11 旅立ちの予感と嫉妬の影
村のすべての畑が、希望の緑の砦で囲まれてから、季節は穏やかにその色を深めていった。ミドリが植えたバラの生垣は、まるで彼女の魔法に応えるかのように力強く根を張り、その守護の腕の中で、村の野菜たちは健やかに、たくましく育っていった。
畑仕事は、もはや苦役ではなかった。それは、明日への希望を育む、喜びに満ちた営みへと変わっていた。村人たちの顔からは、かつての諦観の色が消え、自分たちの手で未来を切り開いていけるのだという、静かな自信と活気が満ち溢れていた。
そんな、穏やかで満ち足りた日々が続いていた、ある日の昼下がり。
チリン、チリン――。
澄み切った秋空に、どこか心を弾ませるような、軽やかな鈴の音が響き渡った。その音に最初に気づいたのは、広場で遊んでいた子供たちだった。
「あ! この音は!」
「レオ兄ちゃんだ!」
子供たちの歓声が、村中に幸せな報せとなって駆け巡る。畑仕事をしていた大人たちも、思わず顔を上げ、その音のする方へと視線を向けた。
やがて、森の小道の向こうから、一頭のたくましい馬が引く、幌付きの大きな荷馬車が姿を現した。御者台に座るのは、亜麻色の髪を風になびかせ、快活な笑みを浮かべた行商人、レオその人だった。
「よう、みんな! 約束通り、また来たぜ!」
彼の今回の目的は、ただ一つ。あの、一度口にして以来、夢にまで見た小松菜を、何としてでも手に入れること。そして、あわよくば、あの黒髪の可憐な少女、ミドリともう一度……。そんな商魂と下心が入り混じった期待に、彼の胸は大きく膨らんでいた。
しかし、彼が村の入り口に差し掛かり、いつものようにカケルの家の方へ馬首を向けた、その瞬間。レオは、自身の目を疑う光景を目の当たりにし、思わず馬の手綱を強く引き締めた。
「なっ……!?」
カケルの家の裏手、以前はただの荒れ地だったはずの、あの小さな畑。その周囲をぐるりと囲むようにして、燃えるような真紅、少女の頬のような淡いピンク、平和な微笑みを思わせるクリームイエロー、そして、夜空の神秘を閉じ込めたかのような深い紫色の、完璧なフォルムを持ったバラたちが、満開の花を咲かせ、誇らしげに咲き誇っていたのだ。
それは、彼が今まで見てきた、どんな花とも違っていた。アッシュフォード侯爵家の庭園で見たどんな高価なバラよりも気高く、王都の貴族たちが競って買い求めるどんな珍しい花よりも、生命力に満ちて輝いている。まるで、花びらの一枚一枚が、職人の手によって磨き上げられた宝石そのもののようだった。
レオは、行商人として、様々な町や村を巡り、数多くの美しいものを見てきた自負があった。だが、これほどまでに、一瞬で心を、魂を奪われたのは初めてだった。商売のことも、小松菜のことも、何もかもが頭から吹き飛んで、ただ呆然と、その神々しいまでの美しさに心を奪われていた。
「……おい、レオ。どうした、入り口で突っ立って。幽霊でも見たか?」
背後からかけられた、ぶっきらぼうな声で、レオははっと我に返った。振り返ると、弓を背負ったカケルが、怪訝そうな顔でこちらを見ている。
「カ、カケル……! あ、あれは……あの花は、一体……!?」
レオは、震える指で、畑を指差した。カケルは、その視線の先を認めると、さも当然といった顔で、ぶっきらぼうに答える。
「ああ。ミドリが、育てたんだ」
「ミドリちゃんが!?」
その名前を聞いた瞬間、レオの心臓が再び大きく跳ねた。あの可憐な少女が、この奇跡のような花を? 彼は、我慢できずに馬車から飛び降りると、一直線にミドリのいる畑へと駆け寄った。
「ミドリちゃん!」
畑の隅で、新しく作った畝の土を触っていたミドリは、その声に驚いて顔を上げた。
「レオさん! また、来てくれたんですね」
「来てくれたんですね、じゃないよ! この花は、一体どういうことだい!? こんな素晴らしいバラ、領都でも王都でも、見たことがない! 天国の花園から、こっそり持ってきたのかい!?」
興奮のあまり、矢継ぎ早にまくし立てるレオに、ミドリは少し困ったように微笑んだ。
「これは、私の故郷の花です。この土地の土が、とても合ったみたいで」
「故郷の花……! なんて素晴らしい故郷なんだ!」
レオは、商人としての本能を、もはや隠そうともしなかった。
「ミドリちゃん、お願いだ! このバラを、俺に売ってくれないか!? これなら、アッシュフォードの貴族の奥方たちが、金貨をいくらでも出すぞ! いや、王都に持っていけば、一輪で大金貨の値がつくかもしれない! 君は、億万長者になれるんだ!」
その熱烈な懇願に、しかし、ミドリは静かに首を横に振った。
「ごめんなさい、レオさん。それはできません」
「な、なんでだい!?」
「この花は、見た目以上に、とても繊細なんです。長旅の揺れや、乾燥には、きっと耐えられません。アッシュフォードに着く頃には、きっと萎れて、その価値はなくなってしまいます」
その冷静で的確な返答に、レオはぐっと言葉に詰まる。確かに、これほどの完璧な美しさは、極めて脆いものだろう。諦めきれない、という表情で食い下がるレオに、彼は商人としての最後の切り札を切った。
「……運搬方法なら、心当たりがある」
「え?」
「俺の馴染みの客にね、王都の錬金術師がいるんだ。その人が作った特別な運搬箱がある。箱の中の振動を限りなくゼロに抑えて、常に最適な湿度と温度を保つことができる、魔法の箱さ。それを使えば、きっとこの花の美しさを損なわずに、アッシュフォードまで運べるはずだ」
その、思いがけない言葉。ミドリの頭の中に、稲妻のような閃きが走った。
(魔法の箱……。それなら……)
彼女の脳裏に、前回、レオが口にした、あの謎の言葉が蘇る。「コロッケ」。まだ見ぬ同郷人の存在の可能性。この村に来てからずっと、心のどこかで燻り続けていた好奇心の炎が、一気に燃え上がった。
「……レオさん」
ミドリは、意を決して顔を上げた。その瞳には、今まで見せたことのない、強い意志の光が宿っていた。
「もし、その魔法の箱が本当にあるのなら。……その箱でアッシュフォードの町まで、私も一緒に、連れて行ってはもらえませんか?」
「……えっ?」
今度は、レオが驚く番だった。思いがけない逆提案に、彼は一瞬、言葉を失う。だが、すぐにその意味を理解し、彼の顔がぱあっと喜びに輝いた。ミドリと二人で、旅ができる? こんな、渡りに船の話があるだろうか。
「も、もちろんだとも! 大歓迎だ! 君が来てくれるなら、百人力だよ!」
こうして、二人の奇妙な交渉は、あっけなく成立した。
今回の取引として、レオはまず、本来の目的だった小松菜を、破格の値段で買い取った。
「よし、ミドリちゃんの小松菜、一束につき銀貨三枚でどうだ! それを、四十束! 合計で銀貨百二十枚! 前金として、半分、今ここで払おう!」
銀貨百二十枚。普段まったく見たこともないような金額に、周りで見守っていた村人たちから、どよめきが起こった。ミドリは、その大金を受け取ると、村のまとめ役であるロイドに、そっと手渡した。
「これは、村のものです。みんなで、必要なものを買うのに使ってください」
その、あまりにも自然な行動に、村人たちは改めてミドリへの尊敬の念を深めた。
レオは、荷馬車に小松菜を丁寧に積み込むと、意気揚々とミドリに向き直った。
「それじゃあ、俺は一度アッシュフォードに戻って、例の箱を準備してくる! なるべく急いで、三週間後には必ず戻ってくるから、それまでに、準備をしておいてくれるかい?」
「はい、分かりました」
「約束だぞ!」
レオは、ミドリにだけ聞こえるように、そう囁くと、悪戯っぽく片目を瞑ってみせた。そして、御者台にひらりと飛び乗り、来た時と同じように、陽気な鈴の音を鳴らしながら、颯爽と村を去っていった。
その、最初から最後までの一部始終を、少し離れた場所から、カケルが、苦虫を噛み潰したような顔で、黙って見つめていた。
ミドリが、村の外の世界に目を向け始めたことへの、言いようのない寂しさ。
レオの、あからさまな好意に対する、黒い嫉妬の炎。
そして、そんな感情を、素直に口に出すことのできない、自分自身の不器用さへの、もどかしさ。
様々な感情が、彼の胸の中で、荒れ狂う嵐のように渦巻いていた。しかし、彼は、その嵐を、ただ、心の奥底に押し殺すことしかできなかった。
ミドリが、自分のものではない、どこか遠い存在になってしまうかもしれない。そんな、漠然とした不安の影が、カケルの心に、静かに、そして、重く、のしかかってくるのだった。
ご参考までに貨幣価値の目安です。
銅貨1枚 ・・・百円程度
銀貨1枚 ・・・千円程度
大銀貨1枚・・・5千円程度
金貨1枚 ・・・1万円程度
大金貨1枚・・・10万円程度




