おまけ2 ノフーとエリーの恋の結末
ノフーが野菜を届けた翌日の朝。
店の厨房は、いつもとは少し違う、甘くてもどかしい空気に包まれていた。
ユーユとラーラが、顔を見合わせて意味ありげに微笑んでいる。その視線の先には、店の裏口でそわそわと落ち着きなく佇むノフーとエリーの姿があった。
「いいこと、二人とも? 今度の新作スープに使う『川辺のしずく』は、このあたりの市場じゃ手に入らない、特別な薬草なの。アッシュフォードの西に広がる浅い森、その奥を流れる清流の、向こう岸にだけ自生しているらしいわ」
ユーユは、わざとらしく一枚の古い植物図鑑を開いてみせた。
「エリーの植物に関する知識と、ノフー君の腕力と護衛の腕。この二つが揃わないと、絶対に手に入らないわ。お店の未来がかかっているんだから、お願いね?」
それは、もどかしい二人の背中を押すための、あまりにも分かりやすい、優しい嘘だった。ラーラが厨房の奥から「頑張ってね、二人とも!」と無邪気に手を振る。完全に仕組まれた状況に、ノフーとエリーは顔を真っ赤にしながらも、断ることなどできず、小さな声で「…はい」と答えるのが精一杯だった。
こうして、半ば強制的に、二人は初めての共同作業であり、初めての二人きりの遠出となる、森への薬草採取へと赴くことになった。
アッシュフォードの西門を抜け、浅い森へと足を踏み入れる。そこは、カケルとミドリが戦った『惑わしの森』ほど深くはないが、それでも鬱蒼とした木々が陽光を遮り、ひんやりとした空気が漂っていた。
最初は、気まずい沈黙が続いた。二人とも、何を話していいか分からず、ただ黙々と歩くだけ。時折、木の根に足を取られそうになるエリーを、ノフーが「危ねえ!」と慌てて支え、その手が触れ合うたびに、二人は火傷でもしたかのように慌てて離れるのだった。
だが、森が深くなるにつれ、エリーが少しずつ、その専門知識を発揮し始めた。
「あ、見て、ノフー君。これは『陽だまり茸』。カサの裏が綺麗な金色なの。スープに入れると、すごく良い出汁が出るのよ」
「へえ、すげえな。俺にはただのキノコにしか見えねえのに」
エリーは、まるで自分の庭を案内するかのように、生き生きとした表情で、森の植物について語り始めた。彼女が、道端の何気ない草花の名前や効能を、目を輝かせながら説明する姿に、ノフーはいつの間にか引き込まれていた。
「エリーちゃんは、本当に物知りなんだな。なんだか、ミドリ姉ちゃんみたいだ」
「そ、そんなことないわ! ミドリさんみたいに、私、すごい力なんて……」
「力だけが、すごさじゃねえよ」
ノフーは、少し照れながら言った。
「カケル兄さんは、力と勇気で村を守ってる。ミドリ姉ちゃんは、知識と愛情で村を豊かにした。そして、エリーちゃんは、その優しさで、植物を元気にしたりする。……みんな、違うすごさを持ってるんだ。俺は、そう思うぜ」
その、朴訥で、どこまでもまっすぐな言葉に、エリーの胸は、きゅっと温かくなった。彼は、いつもこうだ。飾らない言葉で、一番欲しいものを、くれる。
やがて、二人はせせらぎの音に導かれ、目的の川辺にたどり着いた。川の水は驚くほど澄み渡り、川底の小石の一つ一つまでが見える。だが、前日に降った雨のせいか、流れはいつもより少し速く、ごうごうと音を立てている場所もあった。
「あったわ! ノフー君、見て!」
エリーが、歓声を上げた。彼女が指さす川の向こう岸、水しぶきがかかる岩陰に、露に濡れてキラキラと輝く、小さな青い花の薬草が群生している。あれが『川辺のしずく』に違いなかった。
問題は、どうやって向こう岸へ渡るかだ。少し下流に、大木が倒れてできた、天然の橋があった。表面は苔むしていて、滑りやすそうだ。
「俺が先に行く。危ねえから、エリーちゃんはここで待ってろ」
「ううん、私も行くわ。どの株が一番薬効が高いか、見分けられるのは私だけだもの」
エリーは、珍しく、きっぱりと言った。彼女の瞳には、ハーブ園の園長先生としての、確かなプライドが宿っていた。ノフーは、その真剣な眼差しに何も言えなくなり、「…分かった。絶対に俺から手を離すなよ」とだけ言って、彼女の小さな手を強く握った。
慎重に、一歩、また一歩と、丸木橋を渡っていく。ノフーの大きな手が、エリーをしっかりと支えていた。無事に向こう岸へ渡り終えると、二人はほっと息をつき、顔を見合わせて少しだけ笑い合った。
「やったわね!」
「ああ」
エリーは、目的の薬草を前に、夢中になってその選別を始めた。一番生き生きとしていて、薬効成分が凝縮されていそうな株を、丁寧に、根を傷つけないように摘み取っていく。その横顔は、真剣で、とても美しかった。
「よし、これだけあれば十分ね。さあ、戻りましょう」
エリーが満足げに立ち上がり、カゴを抱え直した、その瞬間だった。薬草採りに夢中になるあまり、彼女の足元が、川水で濡れた滑りやすい苔の上にあることに気づいていなかった。
「きゃっ!」
短い悲鳴。エリーの体が、ぐらりとバランスを崩し、為す術もなく、流れの速い川の中へと吸い込まれていった。
「エリーッ!!」
ノフーの絶叫が、森に響き渡った。彼は、一瞬たりとも躊躇わなかった。カゴを放り出し、履いていたブーツを蹴り飛ばすと、濁流の中へと、弾丸のように飛び込んでいた。
冷たい水が、全身を打ち据える。流れは、想像以上に速く、重い。だが、彼の目には、必死に水面でもがきながら、どんどん下流へと流されていく、エリーの姿しか映っていなかった。
(助ける…! 絶対に!)
彼は、カケルとの訓練で鍛え上げた、常人離れした体力と筋力で、水を掻き、エリーを追いかける。時折、川底の岩に足を取られそうになりながらも、ただひたすらに、前へ、前へと進んだ。
流木が、エリーに向かって流れてくる。
「危ない!」
ノフーは、エリーの前に回り込み、その背中で、激しい衝撃を受け止めた。鈍い痛みが走るが、構ってはいられない。ようやく、彼は、か細いエリーの腕を、その力強い手で、がっしりと掴んだ。
「しっかりしろ!」
意識が朦朧とし始めているエリーを力強く抱き寄せ、彼は岸へと向かって泳ぎ始めた。岸にたどり着き、ずぶ濡れのエリーの体を草の上へ横たえた時、彼の体力も、限界に達していた。
「エリーちゃん! しっかりしろ! 目を開けろ!」
彼は、彼女の肩を揺さぶる。だが、エリーはぐったりとしたまま、何の反応も示さない。口元からは、ごぼりと少量の水が吐き出されたが、呼吸が、ない。胸が、上下していない。
ノフーの顔から、さっと血の気が引いた。
(呼吸が…止まってる…!?)
パニックになりかけた彼の脳裏に、村の長老が、教えてくれた応急処置の知識が、雷のように蘇った。
『人が水に溺れ、息をしなくなった時はな、まず、腹の水を吐き出させる。それでも息を吹き返さぬ時は…口から、命の息を吹き込んでやるのじゃ』
(口から…息を……)
その言葉の意味を理解した瞬間、ノフーの顔が、戸惑いと羞恥で真っ赤に染まった。
(彼女の…唇に…? そんなこと、できるわけが…)
だが、彼の目の前で、エリーの唇から、急速に血の気が失われていく。その顔色は、まるで蝋人形のように青白い。
(…うるせえ! ごちゃごちゃ考えてる場合か!)
彼は、自分を叱咤した。これは、キスなんかじゃない。彼女の命を救うための、唯一の手段だ。彼女がいない世界なんて、考えられない。あの笑顔が、二度と見られなくなるなんて、絶対に嫌だ。
(エリーちゃん…ごめん…!)
彼は、心の中で謝ると、意を決して、彼女の小さな顎に手を添え、気道を確保した。そして、震える唇を、彼女の冷たい唇に、そっと重ね合わせた。
ためらいを振り払うように、彼は、自分の肺いっぱいの空気を、力強く吹き込む。一度、二度、三度と。ただひたすらに、彼女の胸が、再び命の鼓動を刻んでくれることだけを祈って。
どれくらいの時間が経っただろうか。彼の意識も遠のきかけた、その時。
「ゴホッ、ゴホッ! ゲホッ!」
エリーの体が、びくんと大きく痙攣し、激しく咳き込みながら、大量の水を吐き出した。そして、うっすらと、その瞳を開けた。
「……はぁ……はぁ……」
息が、戻った。
ノフーは、全身から力が抜けていくのを感じ、彼女の隣に、どさりと倒れ込んだ。
よかった。助かった。
その安堵感で、彼の目から、熱い涙が、一筋こぼれ落ちた。
◇
意識がはっきりとしてきたエリーが、まず目にしたのは、自分のすぐ隣で、ずぶ濡れのまま天を仰いでいるノフーの横顔だった。彼の頬を伝う一筋の涙が、夕暮れの光を浴びて、きらりと光った。
彼女は、何が起こったのかを、ゆっくりと思い出していた。川の冷たさ、息のできない苦しみ、そして、意識を失う直前に感じた、誰かの温かい唇の感触。
全てを理解した彼女の顔が、ぽっと、熟した果実のように赤く染まった。
「……」
「……」
気まずい沈黙。せせらぎの音と、鳥の声だけが、二人の間に流れていく。
やがて、エリーが、いたずらっぽく、それでいて、少しだけ震える声で、その沈黙を破った。
「……キス、しちゃったね」
その、あまりにも不意打ちの言葉に、ノフーの体が、びくんと跳ねた。彼は、顔を夕焼けよりも真っ赤に染め上げ、慌てて視線を逸らした。
「……ああ」
かろうじて、それだけを答えるのが精一杯だった。
また、沈黙が落ちる。だが、それは、以前のようなもどかしいものではなく、どこか甘酸っぱくて、くすぐったい空気に満ちていた。
エリーは、そんなノフーのうろたえぶりを見て、ふふっと、小さく笑みを漏らした。
「いつも言葉を飲み込んでしまうのに、今日はすごい方法でおしゃべりしちゃったね。…回り道ばかりの私たちには、これくらいしないと、神様が助けてくれなかったのかも。…うん、きっと、私たちらしいよ」
その、覚悟を決めたような優しい微笑みに、ノフーはごくりと喉を鳴らした。彼は、がばりと体を起こすと、エリーに向き直った。そして、その濡れた手を、両手で、力強く握りしめた。
「ああ…。でも、もう終わりだ。俺は、もうお前から逃げねえ」
彼の瞳には、迷いのない、まっすぐな光が宿っていた。
「エリーちゃん。俺は、お前が好きだ。川に流された時、心臓が止まるかと思った。お前がいない世界なんて、考えられねえ。だから……」
彼は、一度言葉を切り、ごくりと喉を鳴らした。
「俺の、そばにいてくれねえか。俺が、一生かけて、お前を守るから」
不器用で、飾り気もなくて、でも、彼の魂の全てが込められた、まっすぐな告白。
エリーの瞳から、今度は、嬉し涙が、止めどなく溢れ出した。彼女は、何度も、何度も、こくこくと頷いた。
「はい……! 私も、ノフーさんのそばに、いたいです……!」
その言葉を合図に、ノフーは、もう一度、彼女を優しく抱きしめた。そして、夕日を浴びて輝く彼女の唇に、そっと、自らの唇を、重ね合わせた。
それは、先程の、命を繋ぐための必死の行為ではない。ハーブの香りのように、どこまでも清らかで、そして、少しだけ甘くて、ほろ苦い、二人の、本当の、初めての口づけだった。
◇
数ヶ月後。『旅人の食卓』には、新しい風景が加わっていた。店の用心棒として、そして、エリーのハーブ園の力仕事担当として、アッシュフォードに滞在する時間が増えたノフーの姿だ。彼は、以前にも増してたくましく、そして自信に満ちた顔つきをしていた。
厨房では、ユーユが新しいハーブの使い方をエリーに教わり、ホールでは、ラーラが二人のデートの計画を勝手に立てては、ノフーをからかっている。
◇
ある晴れた日、ノフーは、エリーに、シルヴェストリ村から持ってきた、ひときわ大きく咲き誇る三本の美しいピンクのバラを、少し震える手でそっと差し出した。
エリーは、その完璧な美しさに、思わず息をのむ。朝露を乗せてきらめく花びらは、まるで絹織物のように滑らかで、甘く清らかな香りがふわりとあたりに広がった。
「ノフー君…こんなに、バラを私に?…。すごく、綺麗……」
エリーの感嘆の声を聞きながら、ノフーは、このバラを渡す決意をした、出発前夜のミドリとのやり取りを思い出していた。
◇
アッシュフォードへ発つ前日の夕暮れ。ノフーは一人、ミドリのバラ園の前で、腕を組んでうんうんと唸っていた。エリーへの想いは日に日に募るばかりなのに、何をどう伝えればいいのか、全く分からなかったのだ。
そんな彼の背中に、ミドリの優しい声がかけられた。
「悩んでるのね、ノフー」
「み、ミドリ姉ちゃん! いや、別に、これはその…!」
慌てて取り繕うノフーに、ミドリは悪戯っぽく微笑んだ。
「エリーちゃんへのプレゼント、決まらないんでしょう?」
図星を突かれ、ノフーは言葉に詰まった。彼は観念したように、頭をがしがしと掻きながら、顔を真っ赤にして白状した。
「……俺、エリーちゃんのことが、好きみてえなんだ。でも、何を言えばいいか、どうすりゃいいか、さっぱりで…」
その不器用で、どこまでも真剣な告白に、ミドリは「知ってたわよ」と優しく笑った。
「それなら、お花がいいわ。言葉で伝えるのが苦手なノフーの代わりに、お花が気持ちを伝えてくれるから」
そう言うと、ミドリはバラ園の中でもひときわ生き生きと咲いているピンクのバラの前に立つと、最も美しい三本を選んで、丁寧に摘み取った。
「はい、これを持って行って。このピンクのバラの花言葉はね、『しとやか』で『上品』。まさにエリーちゃんみたいでしょ?」
そして、彼女はノフーの肩をぽんと叩き、力強く続けた。
「そしてね、ノフー。一番大事なこと。三本のバラを贈るのには、『愛しています』っていう、告白の意味があるのよ。頑張って。あなたの勇気を、お姉ちゃんが応援してるわ!」
◇
ミドリの力強いエールが、今も耳の奥で響いている。ノフーは、意を決して口を開いた。その顔は、バラの花びらのように真っ赤に染まっている。
「これ…ミドリ姉ちゃんが、お前のために選んでくれたんだ。姉ちゃんが言うには、ピンクのバラには色んな意味があって…その…『しとやか』とか、『上品』とか…お前に、ぴったりだと思って…」
そこまで一気に言うと、彼は言葉に詰まり、もじもじと視線を彷徨わせた。そして、もう一度、きゅっと唇を結ぶと、今度は彼女の目をまっすぐに見つめて、続けた。
「そ、それに…! 三本のバラを贈るのは…『愛しています』っていう…告白の意味が、あるんだって…!」
不器用で、たどたどしくて、でも、彼の魂の全てが込められた、まっすぐな告白。
エリーの大きな瞳が、驚きにこれ以上ないというほど見開かれた。彼の真剣な想いが、温かい奔流となって、彼女の心に流れ込んでくる。この貴重な花を、自分のためだけに三本も。
そして、こんなにも甘く、真摯な花言葉を添えて。彼の不器用な優しさも、村を守るたくましい姿も、今、自分のために一生懸命になってくれているこの姿も、全てが愛おしくてたまらなかった。これまでの淡い恋心が、深く、揺るぎない愛情へと変わっていくのを、彼女ははっきりと感じていた。
「だから…その…いつか、村にも来てくれ。姉ちゃんの、世界一のバラ園を、お前に見せてやりてえんだ」
その言葉は、もうただの招待ではなかった。彼と共に歩む未来への、優しい誘いだった。
エリーの瞳から、嬉し涙が一筋、ぽろりとこぼれ落ちる。彼女は、人生で最高の、幸せな笑顔を浮かべると、力強く頷いた。
「うん、絶対に行くわ」
エリーは、その三本のバラを、人生で一番の宝物のように、大切に、大切に受け取った。
不器用な村の青年と、心優しいハーブ園の乙女。二人の淡い恋は、今、ようやく一つの蕾となり、たくさんの愛情に包まれて、これから、ゆっくりと、美しい花を咲かせていくのだろう。
その未来は、きっと、このハーブ園のように、どこまでも優しく、幸せな香りに満ちているに違いなかった。
これにて、「たとえこの想い届かなくても、あなたへ三本の薔薇を贈りたい 〜口下手な私にできる、精一杯の花言葉〜」は、おしまいです。 いよいよ次回作で、三部作ラストとなります。ぜひ次回作もご覧くださいm(_ _)m




