19 届いたこの想い
「……カケル?」
それは、希望というにはあまりにもか細い、幻のような動きだった。だが、ミドリはその瞬間を見逃さなかった。彼女は、ほとんど眠らずに続けていた看病の疲れも忘れ、彼のベッドの傍らに身を乗り出した。
「カケル! 分かる!? 私よ、ミドリよ!」
呼びかけに、応えはない。だが、数分後、再び彼の指先が、ほんの少しだけ動いた。
奇跡は、静かに、しかし確実に始まろうとしていた。
その報せは、すぐに村中を駆け巡った。村人たちは、固唾をのんでカケルの家の前に集まり、固く閉ざされた扉の向こうにいるであろう若き英雄の生還を、ただひたすらに祈り続けた。
そして、三日後の朝。
部屋を埋め尽くすバラの甘い香りと、窓から差し込む柔らかな朝陽の中で、カケルの瞼が、ゆっくりと、本当にゆっくりと、持ち上げられた。
長い間閉ざされていたその瞳は、最初は焦点を結ばず、ただ虚空を彷徨っていた。だが、やがて、ずっと彼の顔を覗き込んでいたミドリの姿を、確かに捉えた。
「……ミ……ドリ……?」
掠れた、ほとんど吐息のような声。だが、それは、ミドリの名を呼ぶ、紛れもないカケルの声だった。
「カケルッ……!」
ミドリの瞳から、堰を切ったように、大粒の涙が溢れ出した。
「よかった……! 目が覚めたのね……! よかった……!」
彼女は、彼の胸に顔をうずめ、子供のように声を上げて泣いた。温かい涙が、カケルの着ている寝間着に、次々と染みを作っていく。カケルは、まだ朦朧とする意識の中、自分の頬を濡らすその温かい涙の感触に、自分が生きているのだと、ぼんやりと実感していた。
カケルの目覚めは、村に、バドアを倒した時以上の歓喜をもたらした。村人たちは代わる代わる彼の見舞いに訪れ、その回復を心から喜んだ。しかし、彼の体は、魔熊との死闘で、深刻なダメージを負っていた。骨は何箇所も折れ、内臓も傷ついている。歩くことはおろか、上半身を起こすことさえままならない、長い療養生活の始まりだった。
ミドリは、献身的に彼を支えた。
彼女は、自分の畑で採れた、最も栄養価の高い野菜を選び、毎日、彼の体を回復させるための特別な料理を作り続けた。骨を強くするという根菜をじっくり煮込んだ滋養のスープ。消化が良く、体に優しいポポイモとルタオニオンのポタージュ。
そして、少しずつ固形物が食べられるようになってからは、柔らかく煮込んだ猪ボアの肉と、鉄分の多い小松菜のお粥。
その一皿一皿に、彼女の持つ知識と、そして、彼への愛情の全てが注がれていた。
カケルは、ミドリが作る、優しくて力強い味の料理を食べるたびに、少しずつ、しかし着実に、その生命力を取り戻していった。骨は繋がり、傷は癒え、失われた肉が、再びそのたくましい体に戻り始めていた。
だが、体の回復とは裏腹に、カケルの心には、晴れない霧がかかり始めていた。
彼は、気づいていたのだ。ミドリが、時折見せる、遠い目に。ふとした瞬間に浮かべる、悩ましげな表情に。その原因が、あのアッシュフォードへの旅にあることも、そして、おそらくは、あの行商人レオにあるであろうことも、彼は、本能的に察していた。
彼女が、一人になると、大切そうに、小さなベルベットの箱を見つめていることがあることも。
(……俺は、あいつに何もしてやれていない)
もどかしさが、彼の胸を締め付ける。自分は、ただベッドの上で、彼女に世話を焼かせるだけ。その間に、あの都会の男は、彼女に、自分の知らない世界と、高価な贈り物を渡したのだ。
日に日に大きくなるミドリへの想いと、同じだけ膨らんでいく、言いようのない不安。不器用な彼には、どうやって彼女の心に踏み込めばいいのか、分からなかった。
◇
あの日から、二ヶ月の月日が流れた。
村には、美しいバラが咲き乱れ、そのバラの生垣に守られた畑は、どこも黄金色の恵みで満ち溢れていた。
そして、カケルは、ついに、杖なしで自分の足で歩けるまでに回復していた。まだ全快とは言えない。だが、村の中を、自分の意思で歩き回れるだけの力は、確かに戻ってきていた。
その日の夕暮れ。
リハビリを兼ねて、ゆっくりと村を散歩していたカケルは、自分の家の裏手にある、ミドリの畑の前で、足を止めた。そして、意を決したように、そこにいたミドリに声をかけた。
「ミドリ。……お前の畑を、ゆっくりと見てみたい」
「カケル……!」
ミドリは、驚いたように顔を上げた。そして、すぐに、満面の笑みを浮かべると、彼に、そっと手を差し伸べた。
「ええ、行きましょう。私が作り上げた、私たちの、宝物を見に」
カケルは、少しだけ照れながら、その小さな手を握りしめる。ミドリに支えられながら、彼は、一歩、また一歩と、自分が眠っている間もミドリがたった一人で作り上げた、奇跡の庭園へと、足を踏み入れた。
そして、彼は、息を呑んだ。
「……すごいな。ここが……お前の畑か。……天国ってのは、本当にあったんだな」
夕暮れの、柔らかく、そして少しだけ切ない光が、庭園全体を黄金色に染め上げていた。
燃えるような真紅、はにかむようなピンク、優しいクリームイエロー、そして神秘的な紫 。それら四色の原種に加え、ミドリの『接ぎ木』が生み出した新たな奇跡が、そこにはあった 。
燃えるようなオレンジ、夕焼けの空を思わせる淡いグラデーションのバラが、見たこともない色彩の饗宴を繰り広げている 。無数の花々が最後の輝きを放つかのように咲き乱れ、甘く芳醇な香りが、あたり一面を満たしていた。
カケルは、自分の庭に咲き誇るその光景に、言葉を失い、ただ立ち尽くしていた。
ミドリは、そんな彼の横顔を、愛おしそうに見つめていた。そして、今こそが、その時なのだと、覚悟を決めた。
彼女は、「少し待ってて」と言い、カケルを椅子に座らせると、三本のひときわ大きく、美しく咲いた真紅のバラを、丁寧に切り、カケルの前にそっと差し出した。
「おかえりなさい、カケル。……快気祝いよ」
「……ああ。ありがとう」
カケルは、バラを受け取った。だが、その真剣な目は、花ではなく、ミドリの顔を、まっすぐに見つめていた。
「以前くれたピンクのバラは、『感謝』だったな」
その声は、静かだったが、確かな重みを持っていた。
「……なら、この真っ赤なやつには、どんな意味があるんだ?」
「えっ……そ、それは……」
ミドリの心臓が、大きく跳ねた。覚えていてくれた。あの、何気ないやり取りを。
「それに、なんで三本なんだ? 中途半端じゃないか。何か、特別な意味でもあるのか?」
彼の、狩人のように鋭い問いかけが、ミドリの最後の躊躇いを打ち砕いた。
核心を突かれ、彼女は狼狽えた。顔が、夕焼けよりも真っ赤に染まる。誤魔化すように、笑おうとした。けれど、その瞳からは、ぽろり、と大粒の涙がこぼれ落ちた。
「……ごめんなさい」
その声は、震えていた。
「……こんな、まだ本調子じゃないあなたに、言うべきじゃないって、思ったから……。あなたの、負担になりたくなかったから……」
涙は、もう止まらなかった。しゃくりあげながら、彼女は、この二ヶ月間、ずっと胸の内に溜め込んでいた、心のすべてを、彼にぶつけた。
「赤いバラの花言葉は、『あなたを愛しています』……! 三本のバラは、『告白』っていう意味なの……!」
夕暮れのバラ園に、彼女の、切実な声が響き渡る。
「あなたが、バドアにやられて、死んでしまうかもしれないって思った時……! 私の世界から、光も、色も、この花の香りも、全部、全部消えちゃうんだって、分かったの……!」
「あなたがいない未来なんて、いらない……! あなたがいない世界で、生きていたくない……!」
「だから……だから、お願い……! あなたが守ってくれたこの村で、あなたがくれたこの居場所で、私を……あなたのそばに、いさせて……! あなたと、一生一緒に、生きていきたいの……!」
涙ながらの、魂からの告白。
カケルは、驚きに目を見開いていた。だが、やがて、その表情が、今までミドリが見たこともないほど、優しくて、愛おしさに満ちたものへと、変わっていく。
彼は、持っていたバラをそっと地面に置くと、ミドリの震える体を、そのたくましい腕で、力強く、そして、壊れ物を抱きしめるように、優しく抱きしめた。
「……俺もだ、ミドリ」
その声は、温かく、そして、少しだけ震えていた。
「え……?」
「俺が、あの暗くて、冷たい闇の中で、ずっと見ていた光は、お前だった。ずっと、お前の声が聞こえてた。お前の声が、俺を、ここに呼び戻してくれたんだ」
彼は、少しだけ体を離すと、ミドリの涙で濡れた頬を、その不器用で、ごつごつとした指先で、そっと拭った。
「だから、ミドリ。俺と、一緒になってくれ」
「……!」
「お前が作った飯を、死ぬまで毎日、腹いっぱい食わせてくれ。俺は、お前と、お前がこの村で咲かせる未来を、この剣で、一生かけて守る」
彼は、腰に差した、ミドリから贈られた剣の柄に、そっと触れた。
「こいつがあったから。お前が投げてくれた、あのピペリの実があったから、俺は、今、ここにいる。お前が、俺を生かしてくれたんだ。……だから、今度は、俺がお前を、一生、幸せにする番だ」
最高に不器用で、最高にストレートで、そして、最高に誠実なプロポーズ。
ミドリは、涙でぐしゃぐしゃの顔のまま、人生で一番の、幸せな笑顔を浮かべた。そして、何度も、何度も、力強く、頷いた。
その肯定の仕草を合図に、カケルは、もう一度、彼女を強く抱きしめた。そして、夕日を浴びて輝く彼女の唇に、そっと、自らの唇を、重ね合わせた。
それは、たくさんの涙と、感謝と、そして、どこまでも深い愛情に満ちた、二人の、初めての口づけだった。
満開のバラたちが、まるで二人の未来を祝福するかのように、甘い香りを乗せた風に吹かれて、優しく、優しく、歌っていた。
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