幕間 旅人の食卓
領都アッシュフォードの心臓部、目抜き通り。馬車が行き交い、着飾った貴族や裕福な商人たちが闊歩するその一等地に、その店はあった。
磨き上げられたオーク材の重厚な扉、季節の花々が彩る大きなガラス窓、そして金文字で優雅に綴られた『旅人の食卓』の看板。その隣には、アッシュフォード侯爵家から直々に賜った『御用達』の紋章が、誇らしげに掲げられている。
ひとたび扉を開ければ、そこは幸福な喧騒と、理性を蕩かすような美味なる香りに満ちた別世界だ。高い天井からはシャンデリアが柔らかな光を投げかけ、清潔な白いテーブルクロスの上では、神から贈られたという美しい食器と銀のカトラリーが輝いている。
「十三番テーブル、メインの『熟成ボアのジューシーステーキ』、お願いします!」
「かしこまりました!」
ホールを滑るように行き交う、揃いの制服に身を包んだプロの給仕たち。その中心で、若き支配人として店全体に気を配るのは、太陽のような笑顔を浮かべた妹のラーラ(十七歳)だ。
そして、その活気の源である厨房は、まさに戦場であり、聖域だった。十数人の料理人たちが、無駄のない動きで鍋を振り、炎を操る。その中央、全ての工程を見渡し、絶対的な司令塔として君臨するのが、この店の創造主、ユーユ。齢十九。艶やかな黒髪をきゅっとポニーテールにまとめ、店のシンボルであるコロッケの刺繍が入った、汚れ一つない純白のコックコートに身を包んでいる。
「マーク料理長、焼き加減は完璧です!」
「リリアさん、前菜の盛り付け、素晴らしいわ」
父マークは今や店の肉料理を統括する料理長となり、母リリアは前菜とデザート部門の責任者だ。侯爵家からの支援で雇い入れた腕利きの料理人たちも、この若すぎる総料理長に絶対の信頼を寄せている。
そんな熱狂的なランチタイムが終わり、店に穏やかな午後の光が差し込む頃。ユーユは店の二階にある自室兼執務室で、新しいデザートのレシピを前にうんうんと唸っていた。
「うーん、もう一味、何かが足りない……。カカノンは確かに革命的だったけど、それに頼ってばかりもいられない。何か、この世界ならではの、新しい驚きが欲しい……」
店の経営は盤石だった。だが、彼女の料理人としての魂は、常に未知なる美味を求めて渇望していた。
コンコン、と控えめなノックの音。
「ユーユ、入るよ」
穏やかな声と共に部屋に入ってきたのは、彼女の夫であり、人生のパートナーであるカインだった。彼は店の経営面と外部との交渉を一手に担っており、今はちょうど侯爵邸での打ち合わせから戻ったところだった。
「お帰りなさい、カイン。お疲れ様」
「ああ、ただいま。……また難しい顔をしているね。僕には分かるよ。君がその顔をしている時は、厨房の誰かが悲鳴を上げるような、新しい料理を思いつこうとしている時だ」
カインは悪戯っぽく笑うと、ユーユの隣に座り、彼女が淹れたハーブティーを一口飲んだ。
「バレてた?」
ユーユは苦笑する。
「そうなの。新しいデザートを考えているんだけど、行き詰まってしまって。私の記憶にある食材は、もうほとんど試し尽くしてしまった。何か、根本的に新しいインスピレーションが欲しいのよ」
その言葉には、天才料理人としての、そして、この世界では異邦人である彼女の、かすかな焦りが滲んでいた。
カインは、そんな彼女の手を優しく握った。
「君の料理は、いつだって僕たちを驚かせてくれるよ。でも、焦ることはない。君は一人じゃないんだから」
彼の紺碧の瞳は、いつもユーユを絶対的に信じ、支えてくれる。
「そうだ」
とカインは言った。
「明日、商人ギルドへ行ってみたらどうだろう。ギルドマスターのガイガー氏は、いつも珍しい食材の情報を君のために取っておいてくれているだろう? 気分転換になるだろし、何か新しい発見があるかもしれない」
「商人ギルド……そうね、その手があったわね! ありがとう、カイン!」
ユーユの顔が、ぱっと輝いた。夫の何気ない一言が、閉ざされていた思考の扉を、いとも容易く開けてくれる。この人が隣にいてくれるから、私は前に進めるのだ。
◇
翌日、ユーユはアッシュフォード商人ギルドの本部を訪れていた。懇意にしているギルドマスターとの商談を終え、雑談の中で、彼女は新しい食材の噂について尋ねてみた。
「ほう、面白い噂、でございますか」
ギルドマスターは、髭を撫でながら少し考え込み、やがて思い出したようにポンと手を打った。
「そういえば、数週間ほど前に、少し変わった若い行商人が訪ねてきましてな」
「行商人?」
「ええ、レオと名乗る、なかなかに腕の立つ男です。彼が、奇妙な相談を持ちかけてきたのです。『まだ現物はないのだが』と前置きした上で、『生のまま食べられる、驚くほど瑞々しくて甘い葉物野菜の価値を見積もってほしい』と」
「生のまま……ですか」
ユーユの料理人としてのアンテナが、ぴくりと反応した。
「左様。私も最初は戯言かと。ですが、彼の熱意があまりに凄まじい。聞けば、西の果てにある、名もなき開拓村で、それを見つけたとか」
ギルドマスターは、少し声を潜めた。
「興味が湧きましてな。少しだけ、その村について調べさせてみたのです。すると、実に奇妙なことが分かりました」
彼は、一枚の羊皮紙をユーユの前に広げた。
「その村は、ほんの半年足らず前まで、痩せた土地で大麦もろくに育たない、領内でも指折りの貧しい村でした。それが、ここ数ヶ月で、にわかには信じられないほどの豊作に恵まれている、と」
「……たった数ヶ月で?」
「ええ。原因は、どうやら、その頃に村に流れ着いた、一人の不思議な少女にあるようでして」
その言葉に、ユーユの胸が、小さく音を立てた。
「その少女が畑をいじり始めてから、まるで魔法のように土地が蘇った、と。そして……」
ギルドマスターは、まるで御伽噺でも語るかのように、声を潜めた。
「その村が豊かになった本当の秘密は、その少女が咲かせたという、『魔法のバラ』にある、と村人たちは噂しているそうで」
「……バラ?」
今度は、はっきりとユーユの表情が変わった。
「ええ。赤、ピンク、黄、紫……色とりどりのバラが畑を囲んでおり、その花が咲いてから、土地そのものが生き返ったように肥沃になった、と。……馬鹿げた話ですが、何かがあるのは間違いなさそうですな。その少女の名は、確か……」
ギルドマスターは、手元のメモに目を落とした。
「……ミドリ、と。黒い髪をした、大人しい娘だそうで」
ミドリ。
その響きは、明らかに、この世界の名前ではなかった。
ユーユは、静かに立ち上がった。
彼女の瞳には、先程までの穏やかな光とは違う、新しい味を求める料理人としての探究心と、まだ見ぬ同郷人への抗いがたい好奇心、そして、この世界の理そのものへの挑戦にも似た、力強い炎が宿っていた。
西の果ての、名もなき村。
魔法のバラを咲かせ、奇跡の野菜を育てる、黒髪の少女。
(ミドリ……さん)
私のコロッケと、あなたの野菜。
もし、この二つが出会ったなら、一体どんな奇跡が起きるのだろう。
その夜、ユーユは自室の壁に貼られた大きな領地の地図の前に、カインと共に立っていた。
「……というわけなの。信じられる?」
彼女から一部始終を聞いたカインは、腕を組んで静かに頷いた。
「魔法のバラか。にわかには信じがたいが、君という存在を知っている僕には、あり得ない話だとは思えないな。だが、気をつけなければいけない。奇跡は、時として人の欲望を呼び覚ます」
彼の言葉は、貴族として生きてきた者の冷静な忠告だった。そして、夫として、彼女の身を案じる優しさに満ちていた。
ユーユは、アッシュフォードから西へ、指を滑らせる。地図の端、森と山に囲まれた、小さな点の集まり。そこが、彼女の村だろうか。
カインは、そんな彼女の指先に、そっと自分の指を重ねた。
(面白いじゃない)
ユーユの唇に、不敵な笑みが浮かんだ。
「ミドリという少女が、大地から奇跡を咲かせるなら……私は、その奇跡を、最高の一皿に咲かせてみせる」
彼女の、そして、もう一人の少女の運命が、今、まさに交差しようとしているのを、領都の空に輝く月だけが、静かに見守っていた。
「転生したら、料理スキルしか取り柄のない少女でした。得意の料理で、病弱な侯爵の息子の胃袋を掴んで幸せになります」から、再びユーユ夫妻に登場していただきました。
今後どんな展開になるか、楽しみにお待ちください(^^)




