3 始まりのスープ、希望の種
村へ入ると、燻された煙の匂いと、乾ききった土の匂いがした。道端では、鶏にしては貧相な鳥が力なく地面をついばんでいる。
家の軒先に作られた小さな菜園はどこも元気がなく、畑では若い男女が懸命に鍬を振っていたが、その土は石ころだらけで固そうだ。すれ違う村人たちは、見慣れない格好の私を訝しげに遠巻きに見ていたが、カケルが担ぐ大きな獲物に気づくと、その目に感謝と安堵の色が浮かんだ。
村の入り口に差し掛かった時だった。
「カケル兄さーん!」
畑仕事をしていた若者の一人が、こちらに気づいて鍬を放り出し、土埃を上げながら駆け寄ってきた。私より少し年下だろうか。そばかすの残る顔に、人懐っこい笑顔を浮かべている。
「よう、ノフー。畑仕事はサボりか?」
カケルが軽口を叩くと、ノフーと呼ばれた少年は「ち、違いますよ!」と慌てて首を振り、すぐにカケルの肩に担がれた獲物に目を輝かせた。
「すげえ! 角兎じゃないっすか! しかもこんなデカいの! さすがカケル兄さん、村一番の狩人だ!」
尊敬の眼差しを隠そうともせず、少年は興奮気味にまくし立てる。カケルはそんな弟分の様子に、少しだけ口の端を緩めた。
「ああ、運が良かっただけだ。お前もそろそろ、一人で森の浅いところくらいは入れるようにならねえとな」
「うっ…頑張ります! ところで、兄さん、この人は? 見ない顔だけど……」
ノフーの好奇心に満ちた目が、私に向けられる。私はどう答えるべきか迷い、カケルの顔を窺った。
「ミドリだ。東の方から来た旅人で、仲間とはぐれたらしい。しばらく村にやっかいになるから、お前も何かと気にかけてやれ」
「へえ、そうなんすか! 俺、ノフーって言います! よろしく、ミドリさん!」
少年は屈託なく笑い、私に手を差し出してきた。その真っ直ぐな瞳に、私は戸惑いながらも「よろしくね」と小さな声で返した。
短いやり取りだったが、ノフーのカケルを見る尊敬の眼差しや、カケルの気負いのない態度から、彼がこの村の若者たちにとってリーダーであり、頼れる兄貴分なのだということが自然と伝わってきた。
「じゃあ、俺、畑に戻ります! 後で解体、手伝いに行きますね!」
ノフーは嵐のように言うだけ言うと、また土埃を上げて畑へと戻っていった。
「カケル、やったな! でかしたぞ!」
ノフーとのやり取りを見ていたのだろう。屈強そうな男が、鍬を持つ手を休めて声をかけてきた。
「おう、ロイドさん。これで数日は村の皆の腹も少しは満たせるだろ」
村人たちの切実な喜びの声が、私の胸に重く響く。この村では、日々の糧を得ることさえ決して楽ではないのだ。だとしたら、あの大きな獲物を一人で担ぐカケルは、まさに英雄ではないか。この貧しい村の命綱を、彼はその若く逞しい両腕で支えているのだ。
そんなやり取りを数回交わし、私たちは村の中心を抜けて、少しだけ小高くなった場所にある一軒の家に着いた。他の家よりも少し大きく、頑丈な丸太で組まれている。壁には動物の頭蓋骨や、大きな弓が飾られており、いかにも狩人の家といった佇まいだ。
「ここが俺の家だ。散らかってるが、まあ入れ」
カケルに促されて中へ入ると、家の中は少しひんやりとしていた。壁際には、使い込まれた木のテーブルと椅子が二脚。棚には素焼きの食器や、乾燥させた薬草の束が並んでいる。
一人暮らしなのだろうか、生活感はあるものの、物は少なく整然としていた。
「待ってろ、すぐ暖かくする」
カケルはそう言うと、部屋の中央にある暖炉に手際よく薪をくべ、火を熾してくれた。やがてぱちぱちと心地よい音が響き、炎の暖かさが、冷え切った身体にじわりと染み渡ってきた。
「とりあえず、そこに座ってろ」
カケルはそう言うと、担いでいた角兎を手際よく土間に下ろし、腰のナイフを抜いた。私は言われるがまま、暖炉に一番近い椅子に腰を下ろす。彼は慣れた手つきで獲物を捌き、皮を剥いでいく。その光景は、先ほどまでの村の様子と相まって、生きることの重みを私に突きつけてくるようだった。
しばらくして、カケルは切り分けた肉の一部を鍋に入れ、沢で汲んできた水と、棚にあった岩塩、そして乾燥ハーブを放り込んで火にかけた。やがて、ぐつぐつという心地よい音と共に、食欲をそそる香りが部屋に満ち始める。私のお腹が、ぐぅ、と情けない音を立てた。
「はは、腹も正直だな。今日はご馳走だ。俺もこんなに肉を食うのは久しぶりだからな」
カケルは笑いながら、木の器にスープを注いでくれた。茶色く濁ったスープの中には、角兎の肉と、豆のようなもの、そして根菜らしきものがごろごろと入っている。
「熱いから気をつけろよ」
差し出されたスプーンで、恐る恐るスープを口に運ぶ。
「……! おいしい……」
思わず、声が漏れた。獣の肉と聞いて少し臭みを想像していたけれど、そんなものは全くない。肉は驚くほど柔らかく、噛むほどに旨味が溢れ出てくる。
ハーブの爽やかな香りと、岩塩の優しい塩気が、素材の味を最大限に引き立てていた。
空っぽの胃に、温かいスープがじんわりと染み渡っていく。涙が出そうなくらい、美味しかった。
これが、久しぶりのご馳走。その言葉の重みが、スープの味を一層深くしていた。
夢中でスープを飲み干す私を見て、カケルは満足そうに頷いた。
「口に合ったようで何よりだ」
「うん……本当に美味しい。ありがとう、カケル」
「困ったときはお互い様だ。遠慮しないでくれ」
食事を終え、人心地がつくと、私は改めて彼のことを思った。この家は一人で住むには少し広すぎる。
「カケルは、ずっと一人でここに住んでいるの?」
私の問いに、カケルは暖炉の火に薪をくべながら、少しだけ間を置いて答えた。
「……ああ。両親は、もういないんだ」
その横顔に、一瞬、歳不相応な影が差した。
「俺が十三歳の時だ。今から5年前になる。この森で『“人喰い熊のバドア”』なんて呼ばれてる魔熊にやられた。あの森で一番やばいと言われてる化け物だ」
彼は、まるで昨日のことのように、淡々と語り始めた。
「親父とお袋は、俺を逃すために二人で化け物に立ち向かった。……俺は、茂みの中から見ていることしかできなかった」
暖炉の火がぱちり、と音を立てて爆ぜる。
「親父とお袋だけじゃねえ。これまでにも村の腕利きの狩人や、軍の兵隊が何人もそいつに挑んで、返り討ちに遭ってる。親父が死ぬ間際に、槍であいつの左目を潰したのが、せめてもの意趣返しだ。いつか俺が、親父の代わりに止めを刺してやるんだ」
その真っ直ぐな瞳には、悲しみと、それを乗り越えた先にある強い決意が宿っていた。ぶっきらぼうな優しさの奥にある、彼の強さの理由が、少しだけ分かった気がした。
「……そうだったんだ。ごめん、辛いことを聞いちゃって」
「別にいい。もう昔の話だ」
カケルはそう言うと、さっきの調子に戻って私に向き直った。
「これから、どうするんだ? 仲間のあてはあるのか?」
「……いえ、全く……」
俯く私に、カケルは少し考えるそぶりを見せた後、言った。
「なら、しばらくこの村にいればいい。東にある大きな街へ向かう商人が、またここを通りかかるかもしれない。それまでは、俺が村のまとめ役のロイドさんに話をつけてやる。あんたに森仕事は無理だろうが、何か村で手伝えることもあるだろう」
見ず知らずの私に、どうしてここまで。その答えは、聞かなくても分かった気がした。
「……いいの? 私、何もお返しできるものがないのに」
「別に、見返りを求めてるわけじゃねえよ。困ってる奴がいたら助ける。ただ、それだけだ」
その真っ直ぐな言葉が、私の胸に温かく響いた。
「……ありがとう、カケル。しばらく、お世話になります」
私が深く頭を下げると、カケルは「おう」と短く応えた。
これからどうなるか、という大きな問題がひとまず解決し安堵したが、すぐに現実的な疑問が浮かんでくる。寝る場所はどうしよう。村のまとめ役に話をつけてくれるとは言っていたけれど、泊めてもらえるような余裕のある家が、この村にあるようには見えなかった。
最悪、どこかの納屋の隅で藁にくるまって眠るくらいは覚悟しなくては。
そんな私の不安を察したのか、カケルが立ち上がった。
「寝る場所なら心配いらねえ。こっちだ」
そう言って、彼は部屋の奥にある木の扉へと向かう。私は戸惑いながらも、その後に続いた。
ぎぃ、と年季の入った音を立てて扉が開かれる。案内されたのは、六畳ほどのこぢんまりとした部屋だった。窓が一つあり、そこから差し込む月明かりが、部屋の中をぼんやりと照らしている。
壁際には簡素な作りのベッドと、小さな木の棚が置かれているだけ。でも、部屋は綺麗に掃除されていた。
「ここは……?」
「親父たちが使ってた部屋だ。俺が一人になってからは、ずっと物置代わりだったが……。ベッドは硬いが、そこらの床で寝るよりはマシだろ」
「え……!」
思わず息を呑んだ。ご両親が使っていた部屋。そんな、あまりにもプライベートで、大切な場所に、出会ったばかりの私を入れるなんて。
「だ、だめだよ! そんな大事な部屋、使えるわけない! 私は本当に、どこか隅っこで……納屋とか、そういう場所で十分だから!」
私は慌てて、何度も首を横に振った。人の好意を素直に受け取れないのは、染み付いた私の悪い癖だ。これほどまでの温かい親切を受ける資格が、今の私にあるとは思えなかった。
すると、カケルは少し困ったように眉を寄せ、やがてふーっと息を吐いた。
「空っぽのままにしておくより、誰かが使ってくれた方が、親父とお袋も喜ぶ。それに、夜は冷えるし、森から魔物が下りてくることだってあるんだ。家の外で寝せるわけにはいかねえよ」
彼の言葉は有無を言わせぬ力強さと、不器用な優しさに満ちていた。断ることなんて、もうできそうにない。
「……ありがとう。……本当に、ありがとう」
かろうじてそれだけを言うのが精一杯だった。私は俯いたまま、彼の申し出をありがたく受け入れることにした。
「ああ。……それと、これも」
カケルは部屋の隅に置かれていた、古い木のチェストに近づくと、蓋を開けて中から何かを取り出した。
「あんたのその服、この村じゃ目立つし、すぐにボロボロになる。サイズが合うか分からねえが、これを使え」
そう言って差し出されたのは、丁寧に畳まれた一揃いの衣服だった。生成り色の、柔らかな手触りの生地でできたチュニックと、くるぶしまである長いスカート。そして、厚手の生地で作られたベスト。
「これは……?」
「お袋が着てた服だ」
彼は少し照れたように、視線を逸らしながら言った。
「……もう、着る人もいないからな」
私は恐る恐る、その服を受け取った。
カケルが部屋から出ていき、一人になると、私はそっとベッドに腰掛け、受け取った服を膝の上で広げてみた。
決して豪華なものではない。でも、生地はしっかりと織られていて、とても丈夫そうだ。袖口や襟元には、花をかたどった素朴な刺繍が、いくつも施されている。きっとカケルのお母さんが自分で刺したものなのだろう。
よく見ると、スカートの裾や肘のあたりに、何度も丁寧に繕った跡があった。綻びるたびに、一針一針、大切に補修してきたことが伝わってくる。服からは、陽の光と、清潔な石鹸のような、優しい匂いがした。
その温もりに触れた瞬間、私は自分の両親のことを思い出していた。
自分で服を選ぶようになってからも、私の基準はいつも値段だった。「お小遣いの範囲でやりなさい」。母の言葉はいつもそれだけで、新しい服に気づくことすらなかった。
母から「この服、あなたに似合うと思って」なんて、愛情のこもった「お下がり」をもらった記憶もない。失望と諦めが混じった父の視線。何の感情も乗っていない母の声。私たちの間にあったのは、温かい繋がりではなく、冷たくて脆い、義務だけの関係だった。
なのに、今、私の手の中にあるのは、見ず知らずの、もうこの世にいない女性が、自分の息子や夫のために、そして自分のために、大切に着続けてきた衣服だ。この服には、家族を想う時間と、ささやかな愛情が、確かに染み付いている。
それを、息子のカケルが、私に差し出してくれた。
(温かい……)
気づけば、私の頬を、涙が伝っていた。悲しい涙ではない。寂しかった私の心に、じんわりと温かい何かが流れ込んでくるような、そんな涙だった。
私はその服を、両手で大切に抱えて、ぎゅっと抱きしめた。
この温もりを、無駄にしたくない。この優しさに、きちんと応えたい。
この世界で、今度は私が、誰かのために何かを育てるんだ。
ビニール袋の中の種だけでなく、心の中にも、確かな希望の種が芽生えた気がした。
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