18 祈りの花、誓いの涙
夜の帳が下りた『惑わしの森』を、十本ほどの松明の光が狂おしく揺らしながら駆けていた。先頭を走るノフーの顔は、焦りと恐怖で青ざめ、土埃と汗にまみれていた。彼の脳裏には、夕暮れ前に聞いた、あの地の底から響くような魔熊の咆哮が、今も不吉にこだましている。
「カケル兄さん! ミドリ姉ちゃん!」
叫び声は、木々に吸い込まれて虚しく消える。その後ろを、村のまとめ役であるロイドを筆頭とした屈強な男たちが、斧や槍を手に、息を切らしながら続いていた。
彼らの顔にもまた、村一番の狩人であり、若きリーダーであるカケルと、村に奇跡をもたらした少女の身を案じる、深い憂いの色が刻まれている。
歌う花の谷にたどり着いた彼らが目にしたのは、まさに地獄絵図だった。
小山のように巨大な、絶命した魔熊の骸。その周囲には、激しい戦闘の跡が生々しく残り、なぎ倒された木々や抉れた地面が、死闘の凄まじさを物語っていた。そして、その魔熊の亡骸にもたれかかるようにして、血の海に沈むカケルの姿があった。
「カケル兄さんッ!!」
ノフーの悲痛な叫びが、静寂を取り戻した谷に響き渡る。
彼の傍らには、ミドリが力なく座り込み、虚ろな瞳でカケルの顔を見つめていた。彼女の服は泥と血で汚れ、頬には乾いた涙の跡が幾筋もついていたが、その瞳からは、もはや一滴の涙も流れてはいなかった。ショックが、彼女から感情という機能を奪い去ってしまったかのようだった。
男たちが、屈強な腕でカケルの体を慎重に担架に乗せる。その体はぐったりとして、まるで魂が抜け落ちた人形のようだった。左腕はあらぬ方向に曲がり、全身に刻まれた無数の裂傷からは、未だに血が滲み出ている。何よりも、その呼吸は糸のように細く、時折、苦しげな呻きが漏れるだけだった。
村への帰り道は、誰もが一言も発さなかった。ただ、松明の炎がパチパチと爆ぜる音と、男たちの荒い息遣い、そして、ミドリの心の中で繰り返される、声にならない絶叫だけが、夜の闇に満ちていた。
◇
カケルが村に運び込まれると、村全体が深い絶望と悲しみに包まれた。女たちは悲鳴を上げ、男たちは唇を噛みしめる。村の長老であるエルマばあちゃんが、震える手でカケルの体に触れ、その顔を悲痛に歪めた。
「……なんということじゃ……。全身の骨が、何本も折れておる。内腑も、ひどくやられておるじゃろう。今は、ただ、この子の生命力を信じて、祈ることしかできん……」
その言葉は、事実上の死亡宣告にも等しかった。
しかし、ロイドの妻であるマリーが、すぐに気丈に声を上げた。
「泣いている暇はありません! みんな、お湯を沸かして! 清潔な布と、薬草の準備を!」
彼女の号令一下、村の女衆が、涙を拭いながらも、献身的な看病を始めた。カケルの体は、彼の家の一番清潔なベッドに横たえられ、女たちが交代で、昼夜を問わず付き添った。
ミドリは、その輪の中に、入れなかった。
自分にできることは、何もない。薬草の知識も、怪我の手当ての仕方も知らない。ただ、カケルの家の隅で、膝を抱え、色を失った彼の顔を、見つめることしかできなかった。
私のせいだ。私が、あの場所へ行きたいなどと言わなければ。私が、もっと早く、何かできていれば。罪悪感が、冷たい鉄の爪となって、彼女の心を容赦なく引き裂いていく。
そんな、絶望に満ちた二日目の昼下がり。
ミドリの隣に、リーナちゃんが、そっと座った。彼女は、ミドリの冷たい手を、その小さな両手でぎゅっと握りしめ、そして、言った。
「ねえ、ミドリお姉ちゃん……」
「……なあに、リーナちゃん」
「お姉ちゃんのお花……。あのね、お花を飾ったら、畑の野菜さんたち、すごく元気になったよ。だからね、カケル兄ちゃんのお部屋にも、お花を飾ったら……きっと、元気になるんじゃないかな……?」
子供の、あまりにも純粋で、素朴な言葉。だが、その言葉は、暗闇の中にいたミドリの心に、一筋の光を灯した。
(……そう、だ……)
そうだ。私には、この子たちがいる。
私がこの世界に持ち込んだ、不思議な力を持つ、バラたちが。
科学的な根拠なんてない。ただの気休めかもしれない。でも、前世の常識が通用しないことは、この身をもって知っている。畑の土を浄化し、野菜たちに生命力を与えた、あの奇跡の花なら。もしかしたら。
ミドリは、弾かれたように立ち上がった。そして、一心不乱に、自分の小さな王国へと走った。
畑では、彼女の帰りを待っていたかのように、大輪のバラが、これ以上ないというほど美しく咲き誇っていた。
「お願い……! みんな、カケルを助けて……!」
涙で滲む視界の中、ミドリは、震える手で、ハサミを握りしめた。
燃えるような真紅の『クリムゾン・グローリー』。彼の、命の炎が消えないように。
少女の頬のような『プリンセス・ドリーム』。彼の、優しい心が壊れないように。
平和な微笑みを思わせる『ピースフル・スマイル』。彼の苦しみが、少しでも和らぐように。
そして、夜空の神秘を閉じ込めた『ミッドナイト・ブルー』。深い眠りの中で、彼が安らぎを得られるように。
私は、考えうる限りの花器をかき集め、カケルの部屋を、まるで秘密の花園のように、色とりどりのバラで埋め尽くした。薬草の匂いと、血の匂いが混じり合った、重苦しい空気が、バラの放つ、甘く、清らかで、そして力強い生命の香りに、ゆっくりと浄化されていく。
不思議なことだった。
部屋がバラの香りで満たされると、あれほど苦痛に歪んでいたカケルの顔が、ほんの少しだけ、穏やかになったような気がしたのだ。糸のように細かった呼吸も、心なしか、少しだけ深くなったように感じられた。
それは、ただの思い込みだったのかもしれない。
でも、ミドリにとっては、確かな希望の光だった。彼女は、それから毎日、一番美しく咲いたバラを摘み、カケルの枕元に飾り続けた。それは、彼女にできる、唯一の戦いであり、祈りだった。
◇
あの日から、三週間が過ぎた。
カケルの容態は、依然として予断を許さないままだった。熱は下がらず、意識も戻らない。だが、不思議と、悪化することもなかった。まるで、部屋に満ちたバラの生命力が、彼の命の炎が消えぬよう、かろうじて支え続けているかのようだった。
その夜も、ミドリは一人、カケルのベッドの傍らで、彼の看病を続けていた。村の皆は、疲れているだろうからと休ませ、ミドリが一人で、看病を買って出たのだ。
暖炉の火が、ぱちぱちと穏やかな音を立てている。窓の外では、満月が、静かに村を照らしていた。ミドリは、濡れた布で、カケルの汗ばんだ額を優しく拭う。痩せてしまった頬、色のない唇。それでも、バラの香りに包まれた彼の寝顔は、不思議なほど安らかに見えた。
(カケル……)
この三週間、彼女はずっと考えていた。
レオのこと。カケルのこと。そして、自分の、本当の気持ちを。
アッシュフォードでの日々は、夢のように楽しかった。レオの、洗練された優しさ、自分の知らない世界を教えてくれる知性。彼の隣にいると、胸が高鳴り、自分が特別な女の子になれたような気がした。
でも。
今、この薄暗い部屋で、死の淵をさまようカケルの手を握っていると、レオへのときめきが、まるで遠い昔の、色褪せた思い出のように感じられた。
代わりに、胸を満たすのは、もっと深く、もっと切実で、そして、どうしようもなく温かい感情だった。
彼に、ただ、生きていてほしい。
また、あのぶっきらぼうな笑顔で、私の名前を呼んでほしい。
そのためなら、私は、何だってできる。
レオがくれたのは、私を美しく飾ってくれる「髪飾り」。
カケルがくれたのは、私を危険から守ってくれる「お守り」。
レオが、どこまでも輝く、太陽のような人なら。
カケルは、全てを、黙って受け止めてくれる、大地のような人だ。
太陽の眩しさに、焦がれる気持ちは、確かにあった。
でも、私が本当に帰りたかったのは、根を張り、命を育むことができる、この温かい大地だったのだ。
答えは、もう、出ていた。
その時だった。
眠っていたカケルの唇が、かすかに、動いた。
「……ミドリ……」
か細い、うわ言だった。
私は、はっと息を呑み、彼の口元に耳を寄せた。
「……逃げ……ろ……」
「……早く……森から……」
その、途切れ途切れの言葉を聞いた瞬間。
ミドリの堪えていた涙腺が、完全に決壊した。
(……ああ……ああ……!)
こんなになっても。
意識のない、夢の中にいても、あなたは、私のことを……。
私を、守ろうとしてくれているんだ。
ありがとう。
本当に、ありがとう。
込み上げてくる感情を、もう、抑えることはできなかった。
私は、彼の冷たい手を自分の頬に押し当て、声をあげて泣いた。
それは、悲しい涙ではなかった。
生まれて初めて知った、誰かに、心の底から愛されているという、温かくて、どうしようもなく幸せな、感謝の涙だった。
ミドリは、その夜、一晩中泣き明かした。
そして、夜が明ける頃、ようやく泣き止んだ。
その瞳には、もう、迷いの色は、一片もなかった。あるのは、愛する人を支え、共に未来を歩んでいくという、夜明けの空のように、どこまでも澄み切った、強い決意だけだった。
◇
それから、さらに一週間が過ぎた。
約束の二ヶ月が、やって来たのだ。
その日の昼下がり、村の入り口に、あの軽やかな鈴の音が響いた。行商人レオが、約束通り、村へとやってきた。
彼は、ミドリとの再会と、彼女からの答えに、胸をときめかせながら、馬車を村へと進めた。そして、カケルの家の裏手にある、ミドリの庭園に目を向けた瞬間、息を呑んだ。
「……なんだ、これは……」
以前見た時よりも、さらに、庭園は、その美しさと生命力を増していた。
真紅、白、黄、紫の四色に加えて、見たこともない、燃えるようなオレンジ色のバラや、夕焼けの空を思わせる、淡いグラデーションのバラが、新たに咲き誇っている。接ぎ木によって生まれた、新しい奇跡の花々だった。
「ミドリちゃん、君は本当に……」
レオが、感嘆のため息をつきながら馬車を降りると、家の戸口から、ミドリが、静かに姿を現した。
その姿を見て、レオは、はっとした。
彼女は、この二月で、驚くほど痩せていた。だが、その頬はこけているものの、瞳の奥には、今まで見たこともないほど、強く、そして、静かな光が宿っていた。それは、過酷な試練を乗り越えた者だけが持つ、魂の輝きだった。
「レオさん。……来てくれたのね」
「ああ、約束だからね。……それより、君、ずいぶん……」
「少し、色々あって」
ミドリは、力なく微笑むと、レオを、村の入り口近くにある、大きな切り株の椅子へと促した。
二人は、向かい合って座る。ミドリは、まず、深々と頭を下げた。
「レオさん。アッシュフォードでは、本当に、お世話になりました。あなたのおかげで、私は、素晴らしい経験をすることができました。それに、同郷の友と巡り会うこともできた。心から感謝しています」
「いや、礼を言うのはこっちの方さ。君のおかげで、俺も大儲けさせてもらったしね」
レオは、いつものように、軽口を叩いてみせた。だが、ミドリの、あまりにも真剣な表情に、彼もまた、これから告げられる言葉の重さを、覚悟した。
ミドリは、懐から、小さなベルベットの箱を取り出した。レオが、彼女に贈った、あの銀細工の美しい髪飾りだ。そして、その隣に、今しがた、庭で摘んできたばかりであろう、一輪の、大輪の白いバラを、そっと置いた。
「レオさん。あなたの気持ち、本当に、本当に、嬉しかったです。生まれて初めて、あんなに素敵な言葉をかけてもらって、宝物をもらって……。私の心は、舞い上がりました」
彼女は、その二つを、レオの前に、丁寧に差し出した。
「でも、ごめんなさい。この髪飾りは、受け取れません。そして、あなたの気持ちにも、応えることはできません」
その声は、震えていなかった。どこまでも、真っ直ぐで、誠実な響きを持っていた。
「一緒に旅をしたときに、花言葉の話をしましたよね。この白いバラの花言葉は、『深い尊敬』。私は、あなたのことを、一人の友人として、心から尊敬しています。だからこそ、嘘はつけない」
彼女は、顔を上げ、レオの目を、まっすぐに見つめた。
「私には、命を懸けて守りたい人がいます。彼が今、この村で生死の境をさまよっている。彼が、ただ、生きてくれること。それが、今の私のたった一つの望みなんです。だから、ごめんなさい」
レオは、何も言わなかった。
ただ、ミドリの、その揺るぎない瞳を見つめていた。
そして、彼女の背後にある、カケルの家の方へ、静かに視線を移した。
全てを、理解した。
彼は、ふう、と一つ、長い息を吐いた。
その顔には、失恋の痛みはあったが、不思議と、悔しさや、怒りの色はなかった。
「……そうか」
彼は、差し出された髪飾りの箱には触れず、代わりに、その隣に置かれた、一輪の白いバラを、そっと手に取った。
「君が好きになった男は、命を懸ける価値のある、いい男なんだな」
その言葉は、潔く、そして、どこまでも優しかった。
「分かったよ、ミドリちゃん。君の気持ち、よく分かった。……辛い時に、すまなかったな」
「ううん……」
「これからは、商人として、そして、一人の友人として、君と、この村の力にならせてほしい。何か必要なものがあれば、いつでも言ってくれ。俺の馬車が、すぐに、なんだって運んでくるから」
それは、レオが、一人の男として、大きく成長した瞬間だった。
ミドリの瞳から、一筋、涙がこぼれ落ちた。
「……ありがとう、レオさん」
こうして、ミドリの、淡く、切ない初恋は、終わりを告げた。
だが、その代わりに、彼女は、この世界で、また一人、かけがえのない、心強い友人を得たのだった。
そして、その数日後。
まるで、ミドリの祈りと、レオの友情が、天に通じたかのように。
一月近くも、暗い闇をさまよい続けていたカケルの瞼が、ほんの、ほんのわずかに、ぴくりと動いたのを、ミドリは見逃さなかった。
奇跡は、今、まさに始まろうとしていた。
ご一読いただきありがとうございます!
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