最終話 薔薇色の未来を君と
月日は、穏やかに、そして豊かに流れていった。
カケルとミドリが、夕暮れのバラ園で永遠の愛を誓い合ったあの日から、村は本当の意味で生まれ変わった。ミドリの手によって生み出された奇跡のバラは、もはやただの花ではない。それは村の誇りであり、未来を照らす希望の光そのものだった。
かつては痩せこけ、石ころだらけだった畑は、今やバラの生垣に守られ、黒々とした生命力あふれる土へと姿を変えていた。
そこでは、ミドリが持ち込んだ知識と、村人たちの汗と愛情によって、季節ごとに色とりどりの野菜がたわわに実る。カケルがバドアを討ち取ったことで森の脅威は大きく減り、男たちの狩りも以前よりずっと安全で、豊かなものになっていた。
村には子供たちの明るい笑い声が絶えず響き、すれ違う大人たちの顔には、明日の心配ではなく、今日を生きる喜びに満ちた穏やかな笑みが浮かんでいた。
ミドリの実験農園は、もはや一つの芸術品と呼ぶべき領域に達していた。原種である真紅、ピンク、クリームイエロー、紫の四色に加え、彼女の愛情と探究心が生み出した『接ぎ木』の魔法は、次々と新しい奇跡を咲かせた。燃えるような情熱を思わせるオレンジ色のバラ。はにかむ乙女の頬のように、中心から外側へ淡く色を変えるグラデーションのバラ。そして、夜明け前の空の色を閉じ込めたかのような、神秘的な青紫のバラ。その一つ一つが、訪れる者の心を奪う、生命の宝石だった。
カケルは十八歳になっていた。死の淵から生還した彼の体には、魔熊との死闘の証である傷跡がうっすらと残っていたが、その瞳には、以前にも増して深く、揺るぎない光が宿っていた。
もはやただの腕利きの狩人ではない。村の未来をその若き両肩に背負う、真のリーダーとしての風格が、その全身から滲み出ていた。
そして、その隣には、いつもミドリがいた。彼女もまた十八歳になり、少女のあどけなさを残しながらも、その眼差しには大地のような母性と、全てを優しく包み込むような落ち着きが備わっていた。二人が並んでバラ園を歩く姿は、村人たちにとって、何よりも心安らぐ、幸福な風景となっていた。
そんな、どこまでも続くかと思われた平和な日常に、ある日、一陣の新しい風が吹き込んだ。アッシュフォードの方向から土埃を上げてやってきた一頭の馬。その背に乗っていたのは、胸に侯爵家の紋章を輝かせた、凛々しい騎士だった。
「伝令! アッシュフォード侯爵様より、この村のカケル殿、並びにミドリ殿へ、お達しである!」
騎士が掲げた羊皮紙には、荘厳な封蝋が押されていた。村人たちが固唾を飲んで見守る中、カケルが緊張しながらそれを受け取る。そこに記されていたのは、驚くべき内容だった。
『隻眼の魔熊“人喰い熊のバドア”討伐の功、誠に見事である。かの魔物は、我が領軍の兵士にも少なからぬ被害を与えてきた長年の禍根であった。その功に報いるため、また、両名の結婚の儀を祝福するため、アッシュフォードへの参内を許す。ついては、一月後の満月の日、城にてささやかな祝宴を催したく思う』
侯爵からの、正式な招待状。それは、二人の功績と存在が、この領地において公式に認められたことを意味していた。村は、割れんばかりの歓声に包まれた。
その吉報が村中を駆け巡ってから数日後。まるで祝いのタイミングを見計らったかのように、あの軽やかな鈴の音が、森の小道から響いてきた。
「よう、みんな! いい風が吹いてるじゃないか!」
荷馬車の御者台からひらりと飛び降りたのは、亜麻色の髪を風になびかせた行商人、レオだった。彼の顔には、いつもの快活な笑顔が浮かんでいる。村に着くやいなや、噂好きの子供たちから全てを聞いたのだろう。彼は、カケルとミドリの前に立つと、芝居がかった仕草で大げさに手を広げた。
「いやいや、驚いた! 我らが英雄と、花の女神が、ついに領主様からのお呼び出しとは! しかも結婚だって? これは、僕の商人人生で一番の吉報だ!」
レオは自分のことのように喜び、二人の肩を力強く叩いた。そして、悪戯っぽく片目を瞑る。
「となれば、話は決まりだ。これは、ただの参内じゃない。君たちの、遅ればせながらの『新婚旅行』ってわけだ! この僕、レオが、最高の旅をプロデュースさせてもらうよ!」
彼のその言葉は、村人たちを、そして何よりカケルとミドリの心を、明るく弾ませた。レオの指揮のもと、アッシュフォードへの旅の準備は、村を挙げてのお祭りのように進められた。
レオの大きな荷馬車と、村に新しく導入された荷馬車の二台。その荷台は、村の最高の宝物で埋め尽くされていく。侯爵様へ献上するための、最も美しく咲き誇った色とりどりのバラ。
特に、ミドリが生み出した新品種の数々は、魔法の箱に収められた時のように、一本一本が綿で丁寧に包まれ、大切に木箱に納められた。
そして、もう一つの荷台には、ミドリの盟友であるユーユへの、これ以上ないほど新鮮な野菜が山のように積まれていく。朝露に濡れた小松菜、ずっしりと重い太陽かぼちゃ、そして、エリーが丹精込めて育てた、清涼な香りを放つハーブの数々。
村人たちが総出で手伝い、その荷馬車に、二人の未来への祝福と、村からの感謝の気持ちを、たっぷりと詰め込んでいった。
◇
アッシュフォードへの道中は、レオが宣言した通り、夢のような新婚旅行そのものだった。レオは、最高の野営場所を選び、狩りで捕らえた新鮮な獲物を手際よく捌き、ミドリが摘んだ野草と共に極上のシチューを作って見せた。
夜、焚き火を囲みながら、レオが語る外の世界の面白い話に耳を傾け、カケルとミドリは、これからの村の未来や、生まれてくるであろう子供たちのこと、そして、二人のささやかで大きな夢について、夜が更けるのも忘れて語り合った。その穏やかで幸福な時間は、二人の絆を、さらに強く、深く結びつけていった。
一週間の旅を終え、アッシュフォードの巨大な城門が見えてきた時、ミドリとカケルは、以前この場所を訪れた時とは全く違う、晴れやかな気持ちでその光景を見つめていた。
「さあ、お二人さん。まずは、戦いの前の腹ごしらえ…いや、祝宴の前の身支度といこうじゃないか!」
レオはにやりと笑うと、馬車を町の中心部にある、彼が懇意にしているという高級服飾店へと向けた。
「侯爵様にお会いするんだ。みすぼらしい格好じゃ、君たち自身の価値を下げることになる。最高の二人には、最高の服が必要なのさ」
レオの審美眼は確かだった。彼が選んだ服は、二人の魅力を最大限に引き出す、魔法の衣装のようだった。カケルは、森の若葉の色を思わせる、上質な生地で仕立てられた、動きやすくも気品のある礼服に袖を通した。腰に差した愛剣が、その凛々しさをさらに際立たせる。彼は、もはやただの村の青年ではなく、若き騎士そのものの風格を漂わせていた。
ミドリのために選ばれたのは、彼女が咲かせるバラの花のように、幾重にも繊細なレースが重なった、深紅のドレスだった。肩を上品に出し、ウエストをきゅっと絞ったデザインは、彼女のしなやかな肢体を美しく見せ、黒髪とのコントラストが、息をのむほどの艶やかさを醸し出している。お互いの姿を鏡で見た二人は、照れくさそうに、しかし、隠しきれない愛情に満ちた瞳で、見つめ合った。
その夜、レオが二人のために予約していたのは、もちろん、今やアッシュフォードで最も予約の取れない名店となった『旅人の食卓』だった。
「カケルさん! ミドリちゃん! よく来てくれたわ!」
店の入り口で二人を出迎えたのは、すっかり街の顔となった、太陽のような笑顔を浮かべるユーユだった。その隣では、夫であるカインが、穏やかな笑みで二人を見守っている。ミドリが持参した、山のような新鮮な野菜の贈り物に、ユーユは料理人としての目をキラキラと輝かせた。
「まあ、なんて素晴らしい野菜たち! 今夜のディナーは、急遽メニューを変更するわ! みんな、腕によりをかけて、最高の歓迎の宴にしましょう!」
ユーユの号令一下、厨房は活気に満ちた。その夜の料理は、まさに奇跡の饗宴だった。ミドリが育てた野菜と、ユーユの魔法の腕が生み出す料理の数々。二人の天才の才能が融合した一皿は、食べる者すべてを至福の頂へと誘った。
晩餐の席では、これからの事業についても、熱い話し合いが交わされた。カケルとカインが村の警備や輸送路の確保について熱心に語り合い、レオが商人ギルドとの連携を提案している間、ユーユはミドリのグラスに果実水を注ぎながら、そっと顔を寄せた。
「ねえ、ミドリちゃん」
その声は、周りの喧騒にかき消されそうなほどの囁き声だった。
「カケルさんには、もう…私たちの故郷の話、したの?」
ミドリは、一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐにこくりと頷いた。その頬は、ほんのりと赤らんでいる。
「はい、ユーユさん。全て、話しました。私のことも、あなたとの出会いのことも」
「そう、よかったわ」
ユーユは、心から安堵したように微笑んだ。
「それなら、うちの主人とも、本当の意味で秘密を共有できるわね。彼も、あなたのことを心から信頼しているから」
二人は顔を見合わせ、共犯者のように小さく笑い合った。異世界で出会った、たった二人の同郷人。その絆は、誰にも邪魔できない、温かく強いものだった。
村から、定期的に最高の野菜を『旅人の食卓』へ供給すること。そして、ユーユが開発する新しい料理に合う、特殊な野菜やハーブの栽培を、ミドリに依頼すること。二人の友情は、今や、この領地の食文化を根底から変える、巨大な力を持つビジネスパートナーシップへと昇華していた。
そして、その華やかな晩餐の片隅で、もう一つの、初々しい物語が静かに紡がれていた。今回の旅には、護衛役として、すっかりたくましくなったノフーも同行していたのだ。彼は、店の看板娘として忙しく立ち働くエリーの元へ、意を決したようにおずおずと歩み寄った。
「あの……エリーちゃん。これ、村の木で作ったんだ。君の髪の色に、似合うと思って……」
彼が差し出したのは、桜の木を丁寧に削って作った、素朴で可愛らしい花の髪飾りだった。エリーは、顔を夕焼けのように真っ赤に染め上げ、震える手でそれを受け取った。
「……ありがとう、ノフーさん。すごく、綺麗……。宝物にするね」
その囁きに、今度はノフーの顔が茹でダコになる。そんな二人を、レオが少し離れた席から、自分のことのように満足げな笑みを浮かべて、見守っていた。
翌日。人生で最も上等な服に身を包んだカケルとミドリは、侯爵邸の謁見の間に通された。上座には、アッシュフォード侯爵と侯爵夫人が、穏やかな表情で座っている。
二人が献上した、見たこともないほど美しく、芳醇な香りを放つバラの数々に、侯爵夫妻は感嘆のため息を漏らした。特に、ミドリが生み出した新品種のバラは、侯爵夫人をいたく感激させた。
やがて、侯爵が、厳かな声で口を開いた。
「カケル、ミドリ。改めて、バドア討伐の儀、見事であった。その功績、そして、このアッシュフォードに計り知れない恵みをもたらした君たちの尽力に、領主として、最大限の敬意と感謝を表する」
侯爵は立ち上がると、カケルの前に進み出た。
「よって、褒美を授ける。カケルよ、これを受け取れ」
侍従が捧げ持った盆の上には、一振りの美しい剣が置かれていた。鞘には、侯爵家の紋章が銀で刻まれている。
「そなたに、騎士爵の位を授ける。今日この時より、そなたは平民のカケルではない。騎士、カケルである」
そして、侯爵は続けた。姓を持たぬカケルのために、自らが考えたという、新しい名を授ける、と。
「そなたの強さは、森に生まれ、森と共に生きてきた証。その野生にして気高き魂に、ふさわしい名を授けよう。これより、カケル・シルヴェストリと名乗ることを許す」
シルヴェストリ――それは、「森の」「野生の」を意味する、古の言葉。彼の出自と、その揺るぎない魂を象徴する、最高の名前だった。
さらに、と侯爵は言った。
「そなたたちが暮らす、あの美しき村にも、新たな名を与えよう。村の宝であるバラと、その地を治める新たな騎士の名を冠して、これより、あの村を『バラのシルヴェストリ村』と命名する!」
騎士爵への叙任。新しい姓。そして、村への、栄誉ある命名。あまりにも大きな褒美に、カケルとミドリは感極まり、言葉もなく、ただ深々と、玉座の前に頭を垂れた。その瞳からは、熱い感謝の涙が、止めどなく溢れていた。
数日後。英雄として村に凱旋した二人を、村人たちは熱狂的に出迎えた。「シルヴェストリ卿!」「ミドリ様!」という新しい呼び名に、二人は照れくさそうに顔を赤らめたが、村の温かい空気は、以前と少しも変わってはいなかった。
その夜、カケルとミドリは、二人きりで、月明かりに照らされた自分たちのバラ園を歩いていた。夜の闇に浮かび上がる無数のバラの花々が、まるで星屑のようにきらめいている。
「すごいことになっちゃったな」
カケルが、夜空を見上げながら、ぽつりと呟いた。
「うん。本当に、夢みたい」
ミドリは、彼のたくましい腕に、そっと寄り添った。
「私たちの物語は、迷いの森から始まったのにね。それが、こんな未来に繋がるなんて、あの頃は、想像もできなかった」
「ああ。だが、俺たちの物語は、まだ始まったばかりだ」
カケルは、ミドリを優しく抱き寄せ、その唇に、そっと口づけを落とした。
「これから、この村を、もっと豊かにする。そして、お前と、これから生まれてくる俺たちの子供たちを、一生かけて、幸せにする。それが、俺の、新しい誓いだ」
「私も。あなたの隣で、この村で、たくさんの花と、たくさんの笑顔を咲かせ続ける。それが、私の幸せ」
風が、ふわりと吹き抜けた。満開のバラたちが、まるで二人の永遠の誓いを祝福するかのように、甘く、清らかな香りを夜空に解き放ち、優しく、優しく、歌っていた。
貧しかった村に咲いた、一輪の薔薇の奇跡。
五十年の孤独な人生の果てに、一皿のコロッケから始まった、温かい食卓の革命。
二つの世界で生まれた、二つの優しい物語は、今、固い絆で結ばれ、どこまでも続く、輝かしい未来へと、その一歩を、力強く踏み出したのだった。
ここまでお読みくださいまして、誠にありがとうございました。
前作「転生したら、料理スキルしか取り柄のない少女でした。得意の料理で、病弱な侯爵の息子の胃袋を掴んで幸せになります」と世界観を共有する3部作の第2部として、書いてみました。
楽しんでいただけていれば、何よりです。
次回作では、ユーユとミドリが力を合わせ、幸せな物語を作り上げていく予定です。
ぜひお読みいただければと思います!
それではまたお会いしましょう。
追伸:おまけの2話をこの後に投稿するので、そちらもよろしければ、お読みくださいm(_ _)m




