4 革命は、小さな畑から
翌朝
私は、鳥たちの陽気なさえずりで目を覚ました。昨日までの世界では、けたたましいアラームの電子音で一日が始まっていたというのに。
窓から差し込む朝の光は、部屋の埃をきらきらと金色に照らし出し、木の壁の節目さえも芸術品のように見せている。なんて穏やかな朝だろう。異世界での最初の朝は、不思議なほどの静けさと、肺の奥まで澄み渡るような新鮮な空気に満ちていた。
ベッドから起き上がり、昨日カケルに貸してもらった服に袖を通す。生成り色のチュニックは少し大きめだったけれど、柔らかな生地が肌に心地よかった。
スカートの裾にあしらわれた素朴な花の刺繍に指で触れると、これを着ていたカケルのお母さんの温もりまで伝わってくるようで、胸の奥がきゅっと温かくなった。
見ず知らずの私に、こんなにも大切なものを差し出してくれた彼の優しさに、どう応えればいいのだろう。
部屋を出ると、カケルはもう起きていて、土間で角兎の解体作業の続きをしていた。無骨なナイフを器用に使い、肉を部位ごとに切り分け、保存のために塩を揉み込んでいる。その真剣な横顔は、昨日森で会った時よりも更に大人びて見えた。
「おはよう、カケル」
「……おう。よく眠れたか?」
私の声に、彼はちらりと視線を寄越すだけですぐに手元の作業に戻った。
「うん、すごく。ベッドも服も、本当にありがとう」
「別にいい。それより、腹は減ってないか? スープの残りを温めようか」
「ううん、私は大丈夫。それより、そのお肉、すごい量だね」
土間には、昨日二人で食べた分など微々たるものに思えるほどの、大量の肉の塊が並んでいた。
「ああ。これだけあれば、しばらくは村の皆も食いっぱぐれずに済む。残りは干し肉にすりゃ、結構もつからな」
カケルはそう言って、誇らしげに口の端を上げた。彼の言葉に、私は村へ来た時の光景を思い出す。獲物を担いだ彼に向けられた、村人たちの安堵と感謝の眼差し。
「よし、準備できたぞ。こいつを各家に配りに行く。ミドリ、手伝ってくれるか?」
当たり前のように言うカケルに、私はきょとんとした。
「え? これを全部、配っちゃうの? カケルの分は……?」
私の問いに、今度はカケルが意外そうな顔をした。
「俺の分もちゃんと確保してある。だが、獲物は俺だけのものじゃねえ。この村で手に入った食いもんは、みんなのもんだ。ここは四十人ほどの小さな村だからな。誰かだけが得をすれば、誰かが飢える。そんなんじゃ、この厳しい土地で生きていけねえんだ。助け合わなきゃ、すぐに全員倒れちまう」
その言葉は、私の心を強く打った。私のいた世界では、自分のものは自分のもの。誰かと何かを分ち合う時でさえ、そこには何かしらの計算や見返りが存在するのが当たり前だった。
でも、ここでは違う。助け合うことが、生きるための絶対的なルールなのだ。なんて力強く、そして温かい繋がりだろう。
「……そっか。すごいね、この村は」
「別にすごくもねえよ。当たり前のことだ」
ぶっきらぼうに言う彼の横顔を、私は眩しいものを見るような気持ちで見つめた。そして、この村の一員として、自分も何かをしたいと、心の底から思った。
「うん。手伝う! 喜んで!」
私は力強く頷き、カケルが差し出す麻袋の一つを受け取った。二人で手分けして肉を袋に詰めていく作業は、なんだか新しい生活の始まりを告げる、初めての共同作業のように思えた。
◇
麻袋を担いだカケルを先頭に、私たちは再び村の中を歩き始めた。朝の村は、静かな活気に満ちている。男たちは森へ入る準備をしたり、農具の手入れをしたり。女たちは井戸で水を汲み、家畜の世話を焼いている。どの顔にも生活の厳しさは刻まれているけれど、絶望の色はない。皆、今日を生きるために懸命だった。
「カケル! 昨日ぶりだな!」
最初に声をかけてきたのは、昨日も会ったロイドと名乗る、村のまとめ役の屈強な男だった。
「ロイドさん。約束通り、持ってきたぜ」
カケルが麻袋の口を開いて見せると、ロイドさんの日に焼けた顔がぱっと輝いた。
「おおっ! 本当にありがてえ! これでうちの子供たちにも、腹一杯食わせてやれる」
カケルは慣れた手つきで肉の一塊を取り出し、ロイドさんに手渡す。ロイドさんはそれを、まるで宝物のように大事そうに受け取った。彼の後ろから、小さな女の子がひょっこりと顔を出す。私と目が合うと、恥ずかしそうにお父さんの足の後ろに隠れてしまった。
「こら、リーナ。ご挨拶しなさい。このお姉さんも、カケルと一緒に獲物を運んでくれたんだぞ」
「……あ、ありがと……」
リーナちゃんは、もじもじしながら小さな声でお礼を言った。その健気な姿に、私の胸が温かくなる。
「気にしないで。たくさん食べるんだよ」
私が微笑みかけると、彼女はこくりと頷き、またお父さんの後ろに隠れてしまった。
次に向かったのは、村の隅にある小さな家だった。戸口で老婆が一人、静かに日向ぼっこをしている。
「エルマばあちゃん、おはよう」
「おお、カケルかい。その声と匂いで分かるよ。今日はご馳走の匂いだねえ」
エルマばあちゃんと呼ばれた老婆は、ほとんど見えていない目で空を見上げたまま、穏やかに微笑んだ。
「角兎が獲れたんだ。ばあちゃんにもおすそ分け」
カケルが老婆の膝にそっと肉を置くと、彼女は皺だらけの手でそれを何度も撫でた。
「ありがたいねえ……。これでまた、少し長生きできそうだ。……おや、隣にいるのは、お客さんかい?」
老婆の鋭い気配が、私に向けられる。
「は、はい。ミドリと言います。しばらく、村でお世話になることになりました」
「そうかい。ミドリ……綺麗な響きの名前だね。この村には何もないけれど、ゆっくりしていくといいよ。カケルを、よろしく頼むね」
エルマばあちゃんの言葉は、まるで本当の孫を案じるかのようだった。カケルは照れくさそうに「ばあちゃん、余計なこと言うなよ」と頭を掻いている。
私たちはその後も、十軒ほどの家を一軒一軒回った。病気の夫を看病する若い妻。腕白な男の子が四人もいる大家族。生まれたばかりの赤ちゃんを抱いた母親。
誰もが、カケルが持ってきた肉を心から喜び、感謝の言葉を口にした。そして、見慣れない私に対しても、最初は訝しげな目を向けながらも、カケルの連れだと分かると、少しずつ警戒を解いて、穏やかな表情を見せてくれるのだった。
村人たちの笑顔を見るたびに、私の心は満たされていった。現実の世界では、誰かに心から感謝されることなんて、ほとんどなかった。
でも、ここでは違う。生きるために必要なものを分かち合う、その当たり前の行為が、こんなにも人を笑顔にする。その輪の中に自分もいるという事実が、私に確かな居場所を与えてくれているような気がした。
すべての家に肉を配り終える頃には、麻袋はすっかり軽くなっていた。
「すごいね、カケル。みんな、カケルがいないと生きていけないよ」
帰り道、私が心からの尊敬を込めてそう言うと、カケルは少し拗ねたように唇を尖らせた。
「やめろよ、そんなんじゃない。俺がこうするのは、親父たちがそうしてきたからだ。そして、いつか俺が困った時に、誰かが助けてくれるようにするためでもある。持ちつ持たれつ。それだけのことだよ」
そう言う彼の耳が、少しだけ赤くなっているのを私は見逃さなかった。
◇
「よし、それじゃあ、約束通り村を案内してやる」
カケルの家に戻ると、彼はそう言ってにやりと笑った。
「せっかく世話になるんだ。どこに何があるかくらい、覚えとかねえとな」
「うん! お願いする!」
カケルの後について、私は再び村を歩き始めた。さっきとは違う、村の裏手へと続く道だ。
「まず、あれが共同の作業場だ。森で採ってきた木材を加工したり、壊れた農具を直したりする場所だな。腕のいい爺さんが一人いるが、もう歳だから、最近は若い連中が見よう見まねでやってる」
彼が指差した先には、壁のない、大きな屋根だけの建物があった。中では数人の男たちが、火花を散らしながら鉄を打っている。原始的ではあるが、自分たちの生活に必要なものは自分たちで作る、という逞しさがそこにはあった。
「あっちが井戸だ。村の真ん中にあるから、みんなで使う。水質はいい。どんな日照りが続いても、ここの水が枯れたことはないんだ。村の生命線だな」
井戸の周りには女たちが集まり、洗濯をしたり、談笑したりしていた。村の情報交換の場にもなっているのだろう。彼女たちは私に気づくと、にこやかに手を振ってくれた。私も少し照れながら、手を振り返す。
村は小さいながらも、機能的に作られていた。家々は緩やかな円を描くように配置され、その中心に井戸と広場がある。何かあれば、すぐに人が集まれるようになっているのだ。そして、その家々を取り囲むように、畑が広がっていた。
「そして、ここが……村の食い扶持を支える、大事な畑だ」
カケルの声のトーンが、少しだけ低くなる。
その言葉に、私は目の前に広がる光景に改めて意識を集中させた。そして、すぐにその異常さに気がついた。
どこの畑も、作物の育ちが恐ろしく悪いのだ。
「うおおおっ、このっ、かてえなあ、ちくしょう!」
畑の一角で、昨日会ったばかりの少年、ノフーが汗だくになって鍬を振り下ろしていた。しかし、彼の力強い動きとは裏腹に、鍬の刃は固い地面に弾かれ、かん、かん、と虚しい音を立てるばかりだ。
「よう、ノフー。精が出るな。だが、そんなに力任せにやっても、その鍬が先に折れるのがオチだぞ」
カケルが呆れたように声をかけると、ノフーは顔を真っ赤にしてこちらを振り向いた。
「カケル兄さん……! だって、こんちくしょう! 全然、土が入っていかねえんすよ! 石ばっかりで!」
「主に育てているのは、あれ?」
私が指差したのは、黄色く変色し、見るからにひょろひょろとした葉をつけた作物だった。
「ああ。村の主食のポポイモだ。こっちの丸っこいのがルタオニオン。だが、見ての通りだ」
カケルの言う通り、ポポイモの葉は枯れかけ、ルタオニオンの芽は力なく地面を這い、実も数えるほどしかついていない。まるで、成長の途中で全ての生命力を吸い取られてしまったかのようだった。
「……ひどい……」
思わず、声が漏れた。農業高校で三年間、植物と向き合ってきた私にとって、それはあまりにも痛々しい光景だった。
「ああ。ここ数年、ずっとこの調子なんだ。昔はもっと、たくさんの収穫があったって、爺さんたちが言ってたんだがな」
カケルは、苦々しげにそう言って、足元の土を蹴った。
私はゆっくりと畑の畝のそばに屈み込み、土を手に取ってみた。
指先で土をこねるようにして、感触を確かめる。
「……土が、すごく硬い。石も多いし……色が、なんだか悪いね」
手に取った土は、黒々とした健康な土とは程遠い、白っぽくパサパサとしたものだった。これでは、植物が根を張るのも一苦労だろう。
「水やりは、どうしてるの? 井戸の水を使ってる?」
「ああ。水だけは豊富にあるからな。沢から水路を引いてきてる畑もある。水不足が原因じゃないはずだ」
カケルの言う通り、土には適度な湿り気があった。水が原因でないとすれば、考えられるのは一つしかない。
「……土に、栄養がないんだ」
「栄養?」
カケルが、不思議そうな顔で私を見る。
「うん。植物も、人間と同じで、ご飯を食べないと大きく元気にはなれないの。この土は、もう作物を育てるための栄養が、ほとんど残ってない状態なんだと思う。いわゆる、『土地が痩せてる』ってやつ」
「土地が痩せてる……」
ノフーが鍬を地面に突き立て、悔しそうに呟いた。
「交易商人が持ってくる『豊穣の粉』ってのを撒いてるんすけど、最初のうちだけで、すぐにまた元に戻っちまうし……。一体、どうすりゃいいんだか」
豊穣の粉、というのが化学肥料のようなものだろうか。でも、それだけでは根本的な解決にはならない。無理やり栄養を与え続けても、土そのものが死んでいては、いずれ限界が来る。
私は立ち上がり、改めて村の畑全体を見渡した。どの畑も、同じ問題を抱えている。これでは、いくら村人たちが懸命に鍬を振っても、十分な収穫は得られないだろう。カケルがあれほど危険を冒して、毎日森へ狩りに出かける理由が、痛いほどによく分かった。
でも、だとしたら。
私に、できることがあるんじゃないか?
学校で学んだ知識が、頭の中で次々と組み立てられていく。腐葉土や家畜の糞を使った堆肥作り。緑肥作物の栽培。土の酸度を調整するための石灰の利用。私が「飛び肉」で夢中になってやっていたこと、そして、現実の学校で学んできたこと。その全てが、今、この場所で役に立つかもしれない。
胸が、高鳴った。
無気力だった私が、ゲームの世界でしか感じられなかった、あの万能感。それが、今、現実の世界で、本物の手触りを持って私の中に込み上げてくる。
私は、隣に立つカケルの顔を、まっすぐに見上げた。
「ねえ、カケル。お願いがあるの」
「……なんだ?」
私の真剣な眼差しに、カケルは少し戸惑ったように問い返す。
「あなたの家の裏にある畑、私に管理させてくれないかな」
「は? うちの畑を?」
「うん。ほんの少しの区画でいいの。そこで、私のやり方で野菜を育ててみたい。もしうまくいけば、この村の畑全部を、もっと元気にできるかもしれない」
私の突拍子もない提案に、カケルも、そして話を聞いていたノフーも、呆気にとられたような顔をした。
「……ミドリ、お前、商人の家の出なんだろ? 畑仕事なんて、やったことあるのか?」
「え、あ……うん! 東の国では、いろいろな農法があって、少しだけ嗜んでいたの!」
危ない。またボロが出るところだった。咄嗟に、ありったけの知ったかぶりで答える。
「……ふうん」
カケルは、まだ半信半疑のようだ。腕を組み、じっと私の目を見つめてくる。その真剣な視線に、私は怯まなかった。ここで引くわけにはいかない。これは、私がこの世界で見つけた、最初の希望なのだから。
「お願い。もし、一月経っても何も成果が出なかったら、すぐにやめるから。畑をダメにしちゃったら、私が責任を持って、森で食べられるものを探してくる。それに、私がここで生きていくためには、私にできることで、みんなの役に立ちたいの。だから……チャンスをくれないかな?」
私の瞳の中に、本気の光を見出したのだろうか。カケルは、組んでいた腕をほどくと、ふーっと一つ、大きなため息をついた。
「……分かった」
「! 本当に!?」
「ああ。どうせ、俺がやったって大したものは穫れねえ畑だ。お前の好きにしてみろ。東の国のやり方ってのが、どんなもんか、見せてもらおうじゃねえか」
彼が許可を出した、その瞬間だった。
「す、すげえ! ミドリさん、いつもは気難しいカケルさんが、簡単に許可を出すなんて、あんた何者なんだ!?」
今まで黙ってやり取りを見守っていたノフーが、目をキラキラさせながら駆け寄ってきた。
「東の国の農法って、そんなにすごいのか!? 俺、手伝います! あんたの言うこと、何でも聞くから、俺にもそのやり方、教えてくれよ!」
その真っ直ぐな瞳は、昨日カケルに向けていた尊敬の眼差しと同じくらい、熱を帯びていた。
「おいおい、お前は単純だな」
カケルは呆れ顔だが、どこか面白そうだ。
「まあいい、ミドリ。こいつは馬鹿だが体力だけはある。好きに使ってやれ」
「ありがとう、カケル! それに、ノフーくんも!」
私は飛び上がりたいほどの喜びを、必死に抑え込んで、深く深く、頭を下げた。
こうして、私の異世界での新しい挑戦が、正式に幕を開けた。
目指すは、この痩せた土地での、農業革命。
ゲームの「コーサク島」で地形ごと作り変えていた、あの創造主としての情熱を、今こそ、この小さな畑に注ぎ込むのだ。
そして、私にはもう、カケルという理解者と、ノフーという頼もしい(?)助手がいる。
私の手の中には、まだ見ぬ未来を育むための、たくさんの種が眠っている。バラだけでなく、小松菜、ナス、きゅうり、かぼちゃ、そしてじゃがいも。それはまるで、私の新しい人生を、そしてこの村の未来を祝福してくれているかのようだった。
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