10 接ぎ木という魔法 願いを込めて
広場を埋め尽くした宴の熱気は、夜が明けてもなお、村の隅々に残り火のように燻っていた。
焚き火の跡から立ち上る微かな煙の匂いと、昨夜の陽気な笑い声の残響が、まるで村全体を優しい毛布のように包み込んでいる。ほくほくとろけるじゃがいもの食感、じゅわりと旨味の溢れる焼きナス、そしてこれまで知らなかったきゅうりの爽やかな歯触り。
それらは、先日の小松菜とかぼちゃが灯した希望の光を、さらに大きく、確かなものへと変えていた。ただ飢えを満たすための作業ではない、明日を生きるための活力と、ささやかな幸福そのものだった。
その翌朝。私は、村の誰よりも早く目を覚まし、夜明け前の薄闇の中、カケルの家の裏手にある、私の小さな王国へと向かった。ひんやりとした朝の空気を胸いっぱいに吸い込むと、土と植物が混じり合った生命の匂いがして、不思議と心が凪いでいく。ここが、今の私の居場所。私の戦場であり、聖域だった。
「さあ、始めましょうか」
私は、決意を新たに、独り言ち、きゅっと袖をまくった。今日は、この村の未来を左右する、大切な一日になる。
私が畑に到着する頃には、既に数人の人影があった。ノフーを先頭に、村の若者たちが数人、そしてロイドさんの娘のリーナちゃんを筆頭とした子供たちが、興味津々といった様子でこちらを見ている。昨夜、私が口にした「接ぎ木」という魔法の言葉が、彼らの心を掴んで離さないらしかった。
「ミドリ姉ちゃん! 本当に、あの枝っぽこから、花が咲くのか!?」
ノフーが、期待に目を輝かせながら駆け寄ってくる。その背後では、カケルが腕を組み、大きな木の幹に寄りかかりながら、静かにこちらを見守っていた。その表情は、信頼と、ほんの少しの心配が入り混じった、複雑な色をしていた。
「ええ、見てなさい。今から、この子たちに、新しい命を吹き込んであげるんだから」
私はにっこりと笑うと、まず、台木となる植物の選定から始めた。台木、つまり新しい枝を繋ぐための、土台となる根っこの部分だ。生命力が強く、この土地の厳しい環境にも順応している植物でなければならない。
「みんな、森の縁に生えてる、あのトゲトゲの木を知ってる?」
私が指差したのは、村の周りのどこにでも生えている、ありふれた野生のイバラだった。村人たちは、薪にするか、邪魔だから刈り取るくらいで、誰も気にも留めない植物だ。
「ええ? あのイバラにかい?」
ロイドさんが、訝しげな声を上げる。
「うん。あの子はね、すごく生命力が強いの。どんなに痩せた土地でも、しっかり根を張って、たくさんの水を吸い上げる力を持ってる。このイバラの力強い根っこに、私のバラの特別な枝を繋いであげるのよ」
私は、農業高校で使っていたのと同じ、よく切れる小さなナイフを取り出すと、まず、聖域で元気に育った『クリムゾン・グローリー』の枝を、慎重に切り取った。そして、掘り出してきたばかりの若いイバラの根に近い部分を、同じくらいの角度で、スパッと切り落とす。
村人たちが、固唾を飲んで見守る中、私は二つの切り口を、ぴったりと合わせた。まるで、二つの違う命が、手を取り合うように。
「こうして、二つの命を一つにするの。そして、この繋ぎ目が乾かないように、湿らせた苔を巻いて、麻紐で優しく、でも、しっかりと固定してあげる。そうすれば、イバラの根っこが吸い上げた栄養や水が、バラの枝に送られて、やがて、イバラの木から、美しいバラの花が咲くようになるのよ」
私の淀みない説明と、無駄のない手つきに、村人たちから「おお……」と、感嘆のため息が漏れた。それは、彼らの知らない、全く新しい世界の魔法だった。
「すっげえ……! まるで、体の悪いところに、薬草を塗ってやるみたいだ!」
ノフーの素直な感想に、私はくすりと笑った。
「そうね。植物のお医者さん、みたいなものかしら」
作業を進めるうちに、私の頭の中には、懐かしい記憶が鮮やかに蘇っていた。ゲーム『飛び散れ動物の肉』、通称『飛び肉』の世界。コーサク島で、来る日も来る日も、花の交配に明け暮れていた、あの頃の記憶だ。
(赤と白のチューリップで、ピンクが咲いて……黄色と赤のパンジーからは、オレンジが生まれて……)
遺伝子の法則に基づいた、あの緻密なシステム。それは、この世界でも通用するのだろうか?
(もし、この『クリムゾン・グローリー』の枝を、あの紫色の『ミッドナイト・ブルー』が育った台木に接いだら……? 赤と紫……もしかしたら、もっと深くて、ベルベットのような、新しい赤が生まれるかもしれない……!)
思考が、どんどん飛躍していく。
(この世界の土には、私の知らない不思議な力が満ちている。バラたちも、元の世界では考えられないほどのスピードで成長した。だとしたら……。だとしたら、もしかしたら……!)
私の胸が、とくん、と大きく高鳴った。
(ゲームの世界でさえ、どうしても咲かせることができなかった、あの幻の花……。黄金に輝く、金色のバラが、この世界なら、本当に、咲かせられるかもしれない……!)
その、あまりにも甘美で、壮大な夢想に、私は一人、頬を紅潮させ、うっとりとした表情で、天を仰いだ。
「……おい、ミドリ。何、にやにやしてんだ。気持ち悪いぞ」
カケルの、呆れたような声で、私ははっと我に返った。いつの間にか、彼は私のすぐ隣に立って、怪訝そうな顔で私の手元を覗き込んでいた。
「えっ!? い、いや、別に! なんでもない!」
「ふうん。まあ、いいが。……手、震えてるぞ」
「こ、これは、集中してるからよ!」
慌てて取り繕う私を見て、カケルは「やれやれ」と首を振りながらも、その口元は、かすかに笑みの形を描いていた。
接ぎ木の準備作業は、村の若者たちが積極的に手伝ってくれたおかげで、驚くほど順調に進んだ。ノフーは、私の指示を誰よりも正確に理解し、他の若者たちに的確な指示を飛ばす、優秀な現場監督になっていた。
子供たちは、苔を集めたり、麻紐をちょうど良い長さに切ったりと、自分たちにできることを見つけては、楽しそうに働いている。
村全体が、一つの大きな家族のように、同じ目標に向かって心を一つにしていた。その温かい一体感の中心に自分がいるという事実が、私の心を、今まで感じたことのない、深い幸福感で満たしていった。
二日間で、百本以上の接ぎ木苗が完成した。それは、この村の未来を背負う、希望の苗床だった。
そして、いよいよ、植え付けの日がやってきた。
朝一番、私たちはロイドさんの家の畑へと向かった。ロイドさんは、まるで我が子の誕生を待つ父親のように、そわそわと落ち着かない様子で、私たちを出迎えてくれた。
「ミドリちゃん、本当に、うちの畑にも、あの花が……?」
「はい。任せてください」
私は力強く頷くと、ノフーとカケルに目配せをした。二人は、私の指示通り、畑をぐるりと囲むように、等間隔で穴を掘っていく。その穴の一つ一つに、私が、祈りを込めるように、接ぎ木したばかりのバラの苗を、そっと植えていった。
「この子が、ロイドさんたちの野菜を、病気から守ってくれますように」
その光景を、ロイドさん一家は、息を詰めて見守っていた。リーナちゃんが、私の隣にちょこんとしゃがみこみ、小さな指で、植えられたばかりの苗に、そっと触れる。
「……きれいな、お花、咲くといいね」
「ええ、きっと、咲くわ。リーナちゃんの笑顔みたいに、可愛いピンクの花がね」
その日一日で、私たちは村の半分の家の畑を回りきった。どの家でも、村人たちは、感謝と期待に満ちた目で、私たちを迎えてくれた。
翌日も、作業は続いた。村の最後の家、エルマばあちゃんの小さな畑に、最後の一本を植え終えた時には、西の空が、美しいバラ色に染まり始めていた。
「終わった……!」
ノフーが、額の汗を拭いながら、満足げな声を上げる。村の全ての畑が、希望の緑の砦で、ぐるりと囲まれた瞬間だった。
「いいえ、まだよ」
私は、悪戯っぽく笑うと、最後の仕上げに取り掛かった。大切に取っておいた、ビニール袋の奥から、一つのパッケージを取り出す。そこには、ふっくらとした、美味しそうなかぼちゃの絵が描かれていた。
「さあ、みんな! 前回、あのお団子でみんなを夢中にさせた、あのかぼちゃの種よ。あれだけじゃ、まだまだ食べ足りなかったでしょう?」
私の言葉に、「うん!」「もっと食べたかったー!」と子供たちの元気な声が響く。
「このバラがみんなの野菜を守ってくれれば、今度はもっともっとたくさん、あの甘いかぼちゃが実るはず。みんなのお腹と心を、もっと甘く、温かく満たしてくれるように、願いを込めて蒔きましょう」
私は、バラを植え終えたばかりの、それぞれの家の畑の隅に、数粒ずつ、かぼちゃの種を蒔いていった。その一粒一粒に、村人たちの笑顔と未来への希望が詰まっているようだった。最後まで作業を見守ってくれていた村人たちが、再び、感謝の言葉を口にした。
全ての作業を終え、カケルと二人、彼の家へと続く緩やかな坂道を歩いていた。夕日が、私たちの影を、長く、長く、地面に伸ばしている。
眼下には、夕焼けに染まる、小さな開拓村の全景が広がっていた。家々の煙突からは、夕食の準備なのだろう、細く白い煙が立ち上っている。そして、その家々を取り囲むように点在する、十の畑。その全てが、今日、私たちが植えた、小さなバラの苗で、優しく縁取られていた。
「……本当に、やったんだな」
隣を歩くカケルが、感嘆の息を漏らすように、ぽつりと呟いた。
「うん。でも、私一人じゃ、絶対に無理だった。カケルが、ノフーが、村のみんなが、手伝ってくれたからだよ」
「……それでも、最初に希望の種を蒔いたのは、お前だ」
カケルは、立ち止まると、まっすぐに私を見つめた。その真剣な眼差しに、私の心臓が、また、小さく跳ねる。
「ミドリ。お前が、この村に来てくれて、よかった」
それは、今まで聞いた、どんな言葉よりも、温かくて、心の奥深くに、じんわりと染み渡る言葉だった。
夕日に照らされた彼の横顔が、あまりにも眩しくて、私は何も言えなくなってしまった。ただ、赤くなる頬を隠すように、俯くことしかできない。
言葉は、なかった。
けれど、私たちの間には、同じ未来を見つめる、確かな絆と、これから始まる物語への、温かい希望が、確かに満ちていた。
夕焼けに黄金色に輝く村の畑で、小さなバラの苗と、かぼちゃの種が、静かに、力強く、未来へと根を伸ばし始めていた。




