乗せていく。
「リーナちゃんは、可愛いお花のついた草をたくさん集めてくれたわね。ありがとう」
「あなたは、一番重たい落ち葉の袋を一生懸命運んでくれた力持ちさん。ありがとうね」
「みんなで競争してくれたから、あっという間に宝物が集まったわ。すごく助かったのよ、ありがとう」
子どもたちは、少し照れくさそうに、でも誇らしげな顔で、黄金色のお団子を受け取った。そして、それを頬張った瞬間、歓声は今日一番の大きさで広場に響き渡った。
「あめええええっ!」
「ふわふわで、とろけるー!」
ノフーは、口の周りをかぼちゃだらけにしながら、目を輝かせて叫んだ。
「ミドリ姉ちゃん、これ、最高だ! 俺、今まで食ったもんの中で、一番うめえよ!」
その、あまりにも素直な絶賛に、私の胸は熱くなった。
失敗は、した。でも、この笑顔があるなら、何度だって挑戦できる。
私の異世界農業革命は、ほろ苦い失敗と、甘くて温かい、確かな成功から、今、本当の意味で始まったのだ。
◇
広場を片付け、村が寝静まった頃、私とカケルは彼の家に戻っていた。
昼間の喧騒が嘘のように静まり返った家の中では、暖炉の火がぱちぱちと穏やかな音を立てている。二人分の影が、オレンジ色の光の中でゆっくりと揺れていた。
「……終わったね」
私がほうっと息をつくと、カケルも「ああ」と短く応えた。
「みんな、本当に美味しそうに食べてくれて……よかった。あんな笑顔が見られるなんて、思ってもみなかったから」
子供たちの歓声、村人たちの驚きの顔。一つひとつを思い出すと、胸の奥からじんわりと温かいものが込み上げてくる。
すると、隣に座っていたカケルが、暖炉の火を見つめたまま、ぽつりと言った。
「俺の方こそ、礼を言う」
「え?」
「村の連中の、あんなに明るい顔、久しぶりに見た。子供だけじゃない、爺さんや婆さんまで、みんな笑ってた。……お前が来てくれたおかげだ。ありがとうな、ミドリ」
普段のぶっきらぼうな口調からは想像もできない、素直で、心の底からの感謝の言葉。私の心臓が、きゅっと小さく音を立てた。
「ううん、私の方こそ、ありがとう。カケルが畑を貸してくれなかったら、何も始まらなかった。それに、一番大変な土を耕すのだって、あなたが手伝ってくれたから……。私一人じゃ、絶対に無理だったよ」
「……まあ、あれくらいはな」
カケルは少し照れくさそうに頭を掻き、それきり黙ってしまった。
気まずい沈黙ではなかった。言葉にしなくても、お互いの感謝の気持ちが伝わってくるような、心地よくて、温かい静寂だった。
「……それじゃあ、私、もう寝るね。おやすみ」
「ああ。おやすみ」
私は立ち上がり、自分の部屋へと向かった。
◇
カケルのお母さんのベッドに横になり、目を閉じる。
瞼の裏に浮かぶのは、今日一日の出来事。村人たちの笑顔、ノフーのはしゃぎ声、そして、「ありがとう」と言ってくれた時の、カケルの少しだけ照れたような横顔。
(ここに来られて、よかった)
元の世界では感じたことのなかった、確かな充足感が胸を満たしていく。
誰かに必要とされること。自分のしたことで、誰かが笑顔になってくれること。それが、こんなにも心を温かくするなんて、知らなかった。
(カケルがいるから、私はここで頑張れるんだな……)
彼の不器用な優しさに、この1ヶ月でどれだけ救われてきただろう。
この温かい気持ちの名前を、私はまだ知らない。ただ、明日も彼の隣で、あの畑に立ちたいと、心の底からそう思った。
◇
ミドリが部屋に入った後も、カケルはしばらく暖炉の前から動けずにいた。
今日の出来事を、一つひとつ反芻する。
見たこともない葉っぱを頬張り、目を丸くする村の男たち。黄金色の団子を巡って、歓声を上げる子供たち。その中心で、幸せそうに笑っていたミドリの顔。
(あいつが来てから、村の空気が、少しだけ変わった)
それは、確かな実感だった。ただ食い繋ぐだけの毎日から、明日への楽しみという彩りが、ほんの少しだけ加わったような。
(本当に、やり遂げやがった……)
畑仕事に真剣に取り組む横顔も、子供たちに団子を優しく手渡す姿も、全部、俺の知らなかった「ミドリ」だった。
胸の中に、じんわりと温かいものが灯るのを感じる。
この感情が何なのか、カケルにはまだ分からなかった。ただ、明日、畑に向かう彼女の隣にいるのは、悪い気分じゃない、と。それだけは、確かだった。
ご参考までに。
小松菜は春・秋は30日〜40日で収穫できます。
かぼちゃは雌花がついてから40〜50日で収穫できます。
それぞれの野菜の収穫までの期間や、旬が違うのでは、とのご指摘もあるかとは思いますが、異世界ということで、ご理解くださいm(_ _)m
ご一読いただきありがとうございます!
思った以上に読んでくださる方がいて、とても嬉しいです。
もっと楽しんでもらえるように頑張りたいと思います。
今後の励みになりますので、ぜひページ下のいいねボタンで応援してください。
よろしくお願いします(^O^)/