表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

2/23

2 カケルとの出会い

見知らぬ森に迷い込んで、どれくらいの時間が経っただろうか。

トラックに轢かれたはずの私が目を覚ましたのは、鬱蒼とした木々が生い茂る、全く知らない場所だった。状況からして、これは巷で流行りの異世界転移というやつなのだろう。だとしたら、何か特別な力があるはずだ。


(ステータスオープン!)


私は、最後の望みを託して心の中で力強く念じてみた。

……しーん。目の前には、ただ不気味なほど生命力に満ちた森の景色が広がるだけだ。半透明のウィンドウなんて、どこにも浮かび上がってはこない。


(じゃあ、アイテムボックス!ファイアー!)


もう一度、強く念じる。

……やはり、何も起こらない。手の中に伝説の剣が現れることも、手のひらに火球が出ることもなかった。

異世界転生にありがちな特殊能力への淡い期待は、あっさりと打ち砕かれた。やっぱりな、という妙な納得と、じわじわと心を蝕んでいく絶望感があった。



太陽が真上からわずかに西へ傾き始めた頃には、私の体力はとうに限界を超えていた。

空腹で胃がキリキリと絞られるように痛み、喉はカラカラに乾ききって、まるでひび割れた大地だ。何度、剥き出しになった木の根に足を取られ、無様に転んだだろう。泥にまみれたジーンズは、もはや元のインディゴブルーを完全に失い、見るも無惨な土の色に染まっていた。


(……ダメだ、もう、一歩も歩けない)


巨大なシダのような植物の根元に、ずるずると身体を滑らせるように座り込む。背中を預けた幹は、まるで生き物のように温かく、ごつごつとした樹皮の感触が薄い服越しに伝わってきた。


見上げる木々の葉は、生命力に満ちた深い緑や、この世のものとは思えない鮮やかな緋色をしていて、その隙間からこぼれる陽光が、万華鏡のようにきらきらと地面を照らす。


美しい、と頭の片隅で思う余裕は、もう欠片もなかった。それ以上に、孤独と不安が、思考そのものを鈍らせていく。


鳥の声は相変わらず聞こえるが、そのどれもが私の知っている鳴き声とは違う、異国の旋律だ。時折、獣の低い唸り声のようなものが風に乗って聞こえてきて、そのたびに心臓が氷水で締め付けられるように凍り付く。ここは、私のいた世界じゃない。その絶対的な現実は、美しい自然とは裏腹に、容赦なく私に孤独と恐怖を突きつけてくる。


私は、胸に抱えたビニール袋を、さらに強く抱きしめた。この中には、私のささやかな夢だったバラの種と、未来の食料になるかもしれない野菜の種が詰まっている。これを失ったら、私は本当に、何もかも失ってしまう。


(誰か……誰かいませんか……)


声に出す力もなく、心の中でか細く助けを求める。でも、返ってくるのは葉が擦れ合う音と、自分の荒い呼吸音だけ。意識が、まるで濃い霧の中を彷徨うように朦朧としてきた。このまま、ここで誰にも会えずに、飢えて死んでいくのだろうか。トラックに轢かれて死ぬのと、どっちがマシだったかな……。

そんな、弱気な考えが頭をよぎった、その時だった。


ガサリ、とすぐ近くの茂みが大きく揺れた。


びくりと身体が跳ねる。心臓が喉から飛び出しそうなくらい、激しく鼓動を打った。獣だ。それも、かなり大きな。息を殺し、全身を硬直させる。どうか、どうか、気づかれませんように。

しかし、茂みから現れたのは、私の想像していたような、牙を剥く凶暴な獣ではなかった。


それは、一人の少年だった。


歳は、私と同じくらいだろうか。日に焼けた健康的な肌に、少し癖のある黒髪。私が着ているようなTシャツやパーカーではなく、なめした皮で作られたであろう軽装の鎧のようなものを身に着け、腰には無骨なナイフを下げている。そして何より目を引いたのは、その背中に背負われた、大きな弓と矢筒だった。


少年は、私とは全く違う世界の住人であることを、その出で立ちだけで雄弁に物語っていた。その視線が獲物を探すように鋭く森を射抜き、やがて木の根元でうずくまる私を捉えた。


少年が、ぴたりと動きを止める。驚いたように、わずかに目が見開かれた。その肩には、大きな獲物が担がれている。二本の長い耳、そして額から立派な一本角が生えている、うさぎによく似た奇妙な獣だった。獣の真っ白な毛皮には、まだ生々しい血が滲んでいる。

気まずい沈黙が、重くのしかかる。


どうしよう。声をかけるべき? でも、こんな森の奥で、異様な格好をした女が一人でいるなんて、どう考えても怪しすぎる。警戒されて、問答無用で襲われたら、ひとたまりもない。彼の背負っている弓矢は、決して飾りではないだろう。


でも、この千載一遇のチャンスを逃したら、私は本当にここで野垂れ死んでしまうかもしれない。

震える唇を、必死に動かす。何か、何か言わなくては。


「……あ、あの……」


かろうじて絞り出した声は、自分でも驚くほど弱々しく、ひどく掠れていた。


「こ、こんにちは……」


言った瞬間、ハッとした。


しまった! 日本語で話しちゃった!

ここは異世界かもしれないのに、言葉が通じるわけがないじゃない! 英語ですら怪しいのに、日本語なんて……!


頭が真っ白になる。どうしよう、どう訂正すれば。身振り手振り? でも、何を伝えればいい? 道に迷った? お腹が空いた? 怪しい者じゃないです? パニックで思考がぐるぐると空回りする。


すると、少年は怪訝そうな顔で私をじっと見つめ、やがて、少しだけ眉根を寄せながら、ゆっくりと口を開いた。


「……こんにちは。あんた、旅の人か?」


「…………へ?」


流暢な、日本語だった。

いや、私が日本語だと認識しているだけで、この世界の公用語なのかもしれない。でも、イントネーションも、言葉の響きも、私が知っている日本語そのものだった。

あまりの衝撃に、私はぽかんと口を開けたまま、少年を見つめ返すことしかできない。


「どうした? 俺の顔に何かついてるか?」


少年は、不思議そうに自分の頬をぺたぺたと触る。その仕草は、どこにでもいる普通の男の子と同じで、少しだけ緊張が和らいだ。


(言葉が、通じる……!)


どうして? なんで?

理由は分からない。でも、思い当たることが一つだけあった。

もしかしたら、私をこの世界に呼んだ神様か何かが、サービスで翻訳機能でもつけてくれたのだろうか。

派手なチート能力は何もなかった。ステータス画面もアイテムボックスも、伝説の剣も出てこなかった。でも、だからこそ、私は安堵のため息を深く、深く、吐き出したのだ。


言葉が通じる。


それだけで、今は十分すぎるほどの奇跡だった。助かった。心から、そう思った。もしかしたら、どんな攻撃魔法や回復魔法よりも、これが一番大事な能力なのかもしれない。これで、コミュニケーションが取れるのだから。


「あ、いえ、ごめんなさい! びっくりして……。はい、その、旅の者です」


慌てて立ち上がり、服についた土を払う。

ここで「異世界から来ました」なんて正直に言えるわけがない。頭のおかしい奴だと思われるのがオチだ。こういう時は、ありきたりな嘘をつくに限る。私の乏しいラノベ知識が、必死に警鐘を鳴らしていた。


「東の国から来た、商人の一行なんですけど……ちょっと、仲間とはぐれてしまって。道に迷って、途方に暮れていたところなんです」


我ながら、見事な言い訳だ。服装がこの辺りの人たちと全く違うことも、これで説明がつくはず。


「東の国……? そういや、見たことない格好だな。ずいぶん薄着だが、寒くないのか」


少年は私のパーカーとジーンズを興味深そうに眺めながら言った。確かに、彼の革の服に比べれば、私の服装はかなり頼りない。


「これは、私たちの国の、その、動きやすい服でして……。それより、ここは一体どこなんでしょうか?」


「ここは『惑わしの森』の西の端だ。あんた、よく一人でここまで来れたな。この森は魔物も出るし、一度迷うと二度と出られないってんで、普通の人間はまず近寄らねえんだが」


ま、魔物!?


さりげなく告げられた恐ろしい単語に、背筋がぞくりと凍り付く。やっぱり、ここはゲームや物語でしか知らなかった、ファンタジーの世界なんだ。


「そうだったんですか……。何も知らずに……」


私が青い顔をしているのを見て、少年は「まあ、もう大丈夫だ」と、ぶっきらぼうに言った。


「俺はこれから村に帰るところだ。あんたも来るといい。こんな所に一人でいたら、夜には魔物の餌になるだけだぞ」


その言葉は乱暴に聞こえたけれど、そこには確かな優しさが滲んでいた。

願ってもない申し出に、私は何度も何度も頷いた。


「! はい! ぜひ、お願いします! 助かります!」


「おう。じゃあ、ついてこい」


少年はくるりと背中を向けると、迷いのない足取りで歩き始めた。私は慌てて、大事なビニール袋を拾い上げ、その後を追う。



鬱蒼とした森の中を、少年はまるで庭を散歩するかのように、すいすいと進んでいく。私は遅れないように、必死でその背中を追いかけた。

道なき道を進んでいるように見えるのに、彼の足取りに一切の躊躇はない。木の幹に刻まれた小さな印や、苔の生え方、風の匂い。きっと、彼にしか分からない道標があるのだろう。これが、自然と共に生きる狩人の知恵なのかもしれない。


しばらく無言で歩いていたが、少し落ち着いてくると、色々と聞きたいことが湧いてきた。


「あの……助けていただいて、ありがとうございます。私、ミドリと言います。歳は、十七です」


ここはラノベのセオリー通り、苗字は隠しておこう。小林なんて、いかにも日本的な苗字は、怪しまれるかもしれない。

私の言葉に、前を歩いていた少年が少しだけ足を止め、肩越しに振り返った。


「俺はカケル。お前と同じ、十七だ」


「カケル……さん」


「さん付けなんてやめろ。気持ち悪い。カケルでいい」


「……うん、わかった⋯カケル。よろしくね」


「おう」


短いやり取り。でも、同い年だと分かったことで、ぐっと心の距離が縮まった気がした。

カケルは、また前を向いて歩き始める。その大きな背中が、さっきよりも少しだけ、頼りもしく見えた。


「カケルは、狩人なの?」


「ああ。村の連中の食い扶持を稼ぐのが仕事だ。今日は運良く、大物の『角兎つのうさぎ』が獲れた。こいつは肉も美味いが、毛皮と角がそこそこの値段で売れるんだ。まあ、狩りだけじゃ食っていけねえから、家の裏で芋や豆を育てる畑もちょこっといじってるがな」


角兎、と聞こえた。やはり、ただのうさぎではないらしい。


「すごいね。私、こんな大きな動物、初めて見た」


「そうか? 東の国には、もっとでかい獣がいるんじゃないのか?」


「え、あ、うん! もちろんいるけど、私は商人の家の出だから、あまり狩りとかには詳しくなくて……」


危ない危ない。適当に話を合わせないと、すぐにボロが出そうだ。


「ふうん。まあ、色々あるんだろうな」


カケルはそれ以上、深くは突っ込んでこなかった。詮索しない優しさなのか、それとも単に興味がないだけなのか。どちらにせよ、私にとってはありがたかった。


私たちは、そんな風にぽつりぽつりと会話を交わしながら、森の奥へと進んでいった。

カケルは、私が躓きそうになると無言で腕を掴んで支えてくれたり、飲み水になりそうな綺麗な沢を見つけると、葉を器代わりにして水を飲ませてくれたりした。ぶっきらぼうな態度の裏側に、さりげない気遣いが見え隠れする。


沢の水は、驚くほど冷たくて、ほんのり甘い味がした。乾ききった喉に命の水が染み渡っていくのを感じる。生き返る、とはまさにこのことだ。


「この森には、光る苔や、歌う花もあるんだぜ」


カケルが、ふとそんなことを教えてくれた。


「夜になると、地面一面が青白く光るんだ。まるで星空の上を歩いてるみたいで、結構綺麗だぞ。歌う花は、風が吹くと鈴みたいな音を出す。ちょっとうるさいけどな」


「すごい……! 見てみたいな」


「そのうちな」


彼の話を聞いていると、この世界への恐怖心が、少しずつ好奇心へと変わっていくのを感じた。光る苔、歌う花。まるで、私が没頭していたゲームの世界が、そのまま現実になったようだ。


どれくらい歩いただろうか。

不意に、カケルが立ち止まった。


「……着いたぞ」


彼の視線の先を追って、私は息を呑んだ。

木々の切れ間から、陽の光が差し込んでいる。そして、その向こうに、いくつかの建物が見えたのだ。


「ここが、俺たちの村だ」


そこは、森を切り開いて作られたばかり、という雰囲気が色濃く残る場所だった。まだ新しい木の匂いがそこかしこに残っており、石と丸太で組まれた家々は、どれも素朴で、どこか仮住まいのような佇まいをしている。村と呼ぶにはまだ小規模で、名前すらない開拓村。それが、私の新しい生活の舞台だった。

ご一読いただきありがとうございます!

少しでも面白かった、感動したと思った方は、励みになるので

いいねボタン押して評価してください。

これからもよろしくお願いします(^O^)/

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ