16 凱旋と、森の奥に潜む絶望
アッシュフォードでの、夢のように過ぎ去った数日間。その全てを胸いっぱいに抱えて、ミドリとノフーは、村へと続く長い、長い帰り道へと、歩みを進めていた。
新しく手に入れた荷馬車は、ロバの軽快な足取りに合わせて、石畳の道を心地よく揺らす。その荷台には、村の未来を豊かにする鉄の農具、上質な塩、色とりどりの糸、そして袋いっぱいの干し果物が、希望の重みとなってずっしりと積まれていた。
「すげえなあ、ミドリ姉ちゃん。俺たち、本当に村に帰れるんだな」
御者台に座るミドリの隣で、ノフーが感慨深げに呟いた。その顔には、ここへ来た時のような緊張や気後れはなく、都会の空気に少しだけ慣れた、少年らしい自信が満ちている。新しいシャツとズボンも、すっかり体に馴染んでいた。
「当たり前じゃない。村は、私たちの帰る場所なんだから」
ミドリは、優しく微笑んだ。彼女の心の中には、ユーユとの魂の邂逅、ノフーの目覚ましい成長、そして、レオからの胸を焦がすような甘い告白が、まだ鮮やかな熱を持って渦巻いている。
その全てが、彼女の世界を、一夜にして何倍も広く、そして複雑なものへと変えていた。
◇
馬車が村の入り口に差し掛かった時、最初にその姿に気づいたのは、広場で遊んでいたリーナちゃんだった。
「あ! ノフー兄ちゃんだ! ミドリお姉ちゃんも!」
そのか細くも、喜びにはちきれんばかりの声が、合図だった。静かだった村が、一瞬にして、歓喜のるつぼと化す。
「おおっ! 帰ってきたぞ!」
「無事だったか!」
畑仕事をしていた大人たちが鍬を放り出し、家々から女たちが飛び出してくる。村人たちが総出で、まるで英雄の凱旋を迎えるかのように、二人の乗る馬車を取り囲んだ。
「ただいま、みんな!」
ノフーが、今まで出したことのないような、誇らしげな声で手を振る。その腰には、初めて手にした自分の剣が、確かな重みを持って輝いていた。
村人たちの視線は、すぐに馬車の荷台に積まれた、山のような物資に注がれた。
「なんだ、この荷物は!?」
「鉄の鍬先だ! しかも、こんなにたくさん!」
「この塩の袋を見てみろ! これだけあれば、冬も越せるぞ!」
ロイドを筆頭とした男たちが、子供のようにはしゃぎ、ミドリとノフーの肩を力強く叩く。女たちは、色とりどりの糸や、袋いっぱいの干し果物に、嬉しそうな悲鳴を上げた。
その歓喜の輪の中心で、カケルが一人、静かに立っていた。
彼は、弓を背負い、腕を組んで、少し離れた場所からその光景を眺めていた。その表情は、いつもと変わらない、ぶっきらぼうなものだったが、その瞳の奥には、二人の無事を心から喜ぶ、深い安堵の色が浮かんでいるのを、ミドリは見逃さなかった。
ミドリと、カケルの視線が、賑やかな喧騒を突き抜けて、まっすぐに交差する。
ミドリは、はにかむように微笑み、小さく頷いた。カケルもまた、ほんの一瞬だけ、その口元にかすかな笑みを浮かべ、そして、すぐにそっぽを向いてしまった。
その夜、村では再び、盛大な宴が開かれた。
アッシュフォードで仕入れてきた上質な塩で味付けされた猪の丸焼き。干し果物を浮かべた甘い果実酒。そして、ミドリが腕によりをかけて作った、都会の味を再現したじゃがいものポタージュ。
村人たちは、未来への希望を語り合い、笑い、歌った。その幸福な光景の中心に、ミドリとノフーはいた。
◇
宴の熱気が冷め、村人たちがそれぞれの家路についた後。
村は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。カケルの家では、二人分の影が、暖炉のオレンジ色の光の中でゆっくりと揺れている。ぱちぱちと穏やかに薪が爆ぜる音だけが、心地よい静寂に響いていた。
「……みんな嬉しそうだったね。」
ミドリがほうっと息をつくと、カケルも「ああ」と短く応え、どかりと椅子に腰を下ろした。
「……カケル」
不意に、ミドリが真剣な声で彼を呼んだ。カケルが訝しげに顔を上げると、彼女は意を決したように、部屋の隅に立てかけてあった長い包みを手に取り、彼の前にそっと差し出した。それは、アッシュフォードでの買い物の後、ずっと大切に持っていた、あの雄々しい長剣だった。
「これ、あなたに」
「……は? 俺に?」
カケルは、戸惑ったように、ミドリの手の中にある、布に包まれた武骨な塊と、ミドリの顔を、交互に見比べた。
「アッシュフォードで、あなたのことを考えていたら、どうしても、これを贈りたいって思ったの。あなたは、いつも、この村を、みんなを、守ってくれているから。だから、あなた自身を守ってくれるものが、必要だって思った」
ミドリが、ゆっくりと布を解いていく。暖炉の光を浴びて、鈍い輝きを放つ、鋼の刃が姿を現した。華美な装飾はない。だが、その刀身に宿る、実用一辺倒の、揺るぎない強さと美しさは、まるでカケルそのもののようだった。
カケルは、言葉を失っていた。ただ、目の前の剣に、そして、それを差し出すミドリの、どこまでも真剣な瞳に、釘付けになっていた。
「……ばか、野郎」
ようやく絞り出した声は、ひどく、掠れていた。
「高かっただろ?そんな大金……村のために使えって言ったろ。なんで、俺なんかのために……」
「村のためよ」
ミドリは、きっぱりと言った。
「あなたが、無事でいてくれることが、この村にとって、一番大事なことだから。だから、受け取って。これは、私からだけじゃない。村のみんなからの、感謝の気持ちでもあるの」
カケルは、しばらく何も言えず、ただ、唇をきつく結んでいた。やがて、彼は、震える手で、その剣を受け取った。ずしりと重い。その重みは、ミドリの、そして村人たちの、想いの重さだった。
彼は、鞘から、ゆっくりと剣を抜いた。月光を反射した刃が、彼の顔を青白く照らし出す。その瞳には、今まで見たことのない、深い感動の色が浮かんでいた。
「……ありがとう、ミドリ」
ようやく、それだけを言うと、彼は、その剣を、まるで世界で一番の宝物のように、強く、強く、抱きしめた。
その、子供のように無防備な喜びように、ミドリの胸は、春の陽だまりのように、どこまでも温かくなっていった。
◇
村に帰ってきてから、数週間が過ぎた。
ミドリがもたらした富と知識によって、村の生活は、目に見えて豊かになっていた。畑は青々と生い茂り、バラの生垣は村全体を美しく彩っている。村人たちの顔には、かつてないほどの明るい笑顔が溢れていた。
だが、ミドリ自身の心には、晴れない霧がかかったままだった。
彼女は、日中は村人たちと笑い、畑仕事に精を出し、完璧な笑顔を振りまいていた。しかし、一人になると、決まって、物思いに耽るようになったのだ。
レオからの、熱烈な告白。
そして、彼のくれた、銀細工の美しい髪飾り。それは、ミドリの部屋の、古い木のチェストの奥に、そっとしまわれたままだった。
カケルへの、日に日に大きくなっていく、温かい想い。
彼の、ぶっきらぼうな優しさに触れるたび、ミドリの心臓は、甘く、そして少しだけ切なく、きゅっと音を立てる。
太陽のように眩しいレオと、大地のように温かいカケル。二人の間で、彼女の心は、振り子のように、激しく揺れ動いていた。
そんなミドリの心の変化に、村の誰もが気づいていなかった。ただ一人、カケルを除いては。
彼は、気づいていた。ミドリが、時折見せる、遠い目。ふとした瞬間に浮かべる、悩ましげな表情。その原因が、あのアッシュフォードへの旅にあることも、そして、おそらくは、あの行商人レオにあるであろうことも、彼は、本能的に察していた。
だが、彼は、何も聞けなかった。不器用な彼には、どうやって彼女の心に踏み込めばいいのか、分からなかったのだ。
そんなある日の夕暮れ。
畑で一人、夕日に染まるバラを眺めながら、深いため息をつくミドリの元へ、カケルが、意を決したように、歩み寄ってきた。
「……ミドリ」
「あ、カケル……」
「悩み事か?」
その、あまりにも単刀直入な問いに、ミドリは、びくりと肩を震わせた。
「う、ううん! なんでもない!」
慌てて笑顔を作り、ぶんぶんと首を横に振る。だが、その笑顔が、ひどくぎこちないことを、カケルは見逃さなかった。
カケルは、それ以上、追及はしなかった。ただ、ふう、と一つ息をつくと、全く違う話題を口にした。
「気分転換に、いいものを見せてやる」
「え?」
「『歌う花』、覚えてるか?」
その言葉に、ミドリは、はっと顔を上げた。この世界に来たばかりの頃、彼が教えてくれた、あの不思議な花のことだ。
「うん、もちろん!」
「今が、一番綺麗に歌う頃なんだ。見に行かないか?」
その誘いは、あまりにも、唐突だった。
「普段は、人が寄り付かない場所だ。少し、危ない魔物も出る。だが、俺がついていれば、大丈夫だ」
カケルは、そう言うと、ミドリの目を、まっすぐに見つめた。その瞳には、有無を言わせぬ力強さと、彼女を心配する、不器用な優しさが満ちていた。
ミドリは、その誘いを、断ることなんてできなかった。悩みが晴れるわけではない。でも、カケルと、二人きりで出かける。その事実に、彼女の沈んでいた心は、久しぶりに、明るく高鳴っていた。
「……うん、行く! 連れて行って!」
「よし、決まりだな。明日の朝、準備して待ってろ」
そう言うと、カケルは、少しだけ満足そうな顔をして、踵を返した。
その夜、ミドリは、久しぶりに、胸のときめきで、なかなか寝付けなかった。そして、カケルもまた、自室で、ミドリから贈られたばかりの剣を、何度も、何度も、月明かりの下で磨き上げていた。明日、初めて、この剣で、彼女を守るのだ。そう思うと、彼の胸もまた、武者震いと、そして、甘い期待で、満たされていくのだった。
◇
翌朝、二人は約束通り、『歌う花』を見に行くことにした。
カケルは、背中にいつもの弓を、そして、腰には、ミドリから贈られた真新しい剣を、誇らしげに差している。その姿は、いつにも増して、頼もしく見えた。
「行こうか」
「うん!」
二人は、村人たちの「お似合いの二人だねえ」とでも言いたげな、温かい視線を背中に感じながら、森の奥へと、足を踏み入れた。
道中の空気は、穏やかで、心地よかった。カケルは、時折足を止め、森の植物や、動物の足跡について、ミドリに教えてくれる。
「あれは、『眠り茸』だ。食べると三日三晩、目が覚めなくなる。気絶させたい相手がいるなら、おあつらえ向きだな」
「こわっ! 絶対に食べたくない……」
そんな、他愛のない会話を交わしながら歩く時間は、ミドリにとって、何物にも代えがたい、宝物のような時間だった。
どれくらい歩いただろうか。森の景色が、徐々に、神秘的な雰囲気を帯びてきた。木々の幹は白く輝き、地面には、光る苔が、まるで天の川のように、点々と広がっている。
やがて、カケルが、立ち止まった。
「……着いたぞ」
彼の視線の先を追って、ミドリは、息を呑んだ。
そこは、緩やかな谷間のようになっており、一面に、見たこともない、純白の花が咲き乱れていた。一つ一つの花が、まるで、小さな鈴のような形をしている。
その、幻想的な光景に、ミドリが心を奪われていた、その時。
谷を渡る、心地よい風が、ふわりと吹き抜けた。
チリン、チリン……リリ……ン……。
風に揺れた、無数の花々が、一斉に、歌い始めたのだ。それは、まるで、何千、何万もの、小さな風鈴が奏でるような、どこまでも清らかで、美しい音色だった。
「……すごい……」
ミドリは、その場に立ち尽くし、ただ、うっとりと、その天上の音楽に、聞き惚れていた。レオのことも、村のことも、自分の悩みも、全てが、この美しい音色の中に、溶けて消えていくようだった。
カケルも、そんなミドリの横顔を、言葉もなく、ただ、優しい目で見つめていた。彼女をここに連れてきて、よかった。心の底から、そう思った。
どれくらいの時間が、経っただろうか。日が、少しずつ西に傾き始め、森に、夕暮れの赤い光が差し込み始めた。
「……そろそろ、戻ろうか」
カケルが、名残惜しそうに、そう言った、その時だった。
風が、ぴたり、と止んだ。
あれほど美しく響き渡っていた、花の歌が、まるで、指揮者のタクトが振り下ろされたかのように、一斉に、鳴り止んだ。
不自然なほどの、静寂。
ぞわり、とミドリの背筋を、悪寒が走り抜けた。
「……カケル?」
カケルは、答えない。彼の全身から、今まで感じたことのない、鋭い緊張感が放たれていた。彼は、ミドリをかばうように、その前に立つと、静かに、腰の剣に、手をかけた。
「……何か、来る」
ガサリ、とすぐ近くの、巨大な岩陰の茂みが、大きく揺れた。
次の瞬間。
グルルルルルル……!
地の底から響くような、憎悪に満ちた唸り声と共に、一つの巨大な影が、その姿を現した。
それは、小山のように巨大な、漆黒の熊だった。その体躯は、並の家屋ほどもあり、鋭い爪は、一本一本が短剣のようにきらめいている。
そして、何より、その顔。
右目は、爛々と、獲物を捉える獣の光を宿している。だが、左目は、古傷によって、醜く潰されていた。
「……バドア……!」
カケルの口から、絞り出すような、憎悪に満ちた声が漏れた。
間違いない。
彼の両親の命を奪った、隻眼の魔熊。
この森の、最悪の絶望が、今、二人の目の前に、その巨大な牙を剥いて、立ちはだかっていた。
ご一読いただきありがとうございます!
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