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【完結】3部作第2部  たとえこの想い届かなくても、あなたへ三本の薔薇を贈りたい 〜口下手な私にできる、精一杯の花言葉〜  作者: 坂道 昇


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17 隻眼の魔熊、バドア

「グルオオオオオオオオオオオオッッッ!!!」


咆哮。

それは、もはやただの威嚇ではなかった。大気を震わせ、木々の葉をざわめかせ、私の鼓膜を内側から突き破らんばかりの、純粋な破壊の意思そのものだった。全身の毛が逆立ち、血液が、一瞬で氷に変わったかのように冷たくなる。


(……う、そ……)


足が、地面に縫い付けられたように動かない。逃げなければ。そう頭では分かっているのに、体は鉛のように重く、指一本、動かすことさえできない。腰が抜け、その場にへたり込みそうになるのを、なけなしの理性だけで必死に堪える。これが、本物の『死』を前にした時の、生物としての絶対的な恐怖。


「ミドリ! 逃げろッ!!」


カケルの、張り裂けんばかりの叫び声が、私の耳を打った。


彼は、私の金縛りに気づくと、一瞬だけ、苦渋に満ちた表情で私を振り返った。だが、次の瞬間、その瞳には鋼の決意が宿っていた。彼は、私の前に立ちはだかるように移動すると、ゆっくりと、腰に差した真新しい剣を抜き放った。


シュン、という澄んだ音と共に、夕暮れの赤い光を反射した刃が、迫りくる夜の闇に一筋の美しい光跡を描く。それは、私が彼に贈った剣。彼自身と、この村を守るための、誓いの剣だった。


その背中が、今、私の知るどんな壁よりも大きく、頼もしく見えた。十七歳の、まだ少年と青年の狭間にいるはずの彼の背中が、この世の全ての理不尽から私を守ろうとする、絶対的な盾のように思えた。


「お前の相手は、俺だ、バドア……!」


カケルが、低い声で吼える。その声には、恐怖の色など微塵もなかった。あるのは、長年燻らせてきた憎悪の炎と、愛しい者を守り抜こうとする、揺るぎない覚悟だけだった。


魔熊は、そんなカケルの覚悟を嘲笑うかのように、鼻を鳴らした。そして、その巨体を信じられないほどの俊敏さで躍らせ、カケルへと突進した。


ドッ、ドッ、ドッ、ドッ!


地響きが、私の足元から這い上がってくる。それは、もはや獣の走りではなかった。一つの巨大な岩塊が、圧倒的な質量と速度を持って、全てを薙ぎ払わんと迫ってくるかのようだった。


「ハアッ!」


カケルは、その突進を真正面から受け止めようとはしない。彼は狩人。自分が力で劣るときに、その相手をどう仕留めるかを、その体と魂に刻み込んでいる。彼は、突進を紙一重でひらりとかわすと、すれ違いざまに、バドアの脇腹を長剣で浅く切り裂いた。


ギャンッ!


甲高い悲鳴と共に、バドアの黒い毛皮から、鮮血が迸る。しかし、傷は浅い。分厚い脂肪と筋肉が、致命傷を阻んだのだ。


傷の痛みよりも、獲物を取り逃がしたことへの怒りが勝ったのだろう。バドアは、さらに凶暴性を増してカケルに襲いかかる。薙ぎ払われる剛腕、大地を砕く踏みつけ。その一つ一つが、即死級の威力を持っていた。


カケルは、森の木々を、岩を、巧みに利用しながら、バドアの猛攻を捌いていく。その動きは、まるで風と踊る木の葉のようにしなやかで、美しいとさえ思えた。時折、バドアの攻撃の隙を突いて、的確に剣を閃かせ、少しずつ、しかし着実にダメージを与えていく。


キィン!


剣と爪がぶつかり合い、夜の森に甲高い金属音が響き渡る。飛び散る火花が、二人の死闘を、一瞬だけ鮮やかに照らし出した。


(すごい……)


私は、その光景を、ただ、呆然と見つめることしかできなかった。

カケルの剣技は、騎士のような洗練されたものではない。だが、そこには、自然と共に生き、獣と対峙し続けてきた者だけが持つ、野生の勘と、経験に裏打ちされた、揺るぎない強さがあった。


彼の一挙手一投足が、私を守るためのものなのだと、痛いほどに伝わってくる。

その事実が、私の凍り付いていた心を、ゆっくりと溶かし始めた。そして、溶け出した心の隙間から、熱いものが、込み上げてくる。


(……なんで……)


なんで、あなたは、そんなに強いの。

なんで、あなたは、私のために、命を懸けてくれるの。

私がこの村に来るまで、あなたは、たった一人で、この憎しみと向き合ってきたはずなのに。


私の瞳から、恐怖からではない、熱い涙が、ぽろぽろと溢れ出した。


この世界に来てから、ずっと、守られてばかりだった。カケルに、ノフーに、村のみんなに、そして、ユーユさんに。私は、ただ、自分の持っていた知識を少しだけ使っただけ。それだけで、みんなが私をすごいと言ってくれた。でも、本当にすごいのは、この過酷な世界で、歯を食いしばって、毎日を懸命に生きている、この人たちの方じゃないか。


こんなにも真剣に、私のことを護ってくれる人が、考えてくれる人が、今までの人生にいただろうか。


いや、いない。


父親の、失望と侮蔑が混じった視線。母親の、何の感情も乗っていない、義務的な言葉。あの息の詰まる家では、誰も、私のことなんて見ていなかった。


でも、彼は違う!


今、この瞬間、カケルは、自分の命を盾にして、私という存在を、全身全霊で肯定してくれている。

その事実が、私の胸を、甘く、そして、どうしようもなく切なく、締め付けた。


(祈るだけじゃ、ダメだ……!)


涙を、手の甲で乱暴に拭う。

彼が、私のために戦ってくれているのに、私が、ただ泣いて見ているだけでいいはずがない。私に、できることはないの? この状況を、打開できるような、何か……!


私は、必死に頭を働かせた。

私の武器は、剣でも、魔法でもない。私が持っているのは、農業高校で学んだ、植物に関する知識。そして、バラの種と一緒に、この世界に持ち込んだ、数々の野菜の種。

それと、アッシュフォードで、ユーユさんが別れる時に、お守り代わりにと持たせてくれた、小さなスパイスの袋。


(スパイス……そうだ!)


私の脳裏に、アッシュフォードの『旅人の食卓』で、ユーユさんが熱っぽく語っていた言葉が蘇る。


『料理は、化学なのよ、ミドリちゃん。スパイス一つで、肉の臭みを消したり、逆に風味を際立たせたりできる。使い方次第で、薬にも、毒にもなるの』


ユーユさんがくれた袋の中には、確か、ピペリの実が入っていたはずだ。この世界における、胡椒のような存在。あの、鼻にツンとくる、刺激的な香り。もし、あの刺激を、嗅覚が人間より何倍も鋭い熊の、鼻や目に叩きつけたら……?


(……目潰しに、なるかもしれない!)


それは、あまりにもか細い、希望の糸だった。だが、今の私には、それしか縋るものがない。



時を同じくして、村では、異変を察知した若者たちが、武器と松明を手に、森の入り口に集結していた。


「今のは……! 間違いない、バドアの咆哮だ!」


最初に咆哮を聞きつけたノフーが、血相を変えて叫んだ。その声は、もはやただの少年のものではなく、仲間を案じる戦士の悲痛な叫びだった。


「カケル兄さんと、ミドリ姉ちゃんが、森へ行ったまま、まだ戻ってきていない! 『歌う花』の谷がある、西の方角だ!」


「まさか……!」


その場にいた村の若者たちの顔から、さっと血の気が引いていく。


「ロイドさん!」


ノフーは、村のまとめ役であるロイドの家へと駆け込んだ。


「ロイドさん! バドアだ! カケル兄さんたちが!」


その切羽詰まった叫びに、ロイドは即座に状況を理解した。彼は、家にいた屈強な男たち数人に鋭く声をかけると、壁にかけてあった斧と松明を手に、ノフーを先導させて夜の森へと飛び出していった。



戦いは、既に三十分以上も続いていた。


夕日は沈みはじめ、森は夜の帳に覆われ始めていた。

カケルの剣は、何度もバドアの分厚い毛皮を切り裂き、その巨体は、びっしりと切り傷に覆われている。だが、そのどれもが、致命傷には至っていない。逆に、カケルの体力は、目に見えて消耗していた。肩で荒い息を繰り返し、額からは、玉のような汗が噴き出している。


そして、ついに、恐れていた瞬間が訪れた。


後方へ跳躍し、バドアとの距離を取ろうとしたカケルの足が、剥き出しになった木の根に、不意に絡め取られた。


「しまっ……!」


ほんの一瞬の、体勢の崩れ。だが、このレベルの戦いにおいて、その一瞬は、永遠にも等しい時間だった。

バドアは、その千載一遇の好機を、見逃さなかった。


「グガァッ!」


短い雄叫びと共に、その剛腕が、薙ぎ払うように、カケルへと振り下ろされる。それは、もはや回避不能の一撃だった。


カケルは、とっさに長剣を盾のように構え、迫り来る死の一撃に備えた。


キィンッ!


甲高い金属音と共に、長剣が衝撃に耐えきれず大きくしなる。だが、その防御も虚しく、残った衝撃の全てが、彼の体を打ち据えた。


ゴシャッ!!!


鈍い、骨が砕ける音が、夜の森に響き渡った。

カケルの体が、まるで木の葉のように、いとも容易く宙を舞う。そして、数メートル先の、巨大な木の幹に、背中から叩きつけられた。


「ぐふっ……!」


カケルの口から、大量の血が、ごぼりと吐き出された。ミドリから贈られたばかりの長剣が、手から滑り落ち、カラン、と虚しい音を立てて地面に転がる。


「カケルッ!!!!」


私の、絶叫が響き渡った。


(……ああ……)


目の前が、真っ暗になる。

嘘だ。そんな。

あんなに、強かったのに。あんなに、頼もしかったのに。


バドアは、もはや抵抗できなくなった獲物を前に、勝利を確信したのだろう。カケルを嬲り殺しにするつもりなのか、急いでとどめを刺そうとはせず、四つ足で、ゆっくりと、倒れ伏すカケルへと近づいていく。その潰れた左目が、まるで嘲笑っているかのように、醜く歪んでいるように見えた。


(助けたい。助けなきゃ)


祈るだけじゃ、ダメ。


動かなきゃ。


私は、懐に忍ばせていた、ユーユさんからのお守りの小袋を、震える手で握りしめた。中には、硬いピペリの実が入っている。


(やるしかない……!)


私は、息を殺し、音を立てないように、ゆっくりと立ち上がった。そして、バドアの死角になる、岩陰を伝うようにして、その巨体へと、回り込むように接近していく。


心臓が、喉から飛び出してしまいそうなくらい、激しく鼓動を打っている。一歩、足を踏み出すごとに、乾いた落ち葉が、パリッパリッ、と心臓に悪い音を立てた。


どうか、気づかれませんように。


どうか……!


バドアの意識は、完全に、目の前のカケルに集中していた。その姿は、私に対して、あまりにも無防備だった。

距離、およそ五メートル。

これなら、届く!


私は、袋から、ありったけのピペリの実を、手のひらに取り出した。

そして、野球のピッチャーのように、大きく腕を振りかぶり、全身のバネを使って、それを、バドアの顔面めがけて、全力で投げつけた。


「いっけえええええええええええっ!!!」


私の絶叫と共に、十数粒の小さな黒い弾丸が、夜の闇を切り裂いて飛翔する。

そのうちの数粒が、狙い過たず、バドアの爛々と輝く右目と、濡れた鼻先に、正確に命中した。


「ギッ……ギャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッッッ!!!」


その瞬間。


森全体が、震えた。

バドアの巨体が、まるで巨大な赤子のように、苦痛にのたうち回った。目と鼻という、最も敏感な急所を襲った、強烈な刺激。それは、剣で斬られるよりも、遥かに耐えがたい苦痛だったのだろう。

彼は、前足で顔をめちゃくちゃに掻きむしり、意味もなく地面に頭を何度も叩きつけ、巨体を痙攣させている。


その、千載一遇の好機。


血の海に倒れ伏していたカケルの目が、カッと、見開かれた。

彼は、朦朧とする意識の中、ミドリの叫び声と、バドアの尋常ではない苦しみようを、確かに捉えていたのだ。


(……ミドリが……作ってくれた、隙……!)


彼は、最後の力を振り絞るように、地面に落ちていた長剣を、その震える手で、拾い上げた。そして、ふらつく足で、ゆっくりと立ち上がる。

全身の骨が、軋むように痛む。意識が、何度も遠のきそうになる。


だが、彼の心を支えていたのは、ミドリを守るという、ただ一つの想い。そして、長年、この胸に燻らせてきた、両親の仇を討つという、燃えるような執念だった。


「……う……おおおおおおおおおおおおおおっっっ!!!」


獣のような雄叫びを上げ、カケルは、大地を蹴った。

苦しみでのたうち回る、バドアの、がら空きになった、喉元へ。

渾身の力を込めて、ミドリから贈られた剣を、深く、深く、突き立てた。


ズブリ、という、肉を貫く、生々しい感触。


バドアの巨体が、びくん、と大きく痙攣した。

その右目に宿っていた、憎悪の赤い光が、まるで、蝋燭の火が消えるように、すうっと、消えていく。


そして。

小山のような巨体は、地響きを立てて、ゆっくりと、横ざまに倒れ伏した。


……静寂が、森を支配した。



死闘は、終わったのだ。


「……はぁ……はぁ……ミドリ……」


カケルは、倒れたバドアの体にもたれかかるようにして、かろうじて立っていた。彼は、血塗れの顔で、私の方を振り返ると、安心したように、ふっと、力なく笑った。


「……助かった……ぜ……」


それが、彼の、最後の言葉だった。

彼の体から、完全に力が抜け、その場に、崩れるように、倒れ込む。


「カケルッ!!!!」


私は、彼の元へ駆け寄った。

その体は、ぐったりとして、ぴくりとも動かない。


「嫌……! 嫌よ、カケル! 目を開けて! ねぇ!」


私が、彼の体を揺さぶっても、返事はない。ただ、その口元に浮かんだ、安らかな笑みだけが、あまりにも、悲しかった。


その時だった。


「カケル兄さーん!」


「ミドリ姉ちゃーん!」


茂みの向こうから、松明の明かりと共に、ノフーとロイドたちの、必死な声が聞こえてきた。

援軍が、ようやく、到着したのだ。


「みんな! こっちよ! カケルが……! カケルが……!」


私の、涙に濡れた絶叫が、勝者も、敗者もいなくなった静寂の谷間に、いつまでも、いつまでも、響き渡っていた。

ご一読いただきありがとうございます!

思った以上に読んでくださる方がいて、とても嬉しいです。

もっと楽しんでもらえるように頑張りたいと思います。

今後の励みになりますので、ぜひページ下のいいねボタンで応援してください。

よろしくお願いします(^O^)/

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― 新着の感想 ―
>力で劣る相手を、どう仕留めるかを、その体と魂に刻み込んでいる。 カケルの方が熊より力強いの?
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